■巧の行動は、蚊に刺されそうになったら殺すのと同じ感覚なのかも知れません


■オススメ度

 

賛否両論の映画が好きな人(★★★)

 


■公式予告編

鑑賞日:2024.5.13(京都シネマ)


■映画情報

 

英題:Evil Does Not Exist(悪は存在しない)

情報:2024年、日本、106分、G

ジャンル:ある田舎町のグランピング計画に巻き込まれる地元民を描いたヒューマンドラマ

 

監督&脚本:濱口竜介

 

キャスト:

大美賀均(安村巧:先祖代々、この土地で暮らす男、便利屋)

西川玲(安村花:巧の娘)

 

小坂竜士(高橋啓介:グランピングの説明会に訪れる担当者)

渋谷采郁(黛ゆう子:高橋の後輩社員)

 

菊池葉月(峯村佐知:うどん屋の店主)

三浦博之(峯村和夫:佐知の夫、巧の友人)

 

鳥井雄人(坂本立樹:グランピング計画に反対する地元民)

山村崇子(木崎ヨシ子:地元民)

田村泰二郎(駿河一平:地元の区長)

 

長尾卓磨(長谷川智徳:芸能事務所「プレイモード」の社長、高橋たちの上司)

宮田佳典(堀口明:「プレイモード」にグランピングを立案するコンサルタント)

 


■映画の舞台

 

長野県:水挽町

 

ロケ地:

長野県:諏訪郡

富士見町

https://maps.app.goo.gl/SAZSPbBmJ8ytdQQc9?g_st=ic

 

やまゆり(うどん屋)

https://maps.app.goo.gl/Xtrv9s1uxT2qugat8?g_st=ic

 

立沢構造改善センター(集会所)

https://maps.app.goo.gl/K6DXGtaYqgWa1NKv8?g_st=ic

 


■簡単なあらすじ

 

長野県の山奥の村に住んでいる巧は、村の便利屋として、みんなの生活の手伝いをしていた

うどん屋を営んでいる和夫夫妻のために水を汲んだり、自分の家の暖房のために薪を割ったりする日々を過ごしている

彼には娘の花がいて、巧はしばしば迎えに行くのを忘れてしまう

花は学校から自宅まで自分で帰るのだが、寄り道することが多かった

 

ある日、その村に芸能事務所の事業拡大の話が持ち上がり、その説明会が行われることになった

担当者の高橋と黛は「グランピング場建設」に関する説明を行い、質疑応答の時間がやってきた

和夫の妻・佐知は「水を求めてこの地にきたこと」を訴え、グランピング場から出る生活排水によって味が変わることを懸念する

また、区長の駿河も「水は上から下へ流れる」と説き、ここで事業を行うということは、その責任を負う覚悟が必要だと訴えた

 

高橋と黛は話を持ち帰るものの、コロナ助成金目当ての事業は着工期限が迫っていた

そこで、便利屋の巧を引き込もうと考え、再び高橋と黛は彼らの元を訪れる

そんな折、ある事件が起こってしまうのである

 

テーマ:行動の起点

裏テーマ:手負の抵抗

 


■ひとこと感想

 

賛否両論のエンディングということは知っていて、どんなものかなあと思いながら鑑賞

こりゃあ賛否両論になってしまうわ!というエンディングになっていましたね

賛否を論ずるにはネタバレが必要なのでここでは割愛しますが、流れや伏線を考えると、そこまで割れるような感じはしません

とは言え、各種レビューを見ると、いろんな意見があるのだなあと思ってしまいます

 

映画は、冒頭の長回しに見られるように、全てのシーンがドキュメンタリーのようなテイストに感じられます

芝居があるというよりは、本当に日常を眺めている感じなのですね

それでも、会話の節々に仕掛けが施されていて、それらがうまく回収されていきます

 

物語性はあってないようなもので、グランピング事業に関わる方も生きるのに必死であることがわかり、水面下で命の削り合いをしている様が描かれていました

キーワードは「手負の鹿」

それが何を指すのかを考えることで、自分なりの解釈が生まれるのではないでしょうか

 


↓ここからネタバレ↓

ネタバレしたくない人は読むのをやめてね


ネタバレ感想

 

