■人と人の繋がりは、挨拶と対話によってのみ、深く尊いものになる
Contents
■オススメ度
ジェンダー問題に関心がある人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2024.1.11(京都シネマ)
■映画情報
原題:20.000 especies de abejas(2万種類のミツバチ)、英題:20,000 Species of Bees
情報:2023年、スペイン、128分、G
ジャンル:ジェンダーに悩む少女と家族の葛藤を描いた青春映画
監督&脚本:エスティバリス・ウレソラ・ソラグレン
キャスト:
ソフィア・オテロ/Sofía Otero(アイトール/ココ/ルシア:性的自認に悩む8歳)
パトリシア・ロペス・アルナイス/Patricia López Arnaiz(アネ:ココの母、彫刻家)
マルチェロ・ルビオ/Martxelo Rubio(ゴルカ:ココの父)
ウナス・シャイデン/Unax Hayden(エネコ:ココの弟)
アンドレ・ガラビエタ/Andere Garabieta(ネレア:ココの義理の妹)
Jules Lete(ペイオ:赤ん坊)
アネ・ガバラン/Ane Gabarain(ルルデス:ココの叔母、養蜂家、蜂治療の診療所運営)
イツィアル・ラスカノ/Itziar Lazkano(リタ:ココの祖母、アネの母)
サラ・コサル/Sara Cozar(レイレ:ココの叔母)
ミゲル・ガルセス/Miguel Garcés(ジョン:ココの叔父)
Julián Urkiola(ユリアン:アネの親戚)
Julene Puente Nafarrate(ニコ:ユリアンの孫、ココのいとこ)
Mariñe Ibarretxe Frade(ジューン:ココの親戚)
Aintziñe Rey Zurimendi(サーレ:ココの親戚)
Manex Fuchs(マルティーナ神父)
Rafael Martín(ミゲルチョ:ココの祖父の助手)
Fernando Ustarroz(ドン・エステバン:彫刻家)
Tibet el Perro(オーストラリアン・シェパード:犬)
■映画の舞台
フランス:バイヨンヌ
スペイン:バスク地方ラウディオ
ロケ地:
スペイン:
ラウディオ/Laudio
https://maps.app.goo.gl/pWzqYk64fnuAMV1q8?g_st=ic
フランス:
アンダイエ/Hendaia
https://maps.app.goo.gl/Z5GVVUnMB1ktmkG8A?g_st=ic
■簡単なあらすじ
8歳の少年アルチールは、自分をそう呼ばれたくないと公言し、周囲は「ココ(坊主みたいな意味)」と言い換えて接していた
ココには活発な弟エネコと義理の妹ネレアがいて、母アネは父の影響で彫刻家として作品を作り続けてきた
ある夏の日、フランスからスペインの親戚の元にバカンスに訪れたココは、いとこのニコと仲良くなって、一緒に遊ぶようになっていた
だが、ニコの男性らしからぬ見た目と行動は親戚の間に動揺を走らせ、それがアネのストレスになっていた
アネは次第にココに強くあたるようになり、ココは養蜂家の叔母ルルデスと過ごす時間が増えてくる
そして、ココはルルデスに悩みを打ち明け、「自分自身がわからないこと」を素直に話し始めるのである
テーマ:性自認とアイデンティティ
裏テーマ:理解と対話
■ひとこと感想
予告編だけ見るとどっちにも見える感じで、主人公ココは生物学的男性だけど、演じたソフィア・オテラは女の子なのかなと感じました
母アネは自分の人生がうまくいかないのを周囲のせいにするタイプで、自身の作家人生に対しても真剣に向き合っているとは言えません
そんな彼女が現実を突きつけられてどうするかというのが命題になっています
アネとルルデスが言い合うシーンが象徴的で、「ココの話にどこまで耳を傾けているか」という直球が、アネをさらに追い詰めていくのは見ていて辛いものがあります
親が子どもの性の不一致を認める難しさというものがあって、認めたくても、彼女には味方がいないのですね
このあたりは、そのような概念が育つ前の純粋が周りにいる分、ココの方が楽に見えてくるのは不思議でした
とは言え、自分がわからないということで一番悩みが大きいのはココ自身で、それは同年代の純粋さによる攻撃というものは大人のようにオブラートに包まないからなのですね
