■行為を行為で裁くことを良しとする「司法舞台の作品」に深み求めるのは酷なのかもしれません
Contents
■オススメ度
亀梨和也のファンの人(★★★)
原作ファンの人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2023.12.2(イオンシネマ京都桂川)
■映画情報
情報:2023年、日本、118分、PG12
ジャンル:謎の連続殺人事件に巻き込まれる弁護士と事件を追う警視庁のプロファイラーを描いたミステリー映画
監督:三池崇史
脚本:小岩井宏悦
原作:倉井眉介『怪物の木こり(宝島社文庫)』
キャスト:
亀梨和也(二宮彰:連続殺人鬼に狙われるサイコパス弁護士)
(幼少期:太田恵晴)
菜々緒(戸城嵐子:連続殺人事件を追う警視庁のプロファイラー)
吉岡里帆(荷見映美:父親の死にふさぎ込む二宮の婚約者)
堀部圭亮(広瀬秀介:嵐子の上司、捜査一課係長)
渋川清彦(乾登人:暴力事件で更迭された刑事)
染谷将太(杉谷九朗:脳外科医、二宮の協力者)
中村獅童(剣持武士:過去の殺人事件の容疑者)
(幼少期:吉田奏佑)
梅舟惟永(剣持咲:武士の妻?)
小林勝也(渡辺伸夫:咲の父)
今井朋彦(矢部正嗣:杉谷総合病院の総務課)
出合正幸(北島信三:静岡県警の刑事)
吉田興平
柚希礼音(東間翠:31年前の連続猟奇殺人事件の犯人)
テイ龍進(東間和夫:翠の夫)
安澤千草(孤児院の先生)
古山憲太郎(警察に協力する内科医)
伊勢佳世(捜査本部長)
榎木薗郁也(刑事)
加藤琢未(刑事)
蔵原健(刑事)
長島竜也(刑事)
木原勝利(路上の暴力父)
佐藤恋和(路上で泣き叫ぶ少女)
みのすけ(益子:彰を治療する脳外科医)
牧野莉佳(看護師)
石井礼美(看護師)
斉藤達矢(彰の父)
河北茉子(彰の母)
武田祐一(武士の父)
平川はる香(武士の母)
木村靖司(映美の父?)
森田菜美(駐車場の目撃女?)
浅井映里香(彰の秘書?)
■映画の舞台
都内某所(東京&千葉)
ロケ地:
千葉県・千葉市
千葉市教育会館
https://maps.app.goo.gl/iBto6jJawAPBAuoX9?g_st=ic
茨城県:鹿嶋市
Studio IOS
https://maps.app.goo.gl/WCGK29JUBYVz7B7T9?g_st=ic
東京都:新宿区
GENIEE
https://maps.app.goo.gl/2Gz32Ta8QkiCeNko8?g_st=ic
東京都:調布市
竹内園
https://maps.app.goo.gl/FhRBRNn75m4vhKa59?g_st=ic
東京都:江戸川区
大衆酒場カネス
https://maps.app.goo.gl/79S3YhbX3QRXMrYz8?g_st=ic
東京都:足立区
ペニースーパー佐野
https://maps.app.goo.gl/DJmMXaakZjWvSfY66?g_st=ic
東京都:渋谷区
La Cocoroco渋谷店
https://maps.app.goo.gl/um615ptKvrPoWEFJA?g_st=ic
■簡単なあらすじ
静岡のある邸宅では、児童誘拐の疑惑がかけられた夫婦がいて、警察は彼らを追い詰める
だが、犯人はその場で自害し、その邸宅からは十数人の手術を受けたと思われる子どもの遺体が発見された
警察は生き残りの少年を保護し、彼は養護施設に入ることになった
それから30年後、弁護士の二宮彰はある男に追われていた
うねった山道を猛スピードで追いかけてくる男だったが、彰の策にハマって事故を起こしてしまう
彰は彼の素性を知ると、道路に散乱していたガラスで彼に止めを差した
彰は有能な弁護士として活躍し、脳外科医の杉谷とともに悪だくみを繰り返している
そんな彼には弁護士の父を持っていた映美という婚約者がいたが、映美は父の死から立ち直れていない
そして、そんなある夜、彰は覆面を被り斧を振り回す男に襲われてしまう
何とか一命を取り留めたものの、都内では連続した「斧を凶器にした殺人事件」が勃発していた
所轄は捜査本部を立ち上げ、プロファイラーの戸城嵐子も参加する
彼女は連続殺人から「見逃されている共通点があるはず」と断言した
テーマ:理屈と視野狭窄
