■素人が誰にも気づかれずに人を殺している時点で嘘だとバレてしまうと思います
Contents
■オススメ度
多重構造のミステリーが好きな人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2024.1.12(イオンシネマ京都桂川)
■映画情報
情報:2024年、日本、109分、G
ジャンル:ある山荘で行われるオーディションにて次々と不可解なことが起きる様子を描いたミステリー映画
監督:飯塚健
脚本:加藤良太&飯塚健
原作:東野圭吾『ある閉ざされた雪の山荘で(1992年、講談社文庫)』
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キャスト:
重岡大毅(久我和幸:オーディションに参加する唯一の部外者)
間宮祥太朗(本多雄一:劇団のトップ俳優)
中条あやみ(中西貴子:公演直前に役を奪われた女優)
岡山天音(田所義雄:恋愛感情を拗らせたクセあり俳優)
西野七瀬(元村由梨江:世間知らずのお嬢様女優)
堀田真由(笠原温子:役のためなら超勝気なワガママ女優)
戸塚純貴(雨宮恭介:優しい劇団のリーダー)
森川葵(麻倉雅美:圧倒的演技力のカリスマ女優)
大塚明夫(東郷陣平:劇団「水滸」の主宰)
堂坂更夜香(雅美の母)
木村康雄(雅美の父)
市原朋彦(前回のオーディションの雅美の相手役の俳優)
■映画の舞台
大雪で閉ざされたオーディション会場「Shiki Villa」
ロケ地:
千葉県:君津市
房総 四季の蔵
https://maps.app.goo.gl/SyJZLWJ2Vs9nJUXT7?g_st=ic
千葉県:館山市
Cairns House(山荘内)
https://maps.app.goo.gl/fuXsoEzVdZUjwWj59?g_st=ic
山荘外観
https://maps.app.goo.gl/VTBkmuza9Ysxdd4S7?g_st=ic
見物海岸(バス停:九十九:架空)
https://maps.app.goo.gl/Cj1qDoqqYgGKPrsx8?g_st=ic
■簡単なあらすじ
劇団「水滸」のメンバー6人と部外者1人は、劇団の次回作のオーディションのために、海岸沿いのある別荘に集められていた
主宰の東郷先生の仕掛けとして、次回作「ある閉ざされた雪の山荘で」と銘打たれた演劇は、そこで起きる事件を解いた者が、主役になれるというものだった
招かれたのはリーダーの雨宮、トップ俳優の本多、劇団出資者の娘・由梨江、由梨江に恋心を抱く田所、ワガママで主宰と関係を噂される温子、温子に役を奪われた貴子、そして前回のオーディションに参加していた部外者の久我の7人だった
レストランで働いている久我が料理を作り、それぞれは事件が起こるのを待つ
リビングにはアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』が置かれていて、事件のヒントになりそうな予感がしていた
そして、2日目の朝、一人目が姿を消してしまうのである
テーマ:閉鎖空間の狂気
裏テーマ:因果応報
■ひとこと感想
山荘に閉じ込められた7人の俳優が事件に巻き込まれるという設定だけを頭に入れて鑑賞
原作未読だったので、良い意味でラストのオチには裏切られました
それでも、腑に落ちない部分が結構あったので、今でもモヤモヤしていますね
物語は、オーディション会場で事件が起きて、それを解決した人が次の公演の主役になれるというもので、そこに選ばれた7人が来たという感じになっています
いきなり海辺の別荘に来たので、雪設定どうなった?と思っていましたが、オーディションの設定で、その設定を無視することはできないという縛りになっていました
基本的に7人以外は登場せず、8人目が鍵を握っていることは序盤からわかる設定になっていましたね
主宰は声だけの登場かと思いましたが、回想シーンでしれっと出ていたのは笑ってしまいました
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
