■精神的な強い繋がりを洗脳と断定しても、それを解き放すのは難しいように思えます


■オススメ度

 

母と子どもの物語に興味がある人(★★★)

 


■公式予告編

鑑賞日:2024.6.11(イオンシネマ京都桂川)


■映画情報

 

情報:2024年、日本、128分、G

ジャンル:ある児童虐待児を保護した作家を描くヒューマンミステリー

 

監督&脚本:関根光才

原作:北國浩二『嘘(PHP文芸文庫)』

Amazon Link(原作小説)→ https://amzn.to/3RuHjFn

 

キャスト:

(里谷千紗子:父の介護のために帰省する絵本作家)

中須翔真(里谷拓未/犬養洋一:千紗子が保護する児童虐待児)

 

奥田瑛二(里谷孝蔵:認知症を発症する千紗子の父、元教師)

 

左津川愛美(野々村久江:千紗子の友人、役所の福祉課職員)

番家天嵩(野々村まなぶ:久江の息子)

 

酒向芳(亀田義和:地元の医師、孝蔵の友人)

 

安藤政信(犬養安雄:洋一の義父)

木竜麻生(犬養マキ:洋一の実母)

演者不明(犬養ひとみ:安雄とマキの娘)

 

和田聰宏(弁護士)

丸山智己(検察官)

 

河井青葉(南町の看護師)

 

池谷のぶえ(居酒屋の女将)

 

谷遼(千紗子の元夫?)

齋藤統真(荻田純:千紗子の亡き息子)

 

井上凜花(海で遊ぶ女の子)

 

世志男(町の消防団)

横内亜弓(介護認定の職員)

 

大西武志(千紗子の編集者の声?)

 

橋本恵一郎(?)

井上肇(?)

 

菊竹桃香(テレビのリポーター)

吉田智大(テレビのアナウンサー)

小谷野智子(テレビのアナウンサー)

 


■映画の舞台

 

日本のどこかの地方都市

 

ロケ地:

長野県伊那市

神奈川県相模原市

 


■簡単なあらすじ

 

東京で絵本作家として活躍していた千紗子は、父の認知症が進行し、徘徊騒ぎを起こしたことで、実家に戻ることになった

父は自分のことを覚えておらず、千紗子は積年の恨みを抱えたまま、父の世話をすることになった

 

ある日、地元の親友・久江と会った千紗子は、居酒屋に行って憂さ晴らしをすることになった

だが、その途中で久江の息子・まなぶが近所の家のガラスを割ったとのことで、そこに向かわざるを得なくなった

久江は飲酒運転をし、心配な千紗子は同行する

 

昔話に話を咲かせながら運転したところ、何かにぶつかったような大きな音がした

二人が車外に出ると、そこには少年が横たわっていて、千紗子は救急車を呼ぼうとする

久江はパニックになって、「公務員が飲酒運転で事故をしたらクビになる」と言って、千紗子のスマホを奪ってしまう

 

やむを得ずに実家に少年を連れてきた二人だったが、少年の足には縄が結び付けられていて、体には虐待を思わせる無数の傷が見つかる

そして、翌日のニュースにて、川で流された行方不明の少年・犬養洋一であることが判明するのである

 

テーマ:嘘は人を救うか

裏テーマ:親子という呪い

 


■ひとこと感想

 

事前情報はあまり入れずに、虐待児を保護する話とだけ知った状態で鑑賞しました

杏演じる母親が暴走するのですが、彼女の親友・久江も大概の自己中心的な人物で驚いてしまいます

 

父親の介護に来たけれど、父は娘であることを覚えておらず、千紗子は介護認定が降りたら、さっさと施設に放り込もうと考えていました

それまで耐えれば良い、相手は自分のことを覚えていないから楽だと思っていましたが、父親に忘れられているという心の傷はさらに深くなっていくように思えます

 

千紗子には亡き息子・純がいて、少年に絵本の主人公の名前をつけるのですが、虚実が徐々に混同してくるあたりが絶妙でしたね

医師の亀田に話す時にバレるんじゃないかと思っていましたが、亀田はその辺りの事情はスルーしていたように思います

 

ともかく、本作はラストシーンが全てなので、ネタバレなしで臨む方が良いと思います

 


↓ここからネタバレ↓

ネタバレしたくない人は読むのをやめてね


ネタバレ感想

 