裏テーマ:行為の代償
■ひとこと感想
原作は未読、ミステリーっぽかったので何も調べずに鑑賞
その為か、犯人捜しを楽しむことができました
とは言え、さすがに映画としての出来が良いとは思いません
映画は、サイコパス弁護士が殺人鬼と戦うみたいな感じになっていますが、相変わらず警察は無能という昭和テンプレのような展開になっていましたね
捜査本部長とプロファイラーが女性で、それが両方無能で、それに巻き込まれる捜査員という構図になっていますが、あまりにも無能なので笑ってしまいます
物語としては、サイコパスであることをどう考えるかというところになりますが、だからと言ってそのまま生きていけるとは思えません
きちんとオチがついていますが、あまりにも警戒心がないところがギャグのようになっていました
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
犯人捜しはそこまで難しくはないのですが、それを期待すると肩透かしを喰らう印象があります
映画のテーマがそのままネタバレになりますが、自然発生型サイコパスと後天的操作系サイコパスの違いに意味が求めていないのはどうかなあと思ってしまいました
映画としては、サイコパスから逃れられても、「行為の代償」は払わざるを得ないということになります
映画は、勝者なき結末ということになりますが、そもそも勝者が存在してよい映画なのかは微妙なところになります
人が「行為」によって裁きを受けるのなら、この帰結になるのは既定路線としか言えません
とは言え、後天的操作系サイコパスに救済の余地を与えないのは残酷なように思えました
キャスティングでだいたいバレていますが、そこには目を瞑って、その短絡さを楽しむのも一興かもしれません
各種レビューは荒れまくってますが、これはやむを得ないんじゃないかなと思います
とにかく脚本が安くて、冒頭の30年前の事件現場での刑事のセリフでもうスリーアウトレベルの安さになっていたと思います
■そもそもサイコパスとは何か?
サイコパスとは精神病質(Psychopathy)のことで、精神障害の一種のことを言います
社会に適応することが難しいパーソナリティー障害、精神病(妄想・幻覚・乱雑な思考と発語・非現実的で奇妙な行動など)と健常者の中間にある人格障害とされています
精神病質を持つものは「精神病質者(サイコパス)」と言い、日本では「精神障害者の一種として精神保健福祉法で定義されている」のですね
また、「反社会性パーソナリティ障害」と呼ばれることもあります
ちなみに「社会病質(Sociopathy)」と呼ばれる「ソシオパス」と混同されますが、ソシオパスの方は「後天的」であるとされています
先天的であるサイコパス(生まれながら)と後天的であるソシオパス(親の育て方など)は似て非なるものですが、同義的に使われることが多いのですね
本作の杉谷はサイコパスですが、彰や剣持はソシオパスに分類されるので、この辺りをごっちゃにするのは抵抗があります
巷にはサイコパス診断と呼ばれるものがあり、映画の公式HPでも診断がありましたね(いずれリンクエラーになるので、「サイコパス診断、怪物の木こり」でググってください)
ちなみに試しにやってみたら「快楽追求サイコパス」ということになってしまい、映画の登場人物だと杉谷に近いのだそうです
言動の判断基準は楽しいか楽しくないかで、刺激的な状況を過剰に求め、サイコパス度の高い人間に関心を示すそうです
サイコパス度は8だったのですが、常人のサイコパス度の基準が1なので、メーターを振り切っている感じになっていますね
合ってるかどうかは、読者の想像にお任せいたします
■勝手にスクリプトドクター
映画は、流行っている絵本の造形を真似た犯人が後天的サイコパス(ややこしいのでこれで統一します)を見つけ出して殺すというもので、絵本の内容的には「仲間を増やしていく」という真逆なものになっていました
犯人が怪物の木こりの真似をしている理由は明言されず、ジェイソンでも何でも良かったように思えます
原作は未読なのでもっと関連性があるのかもしれませんが、映画では「怪物の木こり」とのリンクはほぼ無いに等しいどころか、怪物の木こりの真逆の行動をしているように見えます
