鑑賞日:2022.12.28(イオンシネマ京都桂川)


■映画情報

 

情報:2022年、日本、116分、G

ジャンル:訳ありの中学生7人が異世界にある孤城に招かれるファンタジー・ジュブナイル映画

 

監督:原恵一

脚本:丸尾みほ

原作:辻村深月(『かがみの孤城』)

 

キャスト:(声の出演)

當真あみ(安西こころ:引きこもりがちな南東京市に住む中学一年生)

 

北村匠海(リオン/水守理音:ハワイの寄宿舎にサッカー留学している中学一年生)

 (幼少期:矢島晶子

吉柳咲良(アキ/井上晶子:物怖じしない中学三年生)

板垣李光人(スバル/永久昴:長身で大人びた中学三年生)

横溝菜帆(フウカ/長谷川風歌:ピアノが得意な物静かな中学二年生)

高山みなみ(マサムネ/政宗青澄:携帯ゲーム好きな中学二年生)

梶裕貴(ウレシノ/嬉野遥:食べることが好きな中学二年生)

 

 

美山加恋(ミオ/水守実生:リオンの姉)

池端杏慈(東条萌:父の仕事の影響で転校を繰り返す少女、こころの近所に住んでいる)

吉村文香(真田美織:こころのクラスメイト)

佐竹祐哉(池田信太:こころのクラスメイト)

 

藤森慎吾(伊田先生:こころのクラス担任)

滝沢カレン(擁護の先生:こころを介抱する養護教諭)

 

麻生久美子(こころの母:不登校のこころを心配する母)

比嘉良介(こころの父)

 

宮崎あおい(喜多嶋先生:フリースクール「心の教室」の講師)

岩田絵里奈(喜多嶋の同僚)

 

芦田愛菜(オオカミさま:中学生7人を城に招いた狼の仮面を被った少女)

 

有賀由樹子(スバルの祖母)

野川雅史(スバルの祖父)

 

団長安田(アイの養父)

 

水神のりこ(リオンとミオの母)

 

門馬勝貴(マサムネの父)

キンタロー(マサムネの母)

 

酒井玲(フウカの母)

河邑ミク(フウカのピアノの先生)

 


■映画の舞台

 

東京都:南東京市(架空)

雪科第五中学校

 

鏡の向こうにある孤城

 


■簡単なあらすじ

 

南東京市にある雪科中学校に通うこころは、引きこもりがちで体調不良を理由に学校を休んでいた

母も呆れて、投げやりに「行くの? 行かないの?」と聞き、こころは「行けないの」と心の中で呟いていた

 

ある日のこと、部屋の姿見を覗いていたところ、いつもと違うように輝いて見えた

次の瞬間、こころは何かに掴まれるように鏡の中に引き摺り込まれてしまう

 

そこは古風なお城で、オオカミの面を被った少女は「お待ちしていました」と言う

何のことかわからないままだったが、どうやら自分が最後のようで、先客には6人の少年少女が訪れていた

 

オオカミの面を被った少女は「オオカミさま」と名乗り、「この城のどこかに鍵があり、それを見つければ願いは叶う」と言う

そして、「この城にいられるのは9時から17時まで」で、「その時間を越えて城にいると、連帯責任でオオカミに食べられてしまう」と言うのである

 

意味がわからないまま戸惑うこころだったが、先客たちはすでに環境に慣れていて、誰も鍵を探そうとはしないのである

 

テーマ:孤独の正体

裏テーマ:孤独の連鎖

 


■ひとこと感想

 

異世界ファンタジー系と言うことは知っていましたが、予告編以外の情報は皆無で参戦

予告編のアニメーションの完成度に少し心配していましたが、作画で魅せる映画ではなかったようですね

 

物語は引きこもりがちな理解されない中学生が主人公で、異世界において「同じような境遇の同世代」と出会うと言うもの

後半に集められた子どもたちの関連性がはっきりすると言う物語でした

 

悪くはないのですが、欲を言えば「エンドロール」で「全員のその後」を観たかったかなと言ったところ

鑑賞特典ではある人物がある人物を見つけているカットなどがあったので、それは映画で観たかったなあと思いました

 

テーマとしては深めですが、対象年齢が低めの設定で、中学生時代をどう過ごしてきたかと言う体験によって評価が分かれる内容になっています

 


