■修正するか破壊するかを決められない時点で、この問題は先送り以外の選択肢がなくなっているように思えました
Contents
■オススメ度
育児崩壊のリアルを感じたい人(★★★)
社会のセーフティネットの在り方を考えたい人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2024.5.9(アップリンク京都)
■映画情報
原題:Systemsprenger(攻撃的で乱暴な子ども)、英題:System Crasher
情報:2019年、ドイツ、125分、G
ジャンル:幼少期のトラウマから攻撃的になった9歳の女の子を描いた社会派ヒューマンドラマ
監督&脚本:ノラ・フィングシャイト
キャスト:
ヘレナ・ゼンゲル/Helena Zengel(ベニー/バーナデット・クラース:攻撃的でわがままな9歳の女の子)
アルブレヒト・シュッフ/Albrecht Schuch(ミヒャ/ミハエル・ヘラー:アンガーマネージメントのトレーナー、通学付添人)
ガブリエラ・マリア・シュマイデ/Gabriela Maria Schmeide(バファネ夫人:青少年支援活動家)
リザ・ハーグマイスター/Lisa Hagmeister(ビアンカ・クラース:ベニーの母)
Bruno Thiel(レオ・クラース:ベニーの弟)
Ida Goetze(アリシア・クラース:ベニーの妹)
メラニー・シュトラオプ/Melanie Straub(シェーネマン先生:ベニーの主治医)
ヴィクトリア・トラウトマンスドルフ/Victoria Trauttmansdorff(シルヴィア:ベニーの養母)
Cederic Mardon(ジャスティン:シルヴィアの現在の養子)
マリアム・サリー/Maryam Zaree(エリ・ヘラー:ミヒャの妻)
(アーロン:ミヒャとエリの生まれてくる息子)
テドロス・テクレプラン/Tedros Teclebrhan(ロバート:養護施設のスタッフ、責任者)
Matthias Brenner(ヴォルフガング:養護施設のスタッフ)
Asad Schwarz(マーク:養護施設のスタッフ)
Jana Julia Roth(サスキア:養護施設のスタッフ)
Amelle Schwerk(モナ:養護施設のスタッフ)
Fine Belger(カティ:養護施設のスタッフ)
Peter Schneider(ファビオ:養護施設のスタッフ)
Louis von Klipstein(デニス:養護施設のインターン)
Barbara Philipp(レデカンプ:ホームマネージャー)
Sashiko Hara(服屋の店員)
Imke Büchel(ヘルツォーク:ドライバー)
Roland Bonjour(イェンス:ビアンカの恋人)
Gisa Flake(養護学校の教師)
Axel Werner(ボッケルマン:農夫)
Bärbel Schwarz(スナックの販売員)
Till Butterbach(ピーター:看護師)
Julia Becker(看護師)
Hadi Khanjanpour(空港職員)
Samantha Hanses(空港職員)
Matilda Florczyk(ナターシャ:クラスメイト)
Marie von der Groeben(アンナ:クラスメイト)
Helena Gutscha(ジェシー:クラスメイト)
Bianca Hittmann(ビアンカ:クラスメイト)
Lily von Hugo(リリー:クラスメイト)
Stella Hummel(ステラ:クラスメイト)
Yael-Luise Witzmann(ヤエル:クラスメイト)
Gennaro Trama(帽子を被った男の子)
Noah Lakmes(コントローラーを持つ男の子)
Stella Brückner(ジャニナ:養護施設の子ども)
Jannes Kupsch(マルコ:養護施設の子ども)
Moritz Thiel(モーリッツ:養護施設の子ども)
Miguel Ribeiro(アイススケーター)
■映画の舞台
ドイツ:ベルリン
ロケ地:
ドイツ:
ネブルガーハイデ/Lüneburger Heide
https://maps.app.goo.gl/fgSSMcVZ3CJZt92f6?g_st=ic
ベルリン/Berlin
ハンブルク/Hamburg
■簡単なあらすじ
9歳のベニーは、幼少期のトラウマが原因で「顔をさわられるとパニックになって凶暴になる」と言う性質を抱えていた
その原因は医学的にはわからず、対処療法として抗精神薬のリスパダールを処方されるのみだった