映画の最大のネタバレとは、映画全体の構成になりますが、その構造によって、不可解に思える点が浮上しているように思います
原作でどのような説明になっているのかとか、改変によって生じたものかはわかりませんが、この構造だと「久我が招いたのは誰か?」という疑問が残ってしまうのですね
オーディションに参加ということなら先生の判断ということになりますが、麻倉の脚本を再現するということになれば、久我があの場所にいる理由がわかりません
麻倉の脚本にはないはずなので、本多が仕組んだことになりますが、彼がシナリオを乱す可能性のある久我を入れる意味がわかりません
てっきり本多が久我を「探偵役」として招き入れていて、裏で繋がっていたのかと思いましたが、それを感じさせるシーンは皆無だったと思います
最終的には「芝居だった」ことを雅美に告げることになるのですが、報復される役どころの雨宮、由梨江、温子が探偵役になるわけにもいかず、田所と貴子ではそのような能力はなさそうに思えます
それゆえに第三者視点の導入とともに久我の存在は必要になるのは必然なのですが、では誰の思惑でここにいるのかというのはきちんと描くべきだったと思いました
彼があの場所に来た時点で、麻倉の思い通りにはならないのですが、それをアリにするならば、最初から麻倉のシナリオにいる人物、すなわち「新入劇団員」にしておいた方がまだマシだったように思いました
■多重構造の綻び
本作の構造は三重構造で、久我が劇中で言及していたのは「二重構造」の部分になると思います
「朝倉の脚本(復讐殺人)」「本多のアレンジ(復讐演技)」、そして、「事実を元にした演劇」の部分が事件当時にはなかった構造ということになります
観客側の視点だと「すべてが演劇」にも見えますし、「事故を起因とした復讐を演劇にした」ようにも見えます
とは言え、この境界線を残している以上、映画として完成されているとは言えません
「すべてが演劇」の場合、事故もフィクションになってしまいます
麻倉が歩いている回想シーンやオーディションのシーンがある以上、車椅子に乗っているシーンは嘘になるのですね
なので、本当に歩けないということになると、「事故を起点として復讐劇は事実」で、これをネタにした演劇を久我が書き上げたということになります
でも、あの事故を起因とした演劇を麻倉の精神状態で演じられるのか(特に回想シーン)は微妙だと言わざるを得ません
映画では、「偽オーディション」について知っているのは「本多と由梨江、温子、雨宮」の4人ということになっています
オーディション自体が嘘なので、ここに部外者である久我が入り込む余地はありません
また、復讐される人が3人に対して、劇団員の数合わせ2人というのは少なすぎるように思えます
最終的に3人が消え、残った4人の誰が勝者になるのかという風に見えるものの、仕掛け人の本多はその役を演じることはできず、田所も貴子も探偵役をできるほどの活躍を見せてはいませんでした
映画では、久我が全てのカラクリを知っているかのように他人(田所と貴子)を誘導していくのですが、ここまで内容を知っていると「共犯」以外には考えにくいと思います
部外者である久我が「偽のオーディション」に参加する理由は一つしかありません
それは、彼が「ゲームをコントロールしながら解決する」という一人二役をするために呼ばれた存在ということになります
部外者の久我の行動はゲームにアクシデントをもたらすことになるのですが、そのような不確定要素をシナリオに組み込むことはあり得ないのですね
復讐しているように見せかけて、怒りの主を騙すという構図になっているのですが、久我の行動に「予期せぬ動き」というものは皆無でした
なので、冒頭で外で二人きりで話しているという状況で「説明か確認をしている」ことになります
あの場でいきなり説明をして理解できるとはとても思えないほどに複雑なので、事前に説明をして再確認をしているシーンのようにしか見えません
久我は麻倉の演技に魅了されて水滸に入りたいと思っている人間なので、あのオーディション後のことを本多から聞いて、彼女の計画を阻止するのを手伝ってほしいと言われれば加担する人物であると思えます