↓ここからネタバレ↓

ネタバレしたくない人は読むのをやめてね


ネタバレ感想

 

かがみの中の世界には「自分と同じ悩みを持っている人たちが集まっていた」と言うもので、その世界から抜け出すために必要なのが「誰かのために自分を犠牲にすること」と言う利他精神と言う感じに結ばれていました

 

人に助けられた経験がのちの人生で人を救うと言うもので、時間軸の違う人々がそれぞれの悩みによって孤城に取り残されていました

孤城は出入り自由になっていて、そこに依存すればするほど、現実世界には帰りづらい状況を生みます

ある意味、精神のセーフティネットなのですが、彼らが問題解決に至らなければならない理由がありません

 

結局のところ、学校に行かなくても「孤城で傷の舐め合い」はできるわけで、現実世界で彼らに友達がいないのは、ひとえに「悩みを打ち明けられる環境にはない」と言うことと、「それを打ち明ける価値のある人がいない」と言う感じに見えてきます

 

大人はテンプレートで「手を焼かせる子どもを無碍に扱う」のですが、それによって子どもの中で親との精神的な断絶が起こっているように思えました

その解決には至らずに、自己完結的な結びになっているので、これで良いのかなと思ってしまいましたね

 


孤城への入り口は親と言う現実

 

こころはクラスメイトの真田を中心としたグループに因縁をつけられていて、それによって「学校に行けない」という状態が続きます

これに対して、こころの母は「なぜ、行かないのか?」という問い詰めをして、こころは心の中で反抗するという流れを汲みます

この流れが断ち切られたのが喜多嶋先生の介入で、彼女は「かつての自分の経験」から、「こころがひとりで戦っている状況」であることを母に伝えることになりました

そして、母が「こころが学校に行けない理由」を知ることによって、理解ある守護者へと変わり、担任と対峙し、娘を守るという行動に能動的になっていきます

 

子どもの不登校には様々な理由があって、その中で映画で多く描かれるのが「特定のグループからの敵視」というものでした

原作ではもっと細かな不登校の理由が描かれていますが、映画でピックアップされているのが「こころとマサムネ、ウレシノに見られる学校コミュニティからの避難」ということになります

これらの「避難」は意図したものではなく、不条理に降りかかっているものなので、安全圏に逃げる必要があります

その第一候補として挙げられるのが「家」であることは言うまでもありません

 

こころの場合は、喜多嶋先生の介入によってこころの避難場所を家庭に作ることができましたが、家庭ですら安全圏にならない場合も多いと思います

その際は、本人の悩みの共有がなされていないことがほとんどで、家庭に居場所がなくなると「学校に行くふりをして別の場所で時間を過ごす」ことになります

映画では、その家庭以外の安全圏が「かがみの孤城」になっていて、彼らは頻繁にそこに出入りしますが、「家族が揃う時間帯」もしくは「学校活動以外の時間帯」は平常の生活を営むことを強いられることになっていました

 

こころが学校ではなく、家にもいない状況であること(孤城退避はバレていない)が母に知られ、その際にこころは強く反発をします

「監視されるのは嫌だ」という言葉で母の過干渉から逃れようとします

この反発が起こるのは、学校でもある特定のグループからの監視対象になっているからだと言えます

学校からこころが逃れようとする理由の一つに「干渉されたくない」と言うものがあり、その根元にあたるのが「男子生徒に色目を使ったと言う言いがかり」でした

なので、元々関わりを持つ必要のなかったクラスメイトの過剰な監視に晒されることで、それがストレスになっています

こころが家に引き篭もるのは、過干渉を恐れているからであり、その間は孤城にすら来ないと言う生活をしていました

 

孤城と母がストレスから離れたことで、こころの生活は変わっていくのですが、彼女を大きく変化させたのは「同じ境遇の人の認知」と「同じ境遇の人の不幸」でした

母がこころの理由を知ったのと同じように、バツ印から孤城の仲間たちの話せない理由を知ることになります

そうした先にあったこころの行動というものは、「自分の状況は自分自身だけのものではない」という「安心感」の芽生えであったと言えます

その思い込みを打破したのが、萌という友人の存在でした

 


孤城から出口は共感性と言う虚構

 