言葉には発しないけど、態度で露骨に出る場合もあるし、エグるような言葉が出るのが幼少期の反応のように思えてきます
また、理解できない子は親などに聞いてしまうので、それによって宣言をしなくても、そのように扱われてしまうというストレスも生み出すのかなと思いました
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
本作では、性的自認に悩む8歳の子どもを描いていて、そのストレスとなっているのが、母アネとの精神的な距離だったように思います
父も「アネの躾がなっていないからだ」と糾弾するし、遠回しにおかしいといってしまいます
アネも理解したいけど、世間体を気にして、ココの好きなようにさせてあげられません
そもそもが、ココの性自認に対して、感情で接している部分が多くて、自分が理解できないものを突き放しているようにも思えます
後半になって、アネは教職の試験の為の作品を作りますが、結局は彼女の父の作品を出すという暴挙に出ていて、彼女の精神的な不安定さというものが如実に現れていました
そんな彼女は「辞退」という方向に向かいますが、彼女自身も何をしたいのか理解できていないのでしょう
彼女の心はそのまま作品として表現されているのですが、潜在的なものからも目を背けている状態になっていたのだと思います
映画のラストでは、誰もが「アイトール」と呼ぶ中で、弟が最初に「ルチア!」と呼んでいます
そして、それに重ねるようにアネも「ルチア」と呼ぶのですが、父は「名前は何だっていい」と言いながら「ルチア」とは一度も呼ばないのですね
そんな彼らの憔悴をよそに、ルチアはミツバチに挨拶をしているのですが、これは彼女がルチアとして生きていくことを宣言しているようにも思えました
■精神的性別と身体的性別
本作の主人公アイトールは、身体的な性別は「男性」で、精神的な性別は「クイア」ということになっていました
もっとも、定まっていないものの、ほぼ女性寄りにはなっていたと思います
ジェンダー問題が紛糾するスポーツの世界では、フィジカルを競うのに精神的性別を主張して無双する問題が勃発していますが、それがジェンダーを否定するものではないのにおかしな方向に行っているように思います
身体的なものを競い合う世界では、その基礎体力的なものを指針にしないと「スタートの時点で平等ではない」ということになってしまいます
人は生まれた瞬間に身体的性別というのは決まっていて、その後、精神的な性別との不一致が生まれることになります
要は、性別という概念を理解した段階にようやく分岐点があるので、それは言葉を発する前から始まっている場合もあります
例えば、女の子の好むものに愛着をもつ男の子とか、その逆も然りではありますが、この愛着の影響が「精神的性別」によるものか、それ以外の要因、例えば異性の兄弟姉妹がいるなど、ではないかと見極める必要があるのですね
個人的には、ジェンダーが平等に扱われるべきとは思いますが、それは一般的な生活や法律に関してというものに限ると思っています
身体的能力を有する競技に対する参加は、それに付随するルールを設けるべきで、そう言った割合の低いものに関してはフリーで良いでしょう
生活習慣などでのジェンダーに波及する問題もありますが、偽証というものの罪を重くするなどの対応策が必要になると考えます
今では、自己申告でOKという国もありますが、それを利用した性犯罪も起こっていたりします
人権意識を高める必要はありますが、それと同時に自分の行動が他人の人権を侵害していないかどうかを考える必要もあるのではないでしょうか
■ミツバチが教えてくれること
ミツバチの養蜂については、旧石器時代に遡り、多くの遺跡の壁画などに記されてきました
スペインのビコープ市にあるアラニャ洞窟は1998年にユネスコの世界遺産に登録されましたが、この壁画が作られたのは紀元前7000年〜8000年の間と推測されています
その後、巣箱を作り、ハチミツを集め始めるようになり、新石器時代には「ミツバチの群れを制御する方法」を学んでいくことになりました
映画の中で、養蜂家の家族が亡くなると、蜂の巣箱を叩いて、その死を知らせていた、という逸話が登場していましたね
ラストにおける、ルシアの巣箱叩きは「アイトールの死」を意味していて、それと同時に「ルシアの誕生」というものを伝えているように思えました
