■異人が誰なのかを考えることで、物語の着地の理由が見えてくるのかもしれません


■オススメ度

 

記憶を巡る不思議な旅に興味のある人(★★★)

LGBTQ+関連の映画に興味のある人(★★★)

 


■公式予告編

鑑賞日:2024.4.25(MOVIX京都)


■映画情報

 

原題:All of Us Strangers(僕らはみな、見知らぬ人)

情報:2023年、イギリス、105分、R15+

ジャンル:幼少期に両親と死別した脚本家と同じマンションに住む青年との交流を描くヒューマンドラマ

 

監督&脚本:アンドリュー・ヘイ

原作:山田太一『異人たちとの夏』

Amazon Link(原作小説)→ https://amzn.to/3UxXRy9

Amazon Link(邦画版)→ https://amzn.to/3Uz6kBh

 

キャスト:

アンドリュー・スコット/Andrew Scott(アダム:幼い頃に両親を亡くした脚本家)

   (幼少期:Carter John Grout

ポール・メルカル/Paul Mescal(ハリー:同じマンションに住む青年)

 

ジェイミー・ベル/Jamie Bell(アダムの父)

クレア・フォイ/Claire Foy(アダムの母)

 

Ami Tredrea(ダイナーのウェイトレス)

 

Cameron Ashplant(10代の男)

Zachary Timmis(10代の男)

Jack Cronin(10代のの男)

 

Lincoln R. Beckett(ゲイバーの客)

Christian Di Sciullo(ゲイバーの店員)

Gsus Lopez(クラブの客)

Jack Pallister(クラブのダンサー)

Guy Robbins(クラブの店員)

 

Oliver Franks(クラブで踊るカップル)

Carolina Van Wyhe(クラブで踊るカップル)

 

Hussein Kutsi(タクシードライバー)

Darren Ryames(街ゆく通行人)

Sean Tizzard(列車を利用する父親)

 


■映画の舞台

 

イギリス:ロンドン

 

ロケ地:

イギリス:ロンドン

151 Purley Downs Road(両親の実家のあたり)

https://maps.app.goo.gl/VJ4y9v5tnt4eNRGJ8?g_st=ic

 

Sanderstead Recreation Ground(父と遊んだ公園)

https://maps.app.goo.gl/29arYZRgQgaDCjer8?g_st=ic

 

Whitgift Centre(よく行ったショッピングモール)

https://maps.app.goo.gl/jtkS5hBA2ASFaM4D8?g_st=ic

 

Insignia Point(アダムたちの住むタワマン)

https://maps.app.goo.gl/P1W8h9YridgURXGy8?g_st=ic

 

Royal Vauxhall Tavern(アダムたちが行くクラブ)

https://maps.app.goo.gl/j8PeWyQd7fD8p9AJ7?g_st=ic

 


■簡単なあらすじ

 

イギリスのロンドンのタワーマンションに住んでいる脚本家のアダムは、12歳の頃に両親を事故で亡くして以来、一人で生きてきた

ある日、マンションの火災報知器が鳴る騒ぎになって、外に出たアダムは、まだ部屋の中にいた青年と目を合わせた

 

その後、その青年はアダムの部屋を訪れ、一杯飲らないかと言う

面識がなく、突然の訪問に戸惑ったアダムはやんわりと断り、仕事に戻ることになった

 

ある日、幼少期を過ごした郊外の家を訪れたアダムは、そこで30年前に死んだはずの両親の姿を見つけてしまう

それからアダムは両親の家に行き来するようになり、そして、謎めいた青年ハリーとの関係をも深めていくことになった

 

テーマ:孤独からの脱却

裏テーマ:成長への橋渡し

 


■ひとこと感想

 

原作では「日本のジメジメした夏」と言うイメージがありますが、本作はロンドンなので、少し肌寒い感じがしましたね

シチュエーションが変わると孤独の感じ方も違うようですが、さらにアダムとハリーが同性愛と言う設定になっていました

 