この演劇を麻倉にバレずに完遂するためには、実際には「全員グル」というオチでもないと達成できるとは思えません
田所は花瓶の血を舐めて本物だと言いますが、花瓶についた付着物を何の警戒心もなく舐める人もいないし、そのそも「舐めて人の血だとわかるのか」という疑問があるのですね
なので、彼も本当の殺人事件が起こっているように見せかける「誘導役だった」ということになります
また、貴子も一度は逃げようとして辞めた人物で、これと同じ行動を起こしたのが雨宮でした
麻倉の視点で考えると雨宮を逃したくはないので、その前段階で「逃げるけど諦める」という行動を見せる方が効果的なのですね
貴子は逃げなかった、リーダーのお前は逃げるのかというもので、貴子が留まっている以上、彼は外に逃げることができません
なので、最後まで残り、かつ抜け出す体力も腕力もある雨宮を留まらせるために貴子が配置されたようにも思えてきます
本当は、「事故すら嘘」というオチが一番しっくり来るのですが、それだと最後に椅子から立つという映像が必要になってきます
それをしないのは劇を観ている観客の余韻を壊さないためだと思いますが、観客の見えないところで役を解くシーンを挿入することで、全体が「事件を元にしていない脚本」ということになると思います
そして、このネタを持ち込んだのが久我で、彼は演者ではなく、作家として水滸に寄与したい人物だったというオチもありだったのかな、と感じました
■勝手にスクリプトドクター
原作がどのような構成になっているかというのは置いておいて、この映画の内容をどのように改変したら「マシ」になるのかを考えたいと思います
その為には、いくつかの前提を決めておかなければなりません
もっとも重要なのは、「事故が事実がどうか決める」というもので、これが有耶無耶だと話が始まりません
映画では「おそらく本当」という感じになっているのですが、それは「事故由来の山荘事件」を演劇にしているからなのですね
映画の流れで考えると、スマホよそ見事故に対して復讐殺人を実行しようとするのか、という疑問が湧いてきます
この動機を成立させるには、麻倉がオーディションに落ちた理由の中にあの3人を組み込んでいかなければなりません
となると、元々あの3人とは因縁があるとか、事故後の公演で下手くそなのに脚光を浴びているなどの「復讐を募らせる別の要因」が必要になってきます
温子が先生と寝たから役に落ちたとか、出資者である由梨江の父が露骨に麻倉の演技を酷評しているとか、リーダーを信頼して相談したのにその内容が劇団員に知れ渡っているなど、無駄なボリュームを作る必要になってしまいます
実際の人間関係のトラブルをシナリオに落とし込むとすれば、誰もが思っていることを明文化することになり、それは演者の動揺と緊張感を走らせることになります
由梨江は出資者の娘だから優遇されている、温子は役の為なら体を使う、貴子はその被害者になりやすい、など、実際には口に出せなかったことが演劇の中に組み込まれることでさらに増幅するのですね
これによって、演じているうちに本当の気持ちが重なってしまい、さらに行動がエスカレートしていきます
そして「オーディションに落ちたという事実」の際に、彼ら3人の影が見え、かつ「3人が麻倉を見下している」という構図が「本物のように見えてくる」という感じになります
元々は無茶な動機に思えたものが、現実と虚構が重なることによって増幅され、麻倉の中で何かが切れてしまう
そして、そんな彼女を支えたいと思っている本多が加担するという流れになっていきます
虚構に感情が乗った段階で繰り広げられるものは、言葉が強く鋭利になって攻撃性を高めます
なので、麻倉の家で起こる喧嘩はもっと壮絶なものになり、その後のイタズラ電話が不要になります
家の外に3人を追い出して、そこで悪態をついている麻倉が目の前で事故に遭う
事故に遭った麻倉には、自分を見下ろす3人が「ざまあみろ」と笑っているように見える
そうすることによって、行き過ぎた感情というものが湧き起こり、復讐心が芽生えてくることになるのではないでしょうか
その後の展開はそのままですが、久我は「探偵役をさせる為に本多が招き入れた」ということになり、彼らは結託していることになります