この際には「敬称を使用して話しかける」とされていて、字幕では「ミツバチさん」みたいな感じに翻訳されていたと思います
巣箱叩きには「死者の魂を蜂に扇動してもらう」という意味もあれば、「たくさんの蜜を集めてね」という意味がある地域もあると言われています
ちなみに、映画で登場する巣箱を叩くという伝統は、イギリス女王エリザベス2世の死後に行われた様々な催しの中で異彩を放つ出来事として紹介されていました
バッキンガム宮殿にて、王立養蜂家のジョン・チャップルは各王宮の敷地内に生息する巣箱にいる100万匹のミツバチに女王の死を伝えたという逸話があります
そして、彼は巣箱の全てに黒いリボンを巻いていました
この伝統はエウスカル・ヘリアの田園環境に根付いていた風習として知られていて、彼らは巣箱に「Erliak, erliak, gaur hil da etxeko nagusia(ミツバチさん、ミツバチさん、今日この家の主人が亡くなりました)」と唱えていたされています
これらの風習はスペインのバスク地方にも残っていて、家族の誰かが亡くなった場合、巣箱に行くのは「未亡人か相続人のどちらか」だったと言われています
バスク地方では、ミツバチは家族の一員として考えられていたのですね
これらの風習に関する興味深い記事を見つけたのでURLを貼っておきます
ページ翻訳などで読んでみてくださいまし
↓About Basque Countoy 「COMUNICAR LA MUERTE DE UN FAMILIAR A LAS ABEJAS DEL CASERÍO ES UNA TRADICIÓN VASCA MILENARIA(家族の死をミツバチに伝えることは、バスク地方の古くからの伝統です)」URL
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
本作は、ジェンダー問題を描いていますが、根底にあるのは「親は子どもを理解するか」というところに重きを置いていたように思います
両親はルシアのジェンダー問題に不寛容で、それを異質なものと感じていて、彼女が話そうとすると話を遮ったり、聞く耳を持たなかったりと散々な対応をしていました
ルシアの叔母ルルデスはこのような問題に寛容的で、彼女は意見を持たず、ただルチアの言葉に耳を傾けているだけでした
本作の原題は「2万種のミツバチ」という意味で、世界中には20万種以上の蜂(膜翅目)がいるとされています
ミツバチ属に限定すると、現在は9種と24の亜種がいます
2万種というのは「数多くある」という意味で用いられていて、これはそのまま多様性ということになると思います
巣箱に挨拶をする様子は、ミツバチとの対話のようにも思え、他者との交流のためには対話は欠かせないもの、という意味になるのでしょう
劇中で登場する「シラクサのルチア」は、盲目の人として有名な聖人で、彼女が「ルチア」に憧れを抱くというのは、外見ではなく内面を見てほしいという趣旨なのかなと思いました
また、心の目で物事を見るという意味合いもあり、それは先入観を捨てる行為に似ていると言えます
ルチアの名前を自分の名前として、そしてミツバチに挨拶をするという行動は、彼女の宣言のようなもので、それを家族が探している間にしていた、というのは感慨深いものがありました
この時の家族は「ルチアをどう呼ぶか」ということで悩んでいて、最初にルチアと呼んだのは弟でしたね
そして、母も呼ぶようになり、その後「ミツバチに挨拶をするルチア」が描かれていました
父は「名前なんかどうだっていい」と言いますが、ルチアにとってのアイデンティティの確立が「自分の名前をどうするか」になっていたので、父のマインドはルチアと正反対にあると言えます
彼は最後まで「ルチア」とは呼ばなかったのですが、ルチアにとっての家庭内の最後の障壁は父親であると考えられます
それは、父が身体的同性であることが要因で、それゆえに理解できない部分が多いという側面があります
一方で、身体的同性の弟は最初にルチアと呼ぶことができる
この違いがジェンダー問題の根幹にあるもののように思えます
映画では、その解決策を提示していませんが、「対話」というキーワードを考えると、最もルチアと話をしていた家族は、弟だった、ということになるのだと思います