賛否両論に関しては、なぜ巧は高橋を襲ったのかということと、花は結局どうなってしまったのか、というところが見えないために、いろんな解釈が生まれている状態になっていました

個人的には「襲った理由は村を守るため」で、「花は瀕死の状態である」ということだと思います

 

ラストシーンでは、行方不明だった花が「手負の鹿の前にいる」という状況に巧と高橋がやってくるという流れがありました

そこで花に駆け寄ろうとした高橋を後ろから羽交締めにして落とす巧がいて、その後高橋は一旦復活するものの、そこで気を失って倒れてしまいました

彼が死んだのかどうかはわかりませんが、あのままあの場所に放置されたら死んでしまうと思います

 

彼があの場所にいるのは巧しか知らず、「手分けして探していた」と言ってしまえば、うやむやになってしまいます

でも、捜査が始まれば、頚部を締め付けた跡が見つかるので、犯人探しというものが行われるでしょう

とは言え、あのまま放置することも考えづらいので、花のことが終われば処理することになるのかなと思いました

 

映画のラストショットは冒頭と同じ森を見上げるショットになっていて、これは花の目線であることがわかります

それが閉じていないということはまだ死んでいないのではないでしょうか

 


巧の行動について

 

本作は物議を醸しているタイプの映画で、それはラストの巧の行動理由が不明瞭であること、花が結局どうなったのかわからないというところだと思います

花に関しては、冒頭の森を見上げるのと同じショットが使われていて、それは巧の腕の中から森を見上げていると考えられるので、まだ死んでいないのでしょう

予後に関してはわかりませんが、手負の鹿に近づいて蹴られたのだとしたら、そこまで良いとは思えません

 

巧の行動に関しては色んな解釈があると思いますが、まずは花があのような状態になっていることが前提になると思います

彼の中で大きなものが失われていて、それが起きた原因が自分にあることを感じています

ちゃんと迎えに行かなかったことで花がいつものように1人で帰ってしまったのですが、その自分の至らなかった部分をどのように受け止めているか、というところが肝要のように思います

これまでにも何度か遅れたけれど何もなく、それでもこのようなことになる可能性は秘めていました

 

巧は、あの平原に行く前に鹿の水場に寄りましたが、そこには鳥の羽根が落ちていました

彼はそれが落ちていることに違和感を感じていて、それはこの場所にいた鹿を追いかけたのではないかと感じたのでしょう

そして、銃声が響き、彼らが花に追いついた時には、彼女の目の前に手負の鹿がいました

 

巧が高橋の行動を止める理由としては、手負の鹿に近づくのは危険だから、というものがわかりやすいと思います

でも、近づくのを止めるだけだと、チョークスリーパーで首を絞めて落とす意味はなく、あの瞬間に湧き上がった殺意というものが、高橋に向かったように思えました

それは、花を攻撃した何かであると同時に、その起因となった自分の甘さであり、その揺らぎを産むことになった外部の圧力であるとも言えるのですね

そう言った様々なものが入り混じって、瞬間的に高橋に殺意を向けたように思えました

 

高橋がいなくなれば、グランピング計画も白紙になる可能性もあり、それは村の要望でもあったでしょう

賛成、反対どちらでもないと言いながらも、よそ者が入ってくることを良しとする印象はありません

また、直前の「暇そうだから管理人をしてほしい」という趣旨の言葉であるとか、高橋たちが軽く考えているままに計画を押し切ろうとしている雰囲気を感じ取ったのでしょう

話し合いがどうなろうが、計画を無理にでも断行することが読めているので、それを排除するための行動が必要になってきます

当初は別のやり方で撤退させることを考えたのだと思いますが、瞬間的に訪れた衝動を巧は止めることができなかったのかな、と思いました

 


タイトルの意味

 

タイトルは『悪は存在しない』というもので、これを考えるためには「映画における悪とは何か」を定義する必要があると思います

村にとってのグランピングが悪なのかどうかは微妙なところがあって、経済的な恩恵もある一方で、自然破壊に繋がる可能性はあります

これらは村人の視点による善悪であり、自然が汚れて困るのも村人たちであると言えます

上流は下流に対して気遣いをする必要があり、自分たちの生活で他の地域に住んでいる人の迷惑にはならないように配慮する必要があると語られていました

 