母のビアンカは娘を制御できずに怖いと感じていて、幼い息子レオと娘アリシアのことを考えて、ベニーを施設に預けようとしていた
だが、支援学校でも暴れ、養護施設でも手に負えないベニーは居場所を失ってしまう
そんな折、一時避難所に預けられたベニーに、アンガーマネジメントの専門家のミヒャが通学付添人として付くことになった
ベニーはその後も様子が変わることなく、ミヒャはルール違反と知りながらも、彼女を自宅に泊めてしまう
ベニーは養護施設を追われ、一時避難所に身を預けるものの、徐々にそこでの生活に馴染んでしまい、行政としても苦渋の選択を迫られてしまう
やむを得ず、幼少期に養母として世話になったシルヴィアを頼ることになるのだが、ベニーはそこでも問題を起こしてしまうのである
テーマ:受容と排除
裏テーマ:社会が負う責任の範囲
■ひとこと感想
ドイツにおける育児支援の一環として、育児放棄された子どもの受け皿のリアルと描いている本作は、その演技力の高さが定評で、強烈なインパクトを残す作品となっていました
システム・クラッシャーというのは「暴力性によって手に負えない子ども」という隠語で、社会が作り上げたセーフティーネットを壊してしまう存在のことを言います
映画は、9歳の少女ベニーが母親から育児放棄されていく様子が描かれ、映画内の原因としては「幼少期にオムツを顔に当てられた経験がトラウマになって、顔をさわられると異常なまでの暴力性を発揮する」というもので、母親は怖くて手に負えないので福祉に丸投げしているという流れになっています
映画だけの情報だと、ベニーには良い顔を見せるけど、福祉に対しては非協力的かつ無自覚な破壊者にも見えてしまいます
率直な感想を言えば、母親もある種のシステムクラッシャーということになるのでしょう
物語は、アンガーマネージメントの専門家がベニーの補助につくことになり、彼の父性が邪魔をしている様子が描かれていきます
ミヒャもまたルールを逸脱してしまうクラッシャーのようでもあり、これをシステムの限界と捉えるのかは微妙なところがあると思います
ともかくベニー役のヘレナ・ゼンゲルの演技が凄まじく、暴力性と少女性を同居させているのは行く末の恐ろしさを感じてしまいます
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
映画は、行く先々でトラブルになるベニーを描いていて、それゆえに「自分で自分の首を絞めている」という状態になっています
ベニーはそこまで分別がつかないわけではありませんが、スイッチが入ると自分では止められないのですね
処方されているのも抗精神薬で、閉鎖病棟には年齢的に入れられないなど、セーフティネットの外側にはみ出してしまう特例を描いていくことになります
この特例をルールをねじ曲げても救うのか、それともセーフティーネットを別の場所に探すのかという問題があって、本作における判断は「諸外国に委ねる」という結末へと行き着きます
いわば「システムは変えずに、彼女を受け入れるシステムを探す」というもので、この判断には賛否が分かれると思います
行政としても、特例を作りすぎるとシステムそのものが崩壊してしまうジレンマを抱えていますが、その運用に重きを置くとはみ出してしまうものは出てしまいます
ビアンカもある種のクラッシャーであり、言動不一致や責任放棄、転嫁など目に余る行為がひどいので、母親に対するケアや対処の方も必要だと思いました
いっそのこと親権を放棄し、関わらないと決めてくれた方が行政も動きやすいでしょうが、それは手放さないけど責任は放棄するという最悪な状態を許している状況も問題なのだと言えるでしょう
■システム・クラッシャーとは何か
映画のタイトルでもある「システム・クラッシャー」とは、日本だと「問題児」と要約されるような、既存のシステムを壊す者のことを言います
社会を混乱に招くという意味合いもあって、本作のベニーは「家庭で無理」「施設で無理」「アンガーマネージメントのプロでも無理」という感じになっていました
これらは「ドイツ社会が用意している離脱者のプロセス(=システム)」に則っているもので、そのプロセスを経ても対処が難しい子どもがいる、という現実があります
原因を特定すれば矯正できるというものではないのですが、本作の場合は「大人側も壊している」という背景があると言えます
システムの構築はいわば机上の空論とこれまでの体験がミックスしたもので、できるだけ広くキャッチすることを考えて作られています
でも、実際には個別の対応が必要で、同じ対応をしても効果があるとは限りません