本作のようなことを実際に行うと誘拐罪になるし、息子だと思い込ませていると言われれば否定はできないでしょう

彼女が殺人罪を逃れても、それらを回避する方法はなく、接近禁止命令が出て、洋一(拓未)が大人になるまでは会えないと思います

それでも、ラストで判明する洋一の嘘は、その苦しみを和らげてくれるものだったように思います

 

映画は、リアリティを追求したら負けだと思うのですが、彼女が有名人でなければバレなかったかもしれません

とは言え、正面から調査をするのではなく、興信所を使うとか、匿名で児相に相談を入れるなどで、相手の動きを見ることも可能だったように思えました

 

物語は、奥田瑛二の認知症演技がすごく、酒向芳の町医者もとってもリアルなものになっていましたね

脇を固める演者も素晴らしく、少年役の中須翔真も純粋でいて、嘘を隠しつつ状況を見守っていく繊細さをきっちりと演じていたと思いました

 


児童虐待の解決の難しさ

 

映画ではよく描かれる擬似親子ですが、実際にこのような関係性が社会で維持できるのかは何とも言えないところがあります

子どもを育てるにあたって、実の両親以外が育てるにはハードルが高く、里親の関係だとしてもそこまで多くはありません

血縁がなければ親子になれないとは思えませんが、親が為すべき義務を全て果たしたとしても、それでクリアになるとも言えないのですね

義務に関しては、人間が独自に作り出した最近のルールであり、かつては町や村全体で子どもを育てるという環境があった時代もありました

 

今では、個人の権利が事細かく決められるようになり、それによって人間関係の枠組みもきちんと整理されたものになります

血縁関係、法的な関係がそれを保証することになりますが、精神世界ではそうとも限らない部分があると言えます

産みの親は特別な存在ではあると言えますが、子の成長に関して絶対ではない部分がありますね

それを感じることがあるからこそ、本作のような関係性を親子だと思えるのかもしれません

 

虐待児をどうするかというのは単純な問題ではないのですが、通常は児童相談所に相談するのがベターだと思われます

病院に勤めていると、稀に児童虐待案件に遭遇することもありますが、本人を家族から切り離した時に「本人の意思」を尊重する場合が多いように思います(実際には通報義務があるので、どうやって虐待を認定するかが難しいのですが)

児童相談所に連絡をすると、すぐには動けないために「家族と隔離できる時間を作れる措置入院を勧められる」のですが、大した怪我でもないのに入院させるのは結構なハードルの高さがあったりします

 

私が関わった件では、両親ではなく祖父母による虐待があったのですが、その関係を両親がわかって見過ごしているのかすらも探るのは難しいのですね

なので、診察で保護者と切り離して「帰りたいか」を聞いた上で首を振ったので、その日は措置入院ということになりました

基本的に未成年者は保護者が同伴ということになるのですが、衆人環視の空間なので虐待が起こる可能性はゼロなのですね

また、病院という空間で日常的なものが阻害されるとストレスを感じるので、それを引き出す目的もあるように思えます

 

今回のケースは、早々に親元に帰せず、児童相談所は役に立たないと決めてかかっている部分がありました

相談の結果、悪化した場合のみ報道されたり、誇張された虚構作品が出回るのでイメージが悪いのですが、本作もそれに加担している部分はあります

児童相談所の権限が弱く、保護者の権利が強すぎる部分はありますが、本人がどのように感じて、どうしたいかを汲み上げられるシステムというものが必要になっているのだと思います

でも、その前に「子どもは親の所有物ではない」という当たり前のことが社会通念として浸透しないと、何も始まらないように思えてしまいますね

 


タイトルに込められた3つの意味

 

映画のタイトルは「かくしごと」で、「描く仕事」「隠し事」というふうに考えられるのが一般的な感覚だと思います

個人的には「隠し子と」という言葉も浮かんでいて、それが南町の病院に駆け込んだ時の看護師の反応から何となくそう感じてしまいました

千紗子は有名な絵本作家で、雑誌に載る以前からその存在を知っている人もいたと思います

特に出身が近い町だと、都会に行って成功した人というイメージがあるので、情報というものは想像以上に伝達されるものだと考えられます

 

