■変わってないねと言われるよりも、別人かと思ったと言われる方が嬉しいものかも知れません


■オススメ度

 

芸術に悩む青春映画が好きな人(★★★)

 


■公式予告編

鑑賞日:2024.10.29(アップリンク京都)


■映画情報

 

情報:2024年、日本、99分、G

ジャンル:写真学科の仲良し4人の進路を描いた青春映画

 

監督:道本咲希

脚本:郷田流生&道本咲希

 

キャスト:

田中真琴(草馬ナオ:写真家を目指す芸大生)

 

山田崚汰(山田勝:写真学科の同級生)

重松りさ(松雪小夜:写真学科の同級生)

秋田卓郎(多田慎太郎:写真学科の同級生、実家は写真館)

 

大古知遣(北野航平:写真学科の講師)

 

ついひじ杏奈(野口みのり:ナオたちの後輩)

西野凪沙(青野春:勝のスタジオの後輩)

 

越山深喜(川越由美:たこ焼き屋のおばちゃん)

 

ゆかわたかし(山田照:勝の父)

加茂井彩音(山田夏海:勝の姉)

 

福地千香子(草馬紀子:ナオの母)

 

佐藤幾優(アイスクリームおじさん)

有田あん(たこ焼き親子の母)

 

安宅陽子(?)

松下太亮(?)

麻絵(?)

瑚海みどり(?)

 


■映画の舞台

 

東京の下町

 

大阪府:大阪市

心斎橋付近

 

ロケ地:

東京都:中野区

東京工芸大学

https://maps.app.goo.gl/h4XzmMfKXPDtocf27?g_st=ic

 

埼玉県:川口市

天王寺あべのたこやきやまちゃん 川口店

https://maps.app.goo.gl/4sXJxDWRYnPgpc4j7?g_st=ic

 

Cafeきくち

https://maps.app.goo.gl/c881ufQT8z3phqmG7?g_st=ic

 


■簡単なあらすじ

 

写真家を目指しているナオは、ドイツのベルリンへの留学を考えていて、同じ写真学科の勝、多田、小夜たちと最後の学生生活を満喫していた

ナオは母親との折り合いが悪く、一人で帰っても家にすらあげてくれないほどに険悪だった

 

ある日、ナオは勝に「付き合ってみようか」と言い、彼は言葉に詰まってしまう

勝は「俺のことが好きなんか?」と訊くものの、「わからない」と言われ、さらに「なんか、愛おしい」と言われてしまった

 

その後、勝の部屋に転がり込んだナオだったが、ベルリン行きが現実的になってきてしまい、勝は別れを確信し始める

彼はナオの写真を見て、写真家になることを諦めた人間で、東京に出てアシスタントをして生計を立てようと考えていた

多田は実家の写真館を継ぐことを反対されて、アシスタントへの道を歩む

小夜もまた、自分の写真に足りないものを突きつけられていて、ナオの動向を気にするようになっていた

 

テーマ:写真に映る真実

裏テーマ:愛おしさの解釈

 


■ひとこと感想

 

写真学科の仲良し4回生の青春群像劇を描いた作品で、ナオの突出した才能によって、自らの進路を決めていく3人が描かれていました

何かが足りないと思っていても、その何かがわからない状態で、その本音は写真の中にだけ残っていると言う状態になっていました

 

ナオはアシスタント向きの性格をしておらず、プロになるしかないと考えていて、ベルリンへの留学を希望しています

家にはほとんど帰らずに勝の部屋に同居しているのですが、その関係性は純粋なものではないように思えます

おそらく小夜は勝のことが好きで、彼が傷つくことに心を痛めていて、そんな彼がナオと付き合っていると聞かされて動揺していました

 

さらに、ナオは勝を置いたままベルリンに行くことがわかっていて、ナオと勝の関係とは何だったのかと言う感じになっていましたね

ナオは「愛おしい」と言いますが、勝には「かわいそう」と言うふうに聞こえているのですね

でも、ナオの言う「愛おしい」と言うのはファインダーの中に収まるものと言う意味になっていて、それはある種の傲慢な考えなのかな、と感じました

 


↓ここからネタバレ↓

ネタバレしたくない人は読むのをやめてね


ネタバレ感想

 