様々なサイコパスが出てきますが、そのほとんどが脳チップによる後天的サイコパスであり、その脳チップが破壊されたら普通の人に戻るという無茶な暴論になっています
これが通じるのであれば、犯人が相手を殺さなくても、頭突きをかましていけば被害者は出なくなるということになってしまいます
とは言え、脳チップが破壊されたら常人に戻るというのは後付けの理由で、犯人にはそのことがわかっていませんし、あくまでも仮説の一つなので、被害を止めるには殺すしか無いというのは短絡的ではありますが理に適っていると言えます
本作の特徴はプロファイラーの嵐子の存在で、いわゆる「頭脳合戦」の様相を呈しています
でも、このプロファイラーがポンコツで全く役に立たず、警察も無能しかいません
しかも、プロファイラーの裏を描いてやろうという頭脳戦にもなっておらず、嵐子が自分で正解だと思って突っ走っては失敗という流れを何度も繰り返していきます
挙げ句の果てに、嵐子の無能を利用するという内容になっていて、ここまで知能レベルが違いすぎると会話にならないレベルになっていました
穿った見方をすれば、プロファイルなどは何の役にも立たないと言っているような感じで、現役のプロファイラーが観たら激おこ案件のように思えます
映画は頭脳戦が根底にあるにも関わらず、そのほどんどは暴力性で支配されていて、それをサイコパスで片付けている感じに仕上がっています
サイコパスとソシオパスの違いも描かないし、理解しているとは思えません
また、彰の告白によって予見される映美の行動に対して、彰の無防備さというものが意味がわからず、彰自身が頭が良いのかどうかもわからない感じに着地しているのですね
擁護学校にて歌を口ずさむシーンなどは、「同じ施設の出身?」をミスリードさせていくように見えて何もないのですが、ぶっちゃけると「同じ施設出身」で、「育ての親を殺された復讐を果たす」という映美の物語があった方がまだマシに見えるのですね
映画では、彰と映美がどのような過程を経て出会ったかも描かれず、映美の過去は空白のままです
なので、ラストで映美が彰を刺すという行動に至る動機は、理解こそできるものの、人が人を殺めるという心理状況と決意、実行に至るまでのプロセスを端折りすぎているのですね
映画から想像するに、「事務所を乗っ取るために映美の父に近づき、その地位を利用するために殺した彰」という流れになると思うのですが、これすらも「映美の想像の域」を出ていません
彼女が「彰の告白」一つでそう思い込んで復讐したとしても、この唐突性を裏付けるものにはならないと言えます
原作は未読ですが、この映画を改変するならば、「映美は実は後天的サイコパス」で手術を耐えた生き残りにするしかありません
そして、父の事務所に入った彰から同じものを感じていく
関係を深める中で「父の死」が起き、感覚的に彰が犯人だと気づいていて、それを立証するために色々と調べていると、彰が怪物の木こりに襲われていることを知る、という流れになります
襲撃事件によって、事件の連続性を感じた映美が「犯人は自分と同じ存在であることに気づく」のですが、襲撃を止めるのではなく「怪物の木こり」を利用して、彰の本性を暴くことを考える
その目論見は見事に成就し、弱った彰を殺すことで全ての幕が降りることになります
彰の愛情を利用し、彰が起こしたことを利用するのですが、これによって映美は養子でありながら、父の財産をそのまま受け取ることができます
映美と父との関係性において、わかりやすいのは性的虐待で、その関係を断ち切るために彰を利用するというのがもっともらしいシナリオでしょう
そして、これらを「綿密に描く」のではなく、彰を刺した時の映美の表情(不適な笑い)だけで表現する
映美は罪に問われると思いますが、彰の警察に対する印象は最悪で、襲われたから殺したが演技で通用するほど無能だったりします
襲われた演出をするために壁に頭を打ちつける映美を描いても良いですし、それによって映美が常人に戻り、彰への行動を後悔しても良いのですが、そこまで作り込むと「やりすぎ」な感じがありますので、ほどほどにしておいた方が良いかもしれません
映画は、ソシオパスの運命と悲哀を描いているので、脳チップのことが裁判に出てくれば、映美が被施術者としての同情を買うことにも繋がります
