■あなたの物語における「赤い靴」とは一体何なのかを考えてみよう


■オススメ度

 

ガチのバレエ映画が観たい人(★★★)

分かりやすいスポ根映画が好きな人(★★★)

 


■公式予告編

鑑賞日:2024.3.20(TOHOシネマズ二条)


■映画情報

 

原題:The Red Shoes: Next Step(赤い靴:次の一歩)

情報:2023年、オーストラリア、111分、G

ジャンル:姉の喪失により踊れなくなったバレエダンサーの再起を描くバレエ映画

 

監督:ジェシー・エイハーン&ジョアンヌ・サミュエル

脚本:ザカリー・レイナー&ジョン・バナス&ピーター・マクロード

 

キャスト:

ジュリエット・ドハーティ/Juliet Doherty(サマンサ/サム・カバナフ:姉の喪失からバレエを辞めた女の子)

 

ローレン・エスポジート/Lauren Esposito(イヴ・レアリー:サムの高校の親友)

ニコラス・アンドリアナコス/Nicholas Andrianakos(フレディ:サムとイヴの友人)

 

ジョエル・バーク/Joel Burke(ベン:バレエ学校のダンサー)

プリムローズ・カーン/Primrose Kern(グレイシー:バレエ学校のエースダンサー、「赤い靴」のエリン役)

ミエッタ・アンドリアナコス/Mietta White(ペイジ:サムの旧友、バレエダンサー)

アシュリー・ロス/Ashleigh Ross(アンドレア:サムの旧友、バレエダンサー)

Matthew Slattery(ダヴィッド:バレエ学校のダンサー、グレイシーを救護する男性)

 

キャロリン・ボック/Carolyn Bock(ハーロウ先生:バレエ学校の先生)

Kathy Luu(ハンナ:ハーロウ先生の助手)

Dominic Cabusi(マーカス:バレエ学校の音響担当、ピアニスト)

 

Laura New(ジェニファー・カバナフ:サムの母)

Adam Hedditch(ブライアン・カバナフ:サムの父)

Daniele Clements(アニー・カバナフ:事故死したサムの姉)

 

Bronte Maree O’Neill(マリオン:サムの高校の友人)

Helena Zadro-Jones(タビー:サムの高校の友人)

 

【バレエ学校のダンサー】

Sienna Bingham

Makeely Foster

Grace Frazer-Sneddon

Josh Freedman

Grace Fuz

Brandon Gallagher

Nevaeh Jara

Mia Johnson

Isabella Jordan

Cassandra Mullard

Sebastian Ryan

Lara Smith

Ruby Walczynski

 

【パーティーの参加者】

Faith Birkett

Sophie Clement

Deng Deng

Rebecca Docherty

Olivia Jones

Cameron Moussa

 

【ショーの鑑賞者】

Tom Coyne

Lyndsey Fay Macnaught

Samuel Reis

Tabitha Yates

 

Dan Gaughan(万引き見つける警備員)

Emma Jinks(店員)

 


■映画の舞台

 

オーストラリア:シドニー

ハーロウ音楽演劇学校

 

ロケ地:

オーストラリア:シドニー

オーストラリア国立演劇学校

https://maps.app.goo.gl/8QXxWjDiFy21eUex7?g_st=ic

 


■簡単なあらすじ

 

シドニーの音楽演劇学校に通っていたサマンサは、「赤い靴」公演直前に姉アニーと電話をしていたが、その最中、姉は事故に遭ってしまう

動揺を抑えきれないまま、「赤い靴」を演じれず、バレエ自体も辞めてしまった

 

それから2年後、地元の高校に戻ったサマンサは、親友のイヴとともに悪さを働き、とうとう万引きにて逮捕されてしまう

200日の社会奉仕活動を言い渡された二人だったが、サマンサは母の計らいで「かつて通っていた音楽演劇学校」での清掃員をさせられることになってしまう

 

劇団員たちと再会するものの、ステージを台無しにした負い目を感じながら奉仕活動を行うものの、内に秘めた「踊りたい衝動」を抑えきれずに、仕事そっちのけで練習を見学したりしてしまう