いわゆる大学生の恋愛感情がベースにあって、ナオと言う天才を通じて、自分たちの才能を見ていると言う感じになっていました

先生は小夜の写真を見て「少ない」と言い、ナオの写真の時は「もっと歩け」とアドバイスをしていましたね

この二つのアドバイスは「同じように足りない」という意味に聞こえますが、小夜の写真は浅く、ナオの写真は深すぎると言う意味に近いのかなと感じました

 

また、勝が小夜を撮るシーンでは、ナオと付き合っていることを告白し、その動揺と言うものが写真に収まってしまいます

そのうちの一つを小夜に渡すのですが、その後、小夜はナオの元に行って、何かを言いかけて帰ると言うシーンがありました

勝が別れを覚悟していることを小夜が知ったシーンになりますが、勝を傷つけても平気なナオに怒っていると言うよりは、勝のそばに自分がいない理由探しをしているようにも見えてきます

 

ラストでは、個展を開くナオがいて、勝はそこに姿を現せません

それは自分の情けない写真が使われているとわかったからではありますが、それ以上にナオとの最後をそのままにしておきたかったのかな、と感じました

 


写真に残るもの

 

本作は、写真家を目指している学生たちが描かれていて、ナオの才能がそれぞれの未来に波及する様子が描かれていました

写真を目指している人と、写真を見る側では感じるものが違うのですが、映画内で描かれる絶望というのは、写真家セミプロ目線ということになっています

そのセミプロ目線による絶望をどう描くかは難しく、鑑賞側が素朴に感じるものを融合した「作品」を見せなければなりません

この作品の選定は非常に難しいのですが、それは「映画内で描く絶望を素人目線で共感させるだけの説得力」というものが必要になるからだと言えます

 

映画に登場する作品はどれも素晴らしいものですが、それが説得力を有するかは鑑賞した個人の感性に委ねられます

それは、写真を通じて鑑賞者が感じる感情はそれぞれ違うからなのですね

写真と相対した時に溢れる自分の感情は、これまでの自分の体験とその解釈、咀嚼、理解によって変わっていきます

そして、それは撮影者を知らない人と知っている人、撮影者に個人的な感情がある人とでも反応は変わってきます

 

映画内の人間関係は、いわゆる三角関係になっていて、ナオと勝の歪な関係に小夜が絡んでいました

ナオが見る勝の写真は自分に向けられた感情と、勝にむけている感情が同居しています

また、小夜が見る勝の写真は、届かない自分が投影され、ナオに対する嫉妬が混在しています

それぞれにはそれぞれの事情と感情が乗り移るのですが、それでも明確に伝わる共通項目というものがあります

 

優れた写真というのは、そう言った個人の感情を差し置いて、普遍的に誰もが有する感情を引き出すものだと思います

猫の写真を見て可愛いかどうかは個人差があっても、ある境遇の写真だと共通の悲しさを感じることがあります

また、悲しさの中に力強さを感じるものもあって、それは被写体の感情を写真家が引き出せているからとも言えます

写真に残るのは写真家の感情もありますが、それだけでは弱い部分があって、被写体の感情がダイレクトに残っているものの中に心に留まるものがあるのではないでしょうか

そして、それを自然写真で行う人もいて、そう言った写真というのはさらに普遍的な何かを抉り出していると感じています

 


愛おしさの正体

 

ナオは勝のことを「愛おしい」と言いますが、その言葉には多くの意味が込められていました

それでも、勝自身が感じる「かわいそう」というものは、ナオと勝の微妙な関係性の上に生まれた勝の絶望のように思えます

かわいそうには保護してあげたいという観点と、傍観的な通過点である場合があります

かわいそうという感情を有した人が全て助けを差し伸べるわけではなく、事象をかわいそうと定義して、自分との距離感を規定する人もいます

映画におけるナオはここまで絶望的なものではなく、勝が勝手に思い込んでいるというふうに描かれていました

 

ナオにとっての勝は、写真に投影される一つの感情を理解するための通過儀礼のひとつのように思います

自分のことを慕ってくれる人のことを愛おしく思うのは、その感情をダイレクトに受け止めていると言えるし、迷っていて差し伸べたくなる愛おしさは、自分が関わることで何かを変えられるかもという希望を手繰っているように見えるし、自分自身の中にある希望とか可能性というものの正体を探っているようにも思えます