「人格ではなく行為」がテーマになっているので、その人格が「後天的に歪められた場合」司法はどのように判断するのかというのは、舞台設定上でも必要になってきます
それが映画のクライマックスとして、映美の犯罪裁判(彰の殺人)として描かれるのならば、物語としてはより良いものになったのでは無いでしょうか
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
映画は、設定自体は面白そうで、キャスティング的にも魅力があったと思います
脳チップによる後天的サイコパス(ソシオパス)問題を描いていて、現代のロボトミー技術の犠牲者として、人格再生をしていくという流れも良かったと思います
脳チップというSFと、頭突きで壊れるという脆弱性は何とも言えませんが、骨折するぐらいの強い衝撃ということなら、耐久性能に関してはギリOKのようにも思えました
問題は、ソシオパスの犯罪をどう裁くべきかというものから逃避していることで、主人公が司法に関わる人物ゆえに、どうして避けたのかなと思いました
犯人の身勝手な行動は裁かれるべきではありますが、本作ではソシオパスが起こした一連の犯罪をどう捉えるかということを一切排除していて、それが彰の信条「人格よりも行為で裁かれるべき」のアンチテーゼになる必要があったと思います
これは、催眠術で操られた人の犯罪はどうするのかという「心神喪失状態の犯罪の裁判」にも通じるところがあります
映画における彰を含めたソシオパスは、いわゆる心神喪失状態にあると考えられ、脳チップによる行動支配が認められれば「裁判的には無罪」になります
いわば、彰の信条というのは、現行裁判における「心神喪失者の無罪」を否定しているので、それらが設定だけになっているのはナンセンスだと思うのですね
作品の趣旨がそこまで深いところを目指していないのは明白で、単純にサイコパス同士が殺し合ったら面白いレベルの稚拙さがあるので、これでは作品制作の意味さえ無いように思えてきます
また、本作は絵本『怪物の木こり』を引用していますが、犯人が怪物の木こりに感化される理由や過程は一切無視されているのも難点でしょう
犯人が怪我によってソシオパスからの離脱が起こり、それを起点にして「同じソシオパスを殺していく」のですが、彼自身がソシオパスなどの定義を理解していないところも微妙なのでしょう
絵本では「仲間がいなくなったので作る」というもので、これをなぞらえているのであれば、「脱ソシオパス」に向けた行動を起こすというのが普通の流れになります
犯人が被害者を止めるために起こす行動が「同じように手術によって人格が変わった人を殺す」のですが、彰自身も脱サイコパスの状況になっているので、犯人を諌める言動ができたとお思います
そのあたりは完全にスルーで、脳チップによる人格改造が認められれば罪にならないことも理解していることすらもスルーすることになっています
彼の職業が弁護士では無いのならば「知らない」で終わるのですが、弁護士であり「人格よりも行動で裁かれるべき」という信条を持っている人間というところに避けては通れないものがあったように思いました
映画では、サイコパスとソシオパスを混同したまま話は進むし、脳チップによる人格改造と起こした罪の関係性も言及しません
さらに無能な警察集団を描き、人間関係の詳細な描写もなければ、行動と動機を結びつけるものも曖昧にしたまま終わっています
原作がこんな感じに浅いのなら仕方ないと思いますが、そうだとしても深く追求して改変できるのが映画だと思うので、そのあたりの戦いすらなかったのかなと思ってしまいました
勢いで観られる映画には仕上がっていますが、何の教訓も感動も思考も残さない作品になっていましたね
単なるエンタメ作品として見栄えが良いのを作ったのなら仕方ありませんが、それで良いと思える観客はそこまでいないと思うので、もっとレベルアップしていかなければならないのでは無いかと思いました
■関連リンク
映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
公式HP:
https://wwws.warnerbros.co.jp/kaibutsunokikorijp/