そこでハーロウ先生は「踊りたいなら明日の7時に荷物を持ってやって来なさい」と声をかけるのである

 

テーマ:演じるとは何か

裏テーマ:感情を作る体験

 


■ひとこと感想

 

天才バレエダンサーを姉に持つ妹のお話で、姉が引き抜かれて別のところに行ったために役柄が回ってくるという導入になっていました

物語の感じだと、姉アニーはかなり抜けた存在のようで、妹サマンサは比較の対象になるほどではないという感じに描かれています

神格化しているとも言えますが、サマンサは「姉の代役」という呪縛からずっと抜けられずに苦しんでいたことになります

 

悪友たちとのハメ外しから社会奉仕活動に至りますが、その意図というものが後半に描かれていきます

サマンサはかなり苦しんだとは思いますが、その知らせを聞いた後でも、サマンサの代役を務めたダンサーもいれば、その他のダンサーもステージに立ち続けていました

サマンサの悲しみは他のメンバーとは比べものにはなりませんが、それでも不本意ながらもステージを終わらせたことに対する敬意というものはあって然るべきものかな、と思います

 

映画は、ガチのプロダンサー3人がメインを務めているので、ラストの「赤い靴」の演目は「そのまままバレエの舞台を見ているような感覚」になっていました

サマンサが「自分」を表現できたのかは分かりませんが、神がかった演技を披露していたというのは、素人目にもわかる内容だったと思います

 


↓ここからネタバレ↓

ネタバレしたくない人は読むのをやめてね


ネタバレ感想

 

映画は、予定調和的なスポ根映画になっていて、あるトラブルからの復活、次第に仲間が増えていったところで転落があり、最後は謎の力で復活のステージに立つという流れになっています

映画のラストは学校総出のステージだと思われ、1年間の努力の結果が出る場面だと思います

その舞台の中心に立てるかどうかは経験値を超えた名誉のようにも思えますが、実際には「自分の足で立たなければならない場所」であるとも言えます

 

バレエ映画は数多くあり、本作はその源流とも言える『赤い靴』のオマージュが盛り込まれています

しかも原作に当たるのは古典中の古典「アンデルセン物語」というところも面白い構成になっていると思いました

 

踊り狂う中に人生が見えてくるのですが、悲しみや喪失があるほどに、踊れることの喜びというものが昇華していくのですね

グレイシーが降りたのは物語の演出のようなものではありますが、いくら練習をしてきても、場の雰囲気に耐えられないのは当然のことのように思えます

サマンサが舞台に立つことでみんなの心が落ち着くというのは、裏を返せばグレイシーのプレッシャーになってしまうというのですね

それを乗り越えてこそ、とは思いますが、この降板は来年の彼女の踊りに活かされるのだと思います

 


演目『赤い靴』について

 

映画で登場する『赤い靴』は、元々はアンデルセンの童話『赤い靴(The Red Shoes:De røde sko)』で、それをマシュー・ボーンMatthew Bourne)が振り付けをしてバレエの作品に仕上げています

1911年頃に作られ、1948年の映画『赤い靴(監督:マイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガー)』に基づいている作品とされています

赤い靴は、履いてしまうと踊るのをやめられなくなるというもので、年代は1940年頃のロンドンをイメージして作られています

 

バレリーナのヴィクトリア・ペイジは、モンテカルロを拠点とするバレエ興行師のボリス・レルモントフによって才能を認められます

ボリスは作曲家のジュリアン・クラスターにアンデルセンの「赤い靴」をモチーフにした楽曲の依頼をします

その後、ヴィクトリアとジュリアンは恋に落ちますが、ヴィクトリアは「愛か仕事かを選べ」と言われてしまうのですね

 

結局のところ、愛を選んだヴィクトリアはジュリアンと過ごすためにロンドンに行きます

ヴィクトリアは地元のミュージックホールで踊りを続けますが、再びボリスのバレエ団で踊るチャンスを得ます

彼女の誘惑を断ち切るためにジュリアンは彼女を追いかけますが、ヴィクトリアはどちらを選ぶか悩んだ末に、列車の轢かれて死んでしまう、という物語になっています

 

