■急に具合が悪くなる


■オススメ度

 

運命的な邂逅を描いた作品に興味のある人(★★★)

 


■公式予告編

 

鑑賞日:2026.6.24(TOHOシネマズくずはモール)


■映画情報

 

仏題:Soudain(突然に)、英題:All of a Sudden(突然に)

情報:2026年、日本&フランス&ドイツ&ベルギー、196分、G

ジャンル:介護施設の施設長と舞台演出家の邂逅を描いたヒューマンドラマ

 

監督:濱口竜介

脚本:濱口竜介&ルディムナ玲亜

 

キャスト:

ヴィルシニー・エフィラ/Virginie Efira(マリー=ルー・フォンテーヌ/Marie-Lou Fontaine:「自由の庭」の施設長)

岡本多緒(森崎真理:癌と向き合う演出家)

長塚京三(清宮吾朗:俳優)

黒崎煌代(窪寺智樹:吾朗の孫)

 

Jean-Charles Clichet(オリヴィエ/Olivier:副施設長)

 

Marie Bunel(ソフィー/Sophie:ベテラン看護師)

Marie Denarnaud(ロランス/Laurence:看護師長)

Louise Massin(アンナ/Anna:マリオンと一緒に辞める看護師)

Rose Bourdon(ステファニー/Stéphanie:ジブリルの教育係の看護師)

 

Romain Cottard(ダミアン/Damien:劇に感銘を受けるアニマーター)

Héloïse Janjaud(ヴァネッサ/Vanessa:アニマーター、「ヴァネッサの部屋」)

 

Gabriel Dahmani(ジブリル/Djibril:ラップ好きの新人介護士)

Séphora Pondi(アディジャ/Adidja:猫を飼っている介護士)

Heidi Becker-Babel(マリオン/Marion:自宅で介護を始めたい介護士)

Prescilia Follin(ヤスミン/Yasmine:若い介護士)

Augustin Ruhabura(イスマイル/Isamail:施設の医師)

Paul Jeanson(パスカル/Pascal :施設の事務方)

Lazare Gousseau(クロード/Claude:ユマニチュードの指導員)

 

Jérôme Chappatte(フィリップ・ムラーノ/Philippe Murano:かつて高圧的だった利用者)

Geneviève Emanuelli(ミシュリーヌ・ランデ/Micheline:当直中にコールする利用者、元パン屋さん)

Evelyne Istria(ミレーネ/Mireille:タバコをふかしている車椅子の利用者)

Guvlène Péan(アガタ・ベッケル/Agatha:元パイロットの利用者)

Charisitamne  Molénmat(ルイーズ・ファルコン/Louise:元教師、元体操選手の利用者)

Patrice Melmann(ループ・レナート/Loup Reichart:転倒する利用者)

Elisabeth Tamaris(シモーネ・デュリス/Simone Duris:利用者、指人形の老女)

 

Jean-Louis Garçon(ケヴィン/Kevin:理解を示す施設の理事)

Pascal Vannson(ファビエン/Fabien:頭の堅いパリ保健庁の役人)

 

Aurélia Petit(エディス・ムラーノ/Edith Murano:フィリップの妻)

Padrig Vion(モーリス・ムラーノ/Maurice Murano:フィリップの息子)

Pierre Benezit(ジル・デュリス/Gilles Duris:シモーネの息子)

Sonia Dridi(メラニー/Mélanie:シモーネの娘)

David Friezman(ルイーズの息子)

Ayden Rochelle(ルイーズの孫)

Élodie Hurber(ルイーズの娘)

Florentine Houdiniére(ルイーズの家族)

 

Mamadou Sidiné(ジャン/Jean:踊る若者)

Arthur Colzy(ジャック/Jacques:マリー・ルーの元カレ)

Romand Triffault(救急病院の看護師)

Elsa Bouchain(リュシー・エルノ/Lucie Ernaux:テアトル13のディレクター)