そう言ったものがナオが撮った勝の写真に現れていて、それを勝は直視することはできません

それは客観的に自分を見てしまう怖さもあれば、それは自分ではないと否定するための発憤材料にもなりえます

でも、見てしまうとゴールが見えますが、見なければ自分の中に設定されるゴールは想像以上の高みを生み出すことができるのですね

なので、勝はそう言ったものを超えることを望んでいて、それゆえに見ないという選択をしたのかな、と感じました

 

一般的な愛しさに高低差があるのかはわかりませんが、感覚的には悪く言えば上から目線の感情になってしまう印象があります

それは、私の庇護のもとにいる者に対するものとして、ある種の檻の中に存在するからとも言えます

実際にはそのような檻を想定しているわけではないのですが、私がいなければという責任感とか義務感が同時に存在することも事実であると思います

これが相手が子どもとかならばそこまで違和感がないのですが、相手が立派な大人だと馬鹿にされていると感じているかも知れません

特に勝は現時点でナオに勝てるものが全くなくて、それゆえに逃げ場のない感情を有しても仕方のないことのように思えます

 

とは言え、同じような愛おしさを向けられても、その後の行動は人それぞれなのですね

それを奮起の材料にする人もいれば、自分を傷める鞭に使う人もいる

また、それがスケールとなっていて、相手のその感情を消えた地点が自分の成長点であると規定することもできる

自分に降りかかる様々なものは見方や考え方次第でいろんなものに変わるので、今自分がどっち方向に向いているのかな、を確認する指針ぐらいに捉えておいた方が良いのかも知れません

そしてまた、同じ時点でも「愛おしい」と「そうではない」という反応が生まれます

人は「自分が否定したいものの同調を拾いたがる」のですが、それこそが本当の罠であることは言うまでもないと思います

 


120分で人生を少しだけ良くするヒント

 

本作は、自分の可能性を規定する大学生が描かれていて、その理由の一つとしてナオとの才能の差であると考えている人がいました

ナオ自身に才能があることと、その他の人の才能がないことには関連がなく、才能に関しても個人が規定するようなものではありません

それでも、自分が進まない理由づけをする人がいて、それはそれでもったいないなあと思ってしまいます

 

芸術の道に行くにはある程度の経済的な豊かさが必要で、カメラを買えなければそもそも活動自体を始められません

スマホの画質が良くなったと言っても、それだけで全てを完結させることは難しく、絵作りにも限界があると思います

それでも、高いカメラだから良い写真が撮れるわけではなく、要は道具の性能を熟知して完全に手の内に入れているかどうかが重要なのですね

撮りたいものが前にあって、脳内にイメージができたとして、それをどこまで再現できるのかと言う問題があります

多機能かつ道具を熟知していることで脳内イメージに近づくことができるので、この能力の方が重要であるように思います

 

どんな創作物も「脳内イメージ」があって、それはほとんどの場合「映像」であると思います

小説を書くときにも「表現したい映像を文章化する」のですが、それを絵画で表現するのか、写真なのか、動画なのかによって、出力先が変わって来ます

脳内でどんなに素晴らしいものを生み出しても、それを外部に出力することができなければダメで、その誤差が少ない人が才能があると言えるのかも知れません

 

ナオ以外の学生たちがその道を諦めるのは、ナオの脳内イメージの豊かさとその出力精度にひれ伏していると言え、この構図は思いつかないとか、この被写体でこの表現はできないとかになるのだと思います

また、相手が人物だと、その人のどんな内面を引き出せるかと言うポイントがあり、その瞬間をきちんと切り取って最良の1枚を選び出す能力も必要になってきます

同じものを撮っても同じ写真にならないのは、そう言った被写体から掴み取る感度の鋭さの違いがそのまま写真に現れるからのように思います

同じ道を目指そうとして、同じ教材や指導にふれた結果、数年後に如実な違いが現れている

これを繊細に感じ取れると言うことは、それ自体が才能ではありますが、その道では活かせないものなのでしょう

そう言った意味において、自分の判断が他人の才能と照らし合わせた上で生まれるのは仕方のないことなのかも知れません

 


■関連リンク

映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)

鋭意、執筆中にて、今しばらくお待ちくださいませ

 

公式HP:

http://honamata-ashita.com/

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投稿者 Hiroshi_Takata

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