ちなみにアンデルセンの「赤い靴」は内容が結構違っていて、主人公は農民の少女カレンとなっています

カレンは裕福な老婦人の養子になり、甘やかされて育ちました

養子になる前のカレンは粗末な赤い靴を履いていて、彼女は養母新しい赤い靴を買ってもらいます

翌日、教会にその靴を履いて行ったカレンは、「教会では黒い靴しかダメです」と言われたにも関わらず、次の日も、その次の日も「赤い靴」を履かずにいられなくなっていました

 

ある日、赤い髭を生やした謎の老兵に遭ったカレンは「美しいダンスををするための靴だね」と言われ、「踊るときは絶対に脱げないでね」と靴に魔法(呪い)をかけてしまいます

その後、教会での行事を終えたカレンは思わずダンスのステップを踏んでしまい、靴に操られるかのように踊り出し、数分後にようやく足を止めることができました

そして、養母が病気で亡くなったにも関わらず、カレンは葬儀に行かずにダンスに行ってしまい、そこで靴に操られて踊り続けてしまいます

そこに天使たちが現れ、死んでも踊るようにと言われてしまうのですね

 

そのままずっと踊り続けることになったカレンは、死刑執行人を見つけて、足を切り落として欲しいと懇願します

カレンの足は切断されてしまいますが、靴はそのまま踊り続けていました

死刑執行人は切り落とした足の代わりに木製の足と松葉杖を与え、彼女は教会を目指そうとします

でも、赤い靴は彼女の行手をずっと阻んでしまい、とうとう教会にも行けなくなって、神に助けを求めます

そこに天使が現れ、カレンに慈悲を与え、彼女の魂は天国へと旅立つことになりました

 

どちらも「赤い靴」に翻弄されてしまう悲しい人生になっていて、それをどう表現するのか、というのが、ハーロウ夫人の言いたかったことのように思えます

表現すべきことはたった一つのように思えますが、演目の中で主人公の心情の変化をいかに見せられるかで、説得力が変わってくるのかな、と感じました

 


表現に宿るもの

 

バレエに限らず、物語を表現する演目は、演じるキャラクターのことが理解できていないと、演じるものに嘘が混じってしまいます

先のアンデルセンのカレンだと、甘やかされて育ったという背景があるし、マシュー・ボーンのジュリエットだと才能を見初められたバレエダンサーという背景があります

そこから「赤い靴」と出会ったことで、彼女の中でどんな変化が起きたのか、というところが肝要で、基点から変化するものを演じていく必要があります

特に赤い靴に踊らされているというシーンでは、最初は楽しさが感じられても、そのうち苦痛になり、好きだったダンスを捨てる(足を切り落としても良い)という気持ちの変化を表現する必要があると言えます

 

ハーロウ先生は「あなた自身を表現しなさい」と言い、それは「あなたが赤い靴を履いて、自分の意思ではなく踊り続けさせられたらどのような気持ちになるかを表現しなさい」と言っているのですね

赤い靴はキーアイテムで、演じるのはダンサーであるサマンサが赤い靴と出会ってどう変化するのか、ということになります

それは、その時点でのバレエに対する情熱の量であるとか、それが苦痛になってしまう絶望などがあり、喜びから苦しみに変わる絶望というものが必要になります

恋人かバレエかを選択する物語ならば、選択に対する自分の感情というものを重ねていくことになります

 

映画におけるサマンサは「姉の喪失によってバレエから距離を置いた」というのが起点のように思えますが、実際には「姉がいなくなったから姉の代わりに主役になれた」という劣等感なのですね

その禍々しい感情が成熟しないままに取り残され、それが燻っている中で、もう一度踊る機会を与えられています

ハーロウ先生が「自分を出せ」と言っているのは、「姉の代役をするな」と言っているのですね

誰もが姉の代役をして欲しいとは望んでいない中で、彼女だけが姉の代わりを演じようとしている

そのマインドになっているのは「赤い靴」の呪いだったのかもしれません

 