山田太一の原作の設定を私小説に脚色したと言う印象になっていて、生きづらさとか孤独感というものの表現は独特のものに変わっているように思えます

あのタワーマンションにはアダムとハリーしか住んでいないというセリフがありましたが、心のバリアを張っていると、そのように見えるものかもしれません

 

映画は、映像美が独特で、柔らかな性的な表現になっていたように思います

どこか幻想的で、という感じなのですが、それは最後まで見れば理解できる、というつくりになっていたと思います

 

やはりレストランのシーンが物悲しくて、そこにいるのが10代の少年に見えるし、徐々に生へと光が見えてくるのは秀逸なシーンだったと感じました

 


↓ここからネタバレ↓

ネタバレしたくない人は読むのをやめてね


ネタバレ感想

 

映画は様々な解釈ができそうな作品ですが、ハリーとの出会いが両親との再会を促しように思えます

冒頭のハリーは生きていて、最後に話せそうな人を探すのですが、見知らぬ人ということでやんわりと断られてしまいます

これによって彼は自殺をしてしまったようで、その後、霊的に存在になったハリーと絡むようになって、両親の霊とも遭遇することができるようになったのかなと思います

 

映画は、ハリーとのラブロマンスというよりかは、孤独を舐め合う関係になっていて、外の世界に出ては見るものの、彼らは他の誰とも会話をしなかったりします

その時点で、「これ、亡くなってるパターンかな」と思いましたが、残酷な残留思念との対話は、自分自身の心に中にある孤独を生み出した正体を引き摺り出していくことになりました

 

ふと思い立ったことで実家に帰るアダムは、そこであの時と変わらぬ両親と遭遇します

彼らは成長したアダムを歓迎し、あの時以降に紡げなかった思い出を生み出そうとしていきます

でも、そこで彼らが行けるのは、記憶にある場所だけなのですね

それがとても切なくて、最後にハリーを託されるレストランのシーンは胸が張り裂けそうになってしまいます

 


アダムが迷い込んだ世界

 

アダムは12歳の時に両親を亡くしていて、それからどうやって過ごしてきたのかはわかりませんが、今は自立して高層マンションで住めるほどになっていました

恋人はいないようですが、生活水準は高めに見えて、でもそのマンションには「アダムとハリーしかいない」という感じに描かれています

実際には多くの住人がいると思うのですが、映画内では彼ら以外は登場せず、火災報知器騒ぎでアダムが降りてきた時にも、6階のハリー以外の部屋は真っ暗になっていました

 

個人的には、ハリーのSOSを見過ごしたアダムが、ハリーの死によってゴーストと遭遇し、それが起点として両親への別れの機会ができたのかな、と思いました

火事騒ぎの後、ハリーが訪ねてくるところまでがリアルで、そこで彼を拒絶したことで、ハリーは孤独に耐えられなくなったのだと思います

その後、ハリーの残留思念と遭遇し、それがアダムの夢へと干渉することになります

夢の中には両親がいて、それが現実と混同するように見えながら、さらに深層心理の奥底へと入っていくような感じに思えました

 

アダムに両親が見えるのは「記憶」ですが、ハリーに両親が見えるのと、両親にハリーが見えるのは「幽体だから」ということになると思います

ハリーの孤独はアダムの孤独でもあったのですが、ハリーの方はクィアという宙ぶらりんな状態だったので、ゲイであることが明確なアダムとは悩みの質が違うのでしょう

アダムはハリーを慰めることに成功しますが、それは問題解決ではないのですね

最終的には、両親の言葉を体現するように「ハリーの遺体を見つけること」によって、彼自身の本当の魂を救うことに繋がったのだと感じています

 


ハリーが彼の部屋に来た理由

 

ハリーがアダムの部屋に来たのは、単純に考えれば「目が合ったから」だと思うのですが、そこには「自分を救ってくれる何者かもしれない」という期待があったように思いました