André Buyse(ピエール・セヴァー/Pierre Cevaer:劇の後で声をかける観客)

Amandine Escoffier(質問する劇の観客)

Hidetoshi Kawaya(中村/Dr Nakayama:真理の主治医)

 


■映画の舞台

 

フランス:パリ郊外

介護施設「自由の庭」

 

ロケ地:

フランス:パリ

ビュット・デュ・シャポー・ルージュ公園

https://maps.app.goo.gl/HvmLqPte1uxcHjNe8?g_st=ic

 

テアトル13/Théâtre 13

https://maps.app.goo.gl/GAQ9egWz6wrEsCcT7?g_st=ic

 

京都府:南丹市&京丹波町

 


■簡単なあらすじ

 

フランスのパリ郊外にて、モデル施設「自由の庭」の施設長を務めるマリー=ルーは、ユマニチュードの技法を浸透させようとしていた

だが、その手法は利用者一人にかかる時間が増え、現場からは反対の声が上がっていた

マリー=ルーは「全員が習得すれば楽になる」と言うものの、受講を終えていない半分の職員は懐疑的だった

 

ある日のこと、休日にトラムに乗っていたマリー=ルーは電車を追いかけてくる奇妙な少年を見つけた

少年はシャポー・ルージュ公園の方に消えていき、心配になった彼女は彼を探すために行方を追った

彼はGPS付きの防犯ベルを持っていて、そのスイッチと押してみる

雨が上がり、程なくして、彼の祖父・吾郎と、彼の仕事仲間の舞台演出家・真理がやってきた

真理は「テアトル13」で吾郎の一人芝居をしていると言い、しわくちゃのチラシを渡した

 

その後、舞台を観にきたマリー=ルーは奇抜な芝居に没頭して、質問タイムにてプライベートな心情を吐露する

真理は彼女が日本語で質問してきたことで、彼女だけにわかるように答えを紡いだ

ほどなく、プライベートでも会うことになったのだが、真理は末期癌に侵されていて、その余命は宣告を過ぎてもかろうじて繋がっていることを知ってしまうのである

 

テーマ:最期に感じる生命力

裏テーマ:命の感じ取り方

 


■ひとこと感想

 

宮野真生子と磯野真穂に捧げると言う文言が映画のラストに示され、劇内の哲学的かつ人類学的な考察というものが、この二人の学者から影響を受けていることがわかります

ユマニチュードに関しては、冒頭では「技法」が紹介されるのですが、後半には「革新的な実践意図」というものがマリー=ルーからスタッフに示されます

やってみればわかるというものから、自身の体験を通じて感じたことを「現時点でもわかるように伝える」という流れになっていて、その必要性というものを真理を通じて感じていくことになりました

 

映画は3時間超えの作品ではありますが、私の鑑賞回では30人ほど高齢者も含めていましたが、誰一人トイレに立つという人がいませんでした

長さはそこまで感じず、若干ラストが間延びしているかな、と感じる程度で、みなさんエンドロールの中盤まで耐えておられました

個人的にも食い入るように観る展開になっていて、それはどちらかと言えば施設目線(職業的な感じ)になっていたと思います

 

物語は、余命わずかな真理とマリー=ルーの交流を描く作品で、それぞれが自身の世界の中でもがいている様子が描かれます

特にマリー=ルーの問題は複雑で、いわゆるモデルケースとしての施設として、彼女に全権委任されている部分があります

それでも、国の補助などは頼りなく、負担に乗じた賃金の支払いをしたいというジレンマもありました

そこでエマニテュードを実践していこうという中で、その衝突は避けられないものとなっていて、理屈はわかるけど現場はそれどころではないという衝突が生まれていました

 


↓ここからネタバレ↓

ネタバレしたくない人は読むのをやめてね


ネタバレ感想

 