むしろ、通常のシステムで対応できていないという前提があるところに、さらにシステムを重ねようとするのが無理難題であると言えます
システムで作れるのは「どのように誰が対応するか」というところで、担当者の対応をシステム化することはできません
ある程度の自由裁量(今回の森で寝泊まりする)を取り入れて、「信頼する」しかありません
この「信頼」は、実績でしか作れず、適応試験などを作ることも難しいでしょう
いわゆる曖昧さというものが必要になっていて、システムっぽくないシステムというものが必要なのですね
それはなんでも吸収するという意味合いで、システムを壊そうとすること自体を吸収してしまうものでしょう
ベニーをはじめとしたクラッシャーは、システムの中に入りたくないという思考が根底にあるので、「自由にしたら良い」という場所を与えて、彼らの手が届かないところに社会との壁を作れば良いのかな、と感じました
■根本解決に向けて何ができるのか
システムは頑丈であればあるほど脆く、適応できる人が少なくなるものだと思います
学校、クラスなどのように、ある一定の場所で同じことを教えたりする既存の教育システムは、形を変えても塾、訪問教育などに限定され、クラスに馴染めない子どもを在宅で教育しても、本来のシステム内で教えたいこととは乖離しているものかもしれません
この派生が根本解決に繋がっているとするならば、全員を無理にシステムに嵌める必要はなくなると言えます
学校教育は効率を優先すべきか、個々の生徒の学力向上を優先すべきかという問題があって、理想論と現実の折り合いの末に、今のような形が生まれています
システムから落ちこぼれる人がいるのは、個々の学びのスピードが違うからで、学ぶことに対する心構えもスタート時はバラバラの状態になっています
結局のところ「勉強していないと将来困るよ」と未来からの体験談に頼るしかないのですが、生徒側は「先生と自分は違う生き物」という感覚があるので、先生のようになりたいという生徒を除けば、機能しづらいものだと思います
これまでのシステム構築は、国というものの在り方論から出発していて、日本の教育もマインドは戦前と同じようなものでしょう
いわゆる集団教育にて、同じくらいの学力の国民を作り出すという目的があり、それに意味を感じる人もいれば、拒絶反応を示す人もいます
学校で学ぶことは将来役に立ちますか?と聞かれるシーンがあると思いますが、教科の細かなことが全て役に立つとは言えないでしょう
模範的な回答だと「適性を探る」というもので、いろんなものにチャレンジして、自分の好きなものは何かというものを「やってみて決める」ということになります
また、「論理的な思考を育てる」「感性を育てる」などのように、各教科によって培われる個別の能力の向上の仕方を学ぶ場である、というものもあります
さらに、コミュニティに属することで、コミュニティや組織の中で居心地の良いポジションを探るためとか、人間関係の練習の場である、などもあると思います
感性を育てるために芸術にふれたとして、抽象的な絵画を他人にわかるように言語化するとか、自分が感じたものを共通言語に変換する、なども教育の中で必要なことでしょう
これらの「人が育って、社会の中で生きていくために必要なもの」というものが、教育の現場のツールを通じて学べるということが生徒に理解できるかどうかが重要なのですね
なので、良い大学に行って、良い企業に入るための教育だけをしていると、必ず競争社会に適合できない人が出ます
また、その彩られた将来に何の魅力も感じていないと、そこに向かおうとする子どももいないでしょう
現在では、多くの人の個人的な感情というものが誰にでもアクセスできる時代になっていて、自分が目指している学歴(目標)を達成した人が「思い通りの人生になっていない」なんて声を耳にすることも多くなっています
これらの教育システムを好意的に受け入れて育った世代が子どもたちの目の前にいて、彼らが幸せそうに見えるかどうかというのも問題であると思います
親の背中を見て育つと言いますが、その背中が煤けているのも現代の特徴でしょう
これは従来型のシステムが実験によって失敗していることを意味するので、その失敗しているシステムに乗ろうとする子どもがいることの方が不思議に思えてきます
最終的に、自立できていない子どもは黙って耐えるしかなく、それは前時代でも同じで、その負の遺産を繰り返して「痛みを共有する」という歪な構造になっているからでしょう
なので、失敗していることを認め、そのシステムが登場した段階の初期設定を現代風にアップグレードする必要があるのかな、と感じました