この劇の目的は「歪んだ麻倉の復讐心を無力にすること」であり、吐き出された後に残る感情というものを引き出す必要があります
麻倉は一人殺されるごとに素に戻っていき、目の前で相手が殺されても、心が晴れないことをを理解していきます
この心理誘導の後に、久我は「麻倉の脚本から脱線させるシナリオ」に移行していきます
それが「久我による本多の殺害」で、それが起こるのは「本多が雨宮を殺すところを目撃したから」なのですね
麻倉は死ぬ必要のない人間が死んだことによって、自分の復讐に巻き込んだことを後悔するようになります
無論、本多と麻倉が思い合っているということが前提になり、それによって彼女は自分から姿を現し、本多の元に駆け寄ることになります
麻倉から復讐のオーラが消え、そして本多が死んでいないことに気づく
そして、彼女に対する壮大なネタバラシを終えて、幕は降りることになります
ラストは「この事件を演劇化せず」に終わらせ、劇団が再び一つになって、新しい価値を生み出していくラストになれば良いのかなと思いました
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
本作は、閉鎖空間ミステリーものなのですが、一人ずつ殺されていくという設定にしては参加人数が少なすぎます
本作では7人が山荘の中にいて、そこで「次々と殺人事件が起こる」というもので、次々というからには最低でも3人ぐらい死なないと連続殺人にすら思えないのですね
終わってみれば、死亡3人、生き残り4人で、生き残りの中に犯人がいるとしても、女性は一人除外されてしまうので、犯人候補が少なすぎることになります
また、これだけの人数で次々殺される感じだと「外部犯が全滅を狙っている」というカテゴリーになりますが、人が殺されている現場を誰も離れようとしないのは意味がわかりません
いっそのこと、荷物をまとめて逃げた由梨江が外で殺されていたというのがベストで、死体は井戸まで引きずられた形跡があって、その中には死体らしきもの(実際には人形)が見えるというところまで装飾する必要があったりします
外に犯人がいるかもしれないし、かと言って中にも怪しい自分つは残っている
そうした緊張感を演出しないと、死ぬ気で演技しろという言葉が軽くなってしまいます
彼らの演技力だと「殺された時に本当に死んでいるように見える」というものになりますが、犯人は律儀にも死体をどこかに隠しているので、怖さも一緒に外部に抜けていってしまっているように思えます
劇中の密室事件を本物に見えるクオリティがないと、麻倉どころか観客をも騙せないので、せめて「死体に見える何か」の描写は必要だったでしょう
井戸の中を見て吐くという演技があっても、観客に井戸の中を見せない意味がわからず、決定的な死体を見せない=実は死んでいないという定番で見透かされてしまっています
前半の密室殺人が本物に見えることが麻倉を騙す上でも最低条件のもので、本作のテイストだと「準備期間は死ぬほどある」ので、ある程度の小道具を用意することは可能でしょう
本作は、前半の殺人が嘘っぽく見えている段階で失敗していて、かつ犯人(麻倉)の動機と行動がうまく結びついていません
それゆえに「劇中劇でした」というオチも「で?」という感じになっていて、さらに「この事件を演劇化したよ」という悪趣味全開のオチになっていました
勢いで最後まで見せようとするものの、ネタバラシで高説を垂れる久我役の演技が絶望的に酷いので、どこをどう評価して良いのかわかりません
そして、エンドロールでは「余韻を一瞬で消し去るジャニ歌」が大爆音で流れるという終わり方をするので、本当に主演のファン以外全員が酷評するという映画になってしまっていたではないでしょうか
■関連リンク
映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
https://eiga.com/movie/99993/review/03352063/
公式HP:
https://happinet-phantom.com/tozayuki/