映画では、ある種の現場の疲弊に対する答えというものが描かれていて、それは限界を内側で溜めるのではなく、解放して境界線を曖昧にしようというものでした

ベテラン看護師のソフィーからすれば、自身が苦労して勝ち取った国家資格、それに準ずる責務というものを感じ取っていて、それを素人に丸投げするような方策は受け入れ難いと思います

それでも境界線を無くし、個人が介護と向き合う中で、プロを目指そうとする人もいるだろうし、施設の方針を家族も理解することになると言えます

 

ユマニチュードが利用者とどの距離で接するかというもので、「彼らの視点と肉体的かつ精神的な特徴を理解し、彼らの生命力を彼らの人生のために使わせてあげよう」ということになります

彼らが感じている時間感覚を理解し、彼らが畏れるものを理解することで、介護者と利用者という境界線を無くしていくという意味合いになると思います

これらの知識は、家族で介護をするときにも必要なスタンスであり、介護される側の人間のプロセスを知ることで、自身がそうなった時のイメージというものも湧いてくると思います

 

映画では、この境界線の設定の寓話として、資本主義と少子高齢化の問題を紐づけていて、資本主義の弊害としてその問題は必然であると結んでいきます

この結論には異論もあると思いますが、資本主義があるゾーンを犠牲にして成り立っているというのは言い得て妙という感じで、現在だと「個人の休息すら資本主義の枠組みの中の消費物」となっているように思います

SNSの発達により、仕事とプライベートの混濁も見られるし、瞬間的に業務と休息が入れ替わったりもします

それが良いのかはわかりませんが、人には限界というものがあるので、その逃避先が手元にあるという現代は、ある意味境界線がなくなっている、と言えるのかもしれません

 


120分で人生を少しだけ良くするヒント

 

認知症患者の目線というものは、当事者でしかわからないもののように思えますが、実際には観察眼によって、それを包括的に理解できるようになっています

確かめようなないことのように思えても、答えは患者のその行動に対する反応に現れていて、それが正解であるかは瞬時にわかるのだと思います

認知症患者はどこを見ているのかわからないという感じの見た目になっていますが、それは視覚を持って物事を見ているのではなく、心の中を旅している瞬間であるように思います

そうした先にある、彼らが見ている世界とは、結局のところ「彼ら自身の過去」であることが多いように思います

 

家庭内に認知症患者がいないので接近ということはなく、職場環境である程度接するというレベルなのですが、いわゆるプロがどのように接しているのかは見てきました

日本の現場でユマニチュードの概念があるのかはわかりませんが、この対応一つでも救急と病棟では違ったりもします

その目的が違うことで、そのひとつひとつの事象にどれだけ時間を割けるかというのも変わってくるのですね

病棟や施設などだと、日常のルーティンと利用者の数によって制限があり、救急だと目の前の問題の解決のためにそれが行われるようになります

ある意味、施設などの長時間接する場合には必要な技術でありますが、感覚的には技術というよりは、スタンスであるように感じられます

 

介護を行う上で、プロには「あなた以外にも関わらなければならない人がいる」という問題が生じ、家庭内では「家族にもプライベートとなすべきことがある」というものがあります

優先されるものが対象者だけではないというものがあり、突発的に起こっているように見える被介護者の言動というものが、介護者の動きを止めてしまう部分があります

ここで起こる抵抗とは、介護者の心理的かつ身体的に負担もありますが、そこで被介護者の「抵抗」を生むと、さらに悪化してしまうとも言えます

そう言った意味を総括的に考え、ゴールから逆算して培われた技法というものがユマニチュードであると思いますが、この浸透はパラダイムシフトがその人の中で行われないと難しいのでしょう

映画では、ソフィーがそれを行う人として描かれますが、それが為し得たのは「マリー=ルーがソフィーの目線に立ったから」であると言えるのではないでしょうか

 


■関連リンク

映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)

http://eiga.com/movie/103908/review/0664384/

 

公式HP:

https://www.bitters.co.jp/soudain/

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投稿者 Hiroshi_Takata

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