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
本作は「大人もクラッシャー」という感じに描かれていて、その最たるものが母親のビアンカになっていました
母親にも色んな苦労があると思いますが、無計画で男を見る目もなく、困ったら行政に丸投げし、最終的には「状況を娘に伝えること」どころか、別れの挨拶すらしないという顛末に至ります
ベニーはケニア行きの途中で逃げてしまいましたが、もう母親と住むことは不可能なレベルになっていて、下手をすれば死人が出てもおかしくないところまで来ています
ここまで来ると行政やシステムの出番は終わっていて、個別対応、すなわち「母と娘の問題」になっていました
システムがうまく機能していない背景には「ベニーの親権問題」というものがあって、彼女の養育権及び親権を母親が放棄していないために、いまだに保護者という関係性を保っています
これによって動くに動けない部分もあり、苦肉の策で限定的な里親をつけたりしていますが、本来ならば、永続的に里親の世話になる方がマシのように思います
この辺りの「なぜ?」というところは描かれていませんが、育児放棄をしているとしても、親権放棄の手続きを踏むまではハードルが高いのだと考えられます
自分で育てると言ったり、それを1日で反故にしたりするところも問題で、この母娘関係の根幹は「娘を中途半端にしか愛せない」というところにあるように見えます
自分の思い通りにできる娘なら愛せるとまでは言いませんが、自分のキャパを超えた段階でアウトで、それが現実にならずとも、想像の段階で超えると無理なのですね
レオたちがベニーの真似をすることを恐れていますが、それはベニーを制御できていない母親にも問題があって、子ども同士ではなぜその行動に至っているのかが理解できていたりします
その子どもの中だけで通じる共通言語を掘り起こさずして、どんな解決策があるというのでしょうか
映画では、結局のところ「システムクラッシャーはドイツ国内では手に負えない」ということでケニア送りにする結論に到達していますが、それも「当たり障りのない最もらしい理由」とうものが付随しています
森での体験を活かして、自然とふれあう機会を増やすとか、これまでの体験によるプラスの面を見ているとまでは言えないのがなんとも言えないのですね
もし、森の中で希望が見えるのなら、それは何故なのかということを突き詰めなければいけません
映画の中からわかることは非常に少ないのですが、分かりやすいものだと「脳の処理能力を超えるだけの体験がある」というところでしょう
ベニーが自分に置かれている状況以上に新鮮な情報が入ってきていて、それによって「目の前のこと」を処理するために集中している状況ということになります
人は考えれば考えるほど「ありもしない、起こりもしないこと」に囚われる傾向があり、それはベニーもビアンカも同じだと思います
この二人はとても似通っていて、性質で言えばコントローラーーの部類に属します
コントローラーはその場をコントロールすることで心の安堵を持つのですが、これがぶつかりあうと、どちらがか折れるか引くしかないのですね
そして、この二人は「コントロールする目的」というものが微妙に違うように思います
ビアンカは家庭の平穏、すなわち他の子どもたちのことも考えた平穏というものを望み、その手助けをベニーがしてくれたらと考えています
一方のベニーは「自分のことを見てほしい」というもので、いまだに家族の一員である自覚というものがありません
この自覚が失われているのが、一緒に過ごしてきた時間の少なさによって起こっていて、ベニーがその役割を担っても、ビアンカがそれを悪影響だと思っている時点で詰んでいると言えます
その根底には、愛よりも勝る感情があるわけで、それを素直に認めて、ベニーに伝える以外に方法はありません
自分の娘に対して「怖いから育てない」と言えるかは難しいと思いますが、それを避けているから状況が悪化しているとも言えるので、向き合う必要があったと言えます
でも、その機会は「親も逃げ、行政も深入りできないという闇のようなもの」で、解決策すらも既存のシステムを壊さないとできない、というところに、大きな課題があるように思えました
■関連リンク
映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
https://eiga.com/movie/90725/review/03780099/
公式HP:
https://crasher.crepuscule-films.com/