この視点を「自然」に変えると、そもそも「善悪の概念」というものが消えてしまいます

自然で起こることにそのような観点はなく、すべては自然の摂理によって起こることになります

映画でも、グランピング場は鹿の通り道という話があって、それができたら「どこかへ行く」と高橋が漠然と語っていました

その場所に留まることができないものは、どこか安住の地を探さなくてはいけないという意味になり、グランピング場の影響で生活が乱されれば、どこかに行くのは鹿だけはないと言えます

 

うどん屋にしても、水質を求めて移動せざるを得ない可能性もあるし、グランピング場の影響によって、下流に問題が起これば、そこで諍いが起きて、出て行かざるを得なくなります

これらの一連の流れは、自然からすれば関係のないことで、起こるべくして起こるし、何も変わらないのと同じなのですね

このように、環境問題は「人類は地球に住み続けられるかどうか」という考えが根底にあって、その思想の行き着く先は「人類が消えること」みたいなものになってしまいます

 

自然は荒廃し、それによって生態系が変わるとしても、それらはすべて自然の摂理なのですね

その考えでいけば、人類の環境汚染も動物たちにとっては「自然の脅威」の一つに過ぎません

なので、タイトルに示される「悪」というものは、自然界では存在し得ない概念であると思います

そして、悪がなければ、その対極にある善というものも存在せず、人類が地球のために行なっていると思っている活動も含めて、そのような概念は無意味であると言っているのに等しいと言えるのではないでしょうか

 


120分で人生を少しだけ良くするヒント

 

本作は、冒頭の長回しからもわかるように、かなり自然な時間経過に近い流れを汲んでいる作品だと思います

映画としては、展開が遅く、それは必要なのかと思えるシーンが多いのですが、そういったところを無視して映像は重なって行きます

これらの意図はたくさんあると思いますが、まずは「人も含めた自然」というものの時間感覚というものを描きたかったのかな、と感じました

 

高橋を含めた芸能事務所は「巧は暇だ」と感じていましたが、実際にはうどん屋に水を運ぶだけで相当な時間を要し、家の前に立てかけてある薪を割るだけでもかなりの時間を要しています

巧は、彼らを日常に巻き込むことで「暇ではない」ということをわからせようとしていたのだと思いますが、瞬間的に手伝っただけではわかり得ないものでした

あの日常を過ごしながら、どこにグランピング場の管理をする暇があるのかというのは考えればわかることなのですが、芸能事務所は「そもそも管理体制を軽く見ている」ので、片手間に管理をすれば良いと考えているのですね

なので、彼らのマインドだと、どんなに忙しかろうが、たまに覗いてくれたら良いですよという軽いノリの「管理体制」ということが浮き彫りになっています

 

村人たちは「慎重に慎重を重ねる」ほどにグランピング場建設のことを考えていて、彼らの不安が解消されれば建設の方に動いたかもしれません

でも、実際には補助金ありきで無理やり建てて、あとは現地の人に投げるつもりだったので、それでは単に自然を汚して去っていく質の悪い旅行客と変わりがありません

鹿がいなくなって、自然のサイクルが変わることで、そこにいる人たちは生きづらくなるだけで、グランピングで得られる利益などたかが知れているのですね

ほとんどのお金は芸能事務所が持っていくだろうし、メリットというものは皆無であると言えます

そう言った本音が見え透いていて、その象徴的なものが高橋という人物だったように思えました

 

高橋は個人としては悪くない人間だとは思いますが、村にとっては「存在するだけで害」であるように思えます

環境保全のために外来種は早めに駆除するのが効果的で、巧による高橋の排除はそれに近いものがあります

そして、その行動自体には善悪という概念はなく、ただ生き延びるために彼らが行なっている行動のひとつなのですね

水を汲むことも、薪を割ることも、害虫駆除することもみんな同じ

そう言った意味において、この世界には「善も悪もない」ということを描きたかったのかな、と感じました

 


■関連リンク

映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)

https://eiga.com/movie/99914/review/03818412/

 

公式HP:

https://aku.incline.life/

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投稿者 Hiroshi_Takata

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