映画のラストでは、その赤い靴をステージに置いて帰るのですが、その靴を姉に渡したという意味になるのだと思います

もしかしたら、赤い靴に宿っていた「バレエへの衝動」は、夢半ばで潰えた姉の怨念でもあり、それを打ち消すための強い意志が自分が必要だったということでしょう

それを成し得たのは、自分のためではなく、自分を支えてくれている人のために踊ることになったからなのかな、と感じました

 


120分で人生を少しだけ良くするヒント

 

本作は、いわゆるスポ根系の物語で、才能ある若者が挫折し、そこから立ち直る過程を描いています

主役に抜擢される程の実力がありながら、心の中では「姉の代わり」と自己評価が低く、また姉への憧憬が強いために、自分の演技も影響を受けているという存在でした

姉の真似をすることで上達した部分もありますが、そこには確たる自分がなく、それが姉の喪失によって一気に顕在化しています

ハーロウ先生は、彼女の中の才能を信じ、代役以上になれると期待していますが、その声は全く届いてはいませんでした

 

彼女が再びバレエに向き合えたのは、根源となる欲求、すなわち「バレエが好き」という本質が魂を揺さぶることになったからでしょう

サマンサがバレエを始めたきっかけや、それを継続してきたものの正体を考えると、そこには純粋なものがあって、それをハーロウ先生は見抜いていたのだと思います

その根元を取り戻すためには、彼女自身の思い込みである「姉がいたからバレエをしている」というものを払拭する必要がありました

 

姉の死は物語上の都合ではありますが、あの劇団にいればいずれはぶつかっていた壁であり、自分の中で「姉の代わりなんだ」というものを言い聞かせることになったでしょう

自分を見る周囲の目が「姉との比較」になっているように感じられ、本来は実力で選ばれているのに、そうではないような錯覚を覚えてしまう

それがやがて彼女を蝕んで、バレエ自体を嫌いになっていたかもしれません

 

才能というのは自信があって初めて輝くもので、その自信というものが活力になっていきます

覚醒モードに入ってくると、作品と自分を向き合わせることになり、そこで自分ならどうするかという観点が生まれてきます

これは姉の代役だと思っていても起こるもので、自分自身のバレエと姉のバレエを比較しながら、自分流の解釈を生んでいくことになります

自信に必要な要素はたくさんありますが、最も重要視されるのは根元欲求であるように思えました

 

アスリートの根元欲求というのはトップレベルになるほどに異次元の領域に突入し、それはやがて研ぎ澄まされた感覚へとなっていきます

そこには絶対的な尊厳があって、作品を愛し、自分を愛し、そして自分を支えてくれる全てのものを愛する瞬間が訪れます

そうした先にある演技は、アスリート自身の人生を凝縮した表現になり、その余波が観客の心を魅了するようになっていきます

ミドルレベルだと「主人公が憑依している」ように見えますが、トップレベルだと「作品はこのアスリートのためにあるもの」という感覚になってくるのですね

そうしたものが本来あった作品のイメージを刷新し、その人でなければ演じられないものへと昇華していきます

 

「赤い靴」の主人公は「自分自身の行いを神に悔いて、新たな世界へと旅立つ物語」ではありますが、赤い靴に何を置き去りにするのか、というものが演じる上で重要になります

今回の場合は「姉への憧憬と感謝」を置き去りにすることになったのですが、これはサマンサでなければできない表現なのですね

それが観客に伝わってこそ、彼女のひとつ目のステージが終わりを告げます

でも、その物語は「彼女の中で完結するもの」であり、観客にはそこまでの奥深さは伝わらないものなのですね

彼女が赤い靴をステージに置く意味を知るのは、彼女の生き様をそばで観てきた人たちなので、そういった意味において、観客が帰った後に為された行為である必要があったのだと思います

 


■関連リンク

映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)

https://eiga.com/movie/101071/review/03626757/

 

公式HP:

https://redshoes.ayapro.ne.jp/

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投稿者 Hiroshi_Takata

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