千紗子の息子は水死しているのですが、これは当時を知る人ならば周知のことで、彼らの住む町の大きな病院ということならば、あの病院に運ばれた可能性もあるのですね

千紗子が絵本作家で、子どもを亡くしたことを知っていたり、覚えている人もいるわけで、そんな彼女が「公表されていない子ども」と一緒にいる、というのは不思議なことのように思えます

なので、新しい夫ができて、新しい子どもを授かったのかなというぐらいには思えるのですが、あの時は保険証を提示できなかったのですね

 

保険証を提示できないというのは結構な引っかかりがあるもので、病院勤務だと物凄い違和感を覚えることになります

保険証を見ると意外なことがわかるのですが、それが無い状況というのは、いろんな含みを持たせることになります

保険証の提示は何気ないものだと思われていると思いますが、長年病院の受付でいろんな人を見ていると、保険証の出し方やそれに付随する問答でいろんなことを察することができます

そう言った意味において、受付を兼務していた看護師ならば、千紗子の動揺を汲み取りつつ、何かしらの違和感を感じたのかなあ、と推測してしまいました

 

とは言え、彼女たちの状態は「隠し子」のような存在であることは間違いなく、社会的に認知できない関係であることは事実でしょう

なので、一般的な隠し子に該当しなくても、公にはできないという意味ではそうであると思えるのですね

映画では、公的な機関との接触が病院だけでしたが、今後は学校に行く必要もあれば、様々な社会的なものと関わらざるを得ません

一時的でしかなく、喪失を埋めるための瞬間的な関係だったので、いずれはその時が来ることになったのでしょう

でも、さすがに身辺調査を偽装して行うのは無茶なもので、弱みを握っているのなら、久江に行かせた方がそれっぽく見えたようにも思いました

 


120分で人生を少しだけ良くするヒント

 

本作は、疑似家族を取り扱ったもので、最後の言葉が全てを物語っています

通常、家族の概念は血縁及び法的なものを意味しますが、本作における概念だと「相互承認」というものになっています

千紗子は拓未を息子だと思い、拓未もそう思っている

血縁でも法的でも拓未の母はマキになりますが、それを否定している言葉ということになります

 

この構図は、社会的に見た場合「洗脳」と呼ばれることが多いように思います

映画内でも検察はそのことに言及し、これを覆せる根拠は当人たちの証言のみです

なので、どんなに二人が結びつきを強調し、それに同調する人がいても、親子とは見做されないでしょう

それを考えると、ある種の自己満足の世界になるのですが、それぐらい主観的なものの見方の方を優先しているということになります

 

映画を観た人でも意見が分かれると思いますが、この親子を親子認定することは社会通念上無理があることは理解していると思います

それでもこの親子が親子だと思えるのは、ある種の理想論の上に成り立っているのですね

児童虐待を容認あるいは放置する血縁&法的母親を母親と呼べるのか

そのどちらもなく、客観的には誘拐だが、親子愛を確かに感じられる場合はどうするのか

この二極論になりがちなのですが、それは拓未の言葉をどのように理解するかにかかっているようにも思います

 

子どもには根源的な生命維持のための回避策というものがあって、ある子どもは虐待に耐えることで幼少期を過ごし、ある子どもは反発して逃げ、反撃に出る場合もあります

自分の生存権が最優先される場合だと、それが担保される場所を求めることになるのですね

映画における拓未の言葉というのは「千紗子の愛の肯定」と同時に「今後の退避場所を作る」という意味があると思います

それは、実母との関係解消に向かい、施設に入る道を提示するでしょう

あの場面であの言葉を言われたマキの表情は映りませんが、彼女は自分の元に彼を置いて置く事は叶わないと感じたと思います

 

児童虐待の種は無くなりましたが、親子間には救いようのない断絶が生まれていると思います

この精神状態で彼を今後育てる事は不可能に近いので、育児放棄として施設に行く可能性が高いと思います

そして、彼が施設を出た時に真っ先に会いに行こうとするのは千紗子の方でしょう

現実には接近禁止命令が出ると思いますが、拓未が成人すればそれは無効となる可能性があります

そうした段階を経て、精神的な親子関係は続いていくのかな、と感じました

 


■関連リンク

映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)

https://eiga.com/movie/101221/review/03919855/

 

公式HP:

https://happinet-phantom.com/kakushigoto/

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投稿者 Hiroshi_Takata

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