ハリーはクィアであることを彼に伝えているのですが、このクィアとは「LGBTQ+」の「Q」のことで、「自分の性がわからない」というカテゴリーになります

ハリーが自分自身が何者であるかを根底からわからないという状態になっていて、同性愛者なのか異性愛者なのかもわからなければ、性自認に一致、不一致なのかもわからない状態になっています

ハリーがそれを理解するためには「他人との関わり」が必要で、アダム(ゲイ)と交わることで何かを規定できるし、アダムに拒否されることで何かを規定することができます

他人と関わることで、その反応に対する自分の感情の揺らぎというものが、自分が何かを教えてくれるものなので、その機会を得たいがために、目が合ったアダムを訪ねることになったのだと思います

 

他人は自分を映す鏡だと言われますが、それは相手と遭遇することで感じるものは「自分の中にあるものだけ」なのですね

相手の行動を見て感じる感情は、自分の中にある価値観を炙り出すことになるし、相手の言葉によって「自分が気づいていない自分」というものを見つめることにも繋がります

そう言ったものを避けたがる人は「内省によって自分を規定する傾向」があって、それは傷つくことを恐れているからとも言えます

他人との関わりの多くは自分を傷つけることになるので、その耐性が弱い人ほど、保守的になってしまい、ひいては傷つかないバリアを張っていくことになるのではないでしょうか

 

個人的な話だと、中学校時代にこのような傾向になったことがあり、それが身体的な苦痛を伴うようになりました

不登校気味になり、病院に行っても原因はわからない

最終的には電気治療などを行うことになっていて、今思えば「何の治療をしていたのかわからない」という過去がありました

環境が変わり、高校に入ってからは落ち着いたのですが、中学生だった頃は環境の激変直後だったこと、他者の家庭環境との違いへと戸惑いなどがあったのだと考えています

 

このような不安定な時期には、何かしらの救いのようなものを求める一方で、何とも関わりたくないというものが同居します

抜け出したいけど、抜け出すのも怖いという感じで、耐えている「今」からの変化を恐れることになります

そして、リスクを恐れて不干渉になるのですが、それもいつの間にか終わりを告げることになります

それは、孤独でいることに耐えられるほど、人は強くないからであり、何かしらの繋がりを持つ方向へと向かっていくのですね

このような変化が今と昔では変わっていて、今ではネットや仮想に近い空間の中に救いを求めることができるようになっています

なので、ハリーにもそのような環境があれば、アダムに直接会いにいくという突飛な行動をしなかったのかもしれません

 


120分で人生を少しだけ良くするヒント

 

本作は「異人たち」というタイトルになっていて、これは「原作の『夏』」を取り払ったものになります

ロンドンに舞台を移して、季節感が変わっているので、この改変になるのは仕方ないところだと思います

異人とは「異国の人」で、特に外国人の中でも西洋人のこと意味する言葉なのですが、映画の中では違う意味になっています

感覚的には「自分と違う人=他人=自分と属性が違う人」という感覚になっていて、性的志向が違うとか、実体と幽体みたいな意味合いに見えてきます

 

映画の場合は「複数形」なので、アダムからすれば「複数の異人がいる」ということになります

なので、ハリー+両親という意味合いになり、それは「=」でもあると言えます

アダムからすれば、ハリーも両親も性的志向でも実体幽体の面でも異人のように見えています

でも、それらを超越した絆というものがあり、アダムにだけできる役割というものがあったように思えました

 

映画は、ハリーの亡骸をアダムが見つけることで終わりを告げ、それは両親からの頼まれ事でもありました

でも、実際にはハリーの残留思念がアダムを呼び起こし、彼を両親の元に届けることによって、自分を探してもらうことを望んでいたのだと思います

この辺りは様々な解釈が生まれるとは思いますが、アダムがハリーの実体を見つけたことで物語が終わるのなら、そのような意味合いの方が強いのかな、と感じました

 


■関連リンク

映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)

https://eiga.com/movie/100239/review/03751507/

 

公式HP:

https://www.searchlightpictures.jp/movies/allofusstrangers

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投稿者 Hiroshi_Takata

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