このように、孤城で分かり合えたこころたちはそこから出ることになりますが、そこで結ばれた共感性というものは「麻痺」のような状態になっています

それぞれの問題はまだ解決しておらず、苦しみを分かち合った分だけ、「自分の属するコミュニティができた」という段階にとどまっています

ルールでは、鍵を使うと記憶がなくなるので、孤城で生まれた連帯感は消えてしまいます

このルールは残酷なように見えますが、現実世界で生きていく時には彼らの隣には仲間がいないわけで、そこからは自分でパーティーを組んで戦う準備をしなければなりません

 

そのパーティの第一段階は家族になり、そこから「自分を見てくれる人」というふうに、少しずつ半径が広がっていきます

家族の中でも自分に無関心な人もいるし、距離を置きたがる人も多いでしょう

なので、家族の中でも「自分を見てくれる人」が最優先になります

でも、「見てくれる」だけではダメで、「話を聞いてくれる人」というのが必要になります

 

断片的に話す自分自身の言葉をどのように理解してくれるのか

これが本人が一番難しいと思っていることで、その表現の裏側にある心理というものを想像しなければなりません

映画の中で喜多嶋(アキ)がこころに寄り添えるのは、自分自身の過去を言語化してきた体験があるからです

それゆえに、こころが言語化できない部分というものが感覚的に掴めていると言えます

 

こころは孤城から脱出の前に理解しつつある母と体験を共有している喜多嶋と出会っている幸運というものがあります

現実世界にはそのような前提がなく、そのほとんどを自分自身で行わなければなりません

一見するとハードルが高そうに思えるのですが、これらの言語化というのは意外なほどに発信されている時代であると思います

 

その匿名性による暴論は人を傷つけますが、その言葉になる理由を探っていくことで、その人の孤独というものは見えてくる場合もあります

あくまでも、その発言の時系列を追えるという前提の話になりますが、「何を言語化できて、何を言語化できないのか」という分別を発信者は自然と行なっているので、「具体性と伴った瞬間」というのは、その出口と言えるのかもしれません

 


120分で人生を少しだけ良くするヒント

 

彼らは「ミオ」によって孤城に招かれ、それぞれは「学校に居場所のない中学生」となっていました

ミオ自身が行けなかった学校という「憧れの場所で絶望を感じている人々」を救済するという流れに見えます

彼らの7年差の意味は映画では言及されませんが、個人的な感覚だと「ミオの闘病期間」なのかなと思いました

オオカミさまがミオの6、7歳の頃の姿であると弟のリオンが感じていて、リオンとの年齢差が7歳差になっていました

リオンの現在軸がちょうど中学一年生(=こころと同じ年、13歳)で、ミオが生きていたら20歳ということになります

回想録ではミオが中学に上がる頃に病床に伏していて、その段階ではリオンは6、7歳でした

なので、闘病期間がリオンが生まれてから7歳になるまで、ミオが7歳から13歳の間の7年間というものだと推測されます

 

この年齢差によって、その前後7年ごとの雪科第五中学校から「不遇な中学生時代を過ごした人々」がピックアップされたのだでしょう

実年齢順(ミオが死亡したのが13歳だとすると)だと、

スバル(27歳、1985年生まれ)

アキ(20歳、1992年生まれ)

ミオ(13歳、1999年生まれ)

リオン&こころ(7歳、2006年生まれ)

マサムネ(0歳、2013年生まれ)

フウカ(生前7年前、2020年生まれ)

ウレシノ(生前14年前、2027年生まれ)

という順番になります

 

映画の舞台はこの7年後にあたる2013年になり、マサムネが7歳、フウカが誕生直後、ウレシノの生前7年前ということになります

また、マサムネが13歳の時にスバルが開発したゲームに夢中になっているという設定になっていました

ミオの想いは42年もの時空を超えて、13歳〜15歳の時点で雪科第五中学校に在籍して、そこで不遇を感じていた子どもたちを孤城に引き寄せました

映画の主人はこころなので、フウカとウレシノはこの世にはまだいないので、未来から引き寄せたということになります

 

これを俯瞰的に考えると、ミオの想いは死後15年の世界から同じ境遇の人々を招聘したということになります

そして、その世界でも「人間関係の悩みは変わらない」という現実を突きつけます

また、ミオの死の27年前のスバルの時代でも同じだったということになるので、これは根元的な人間関係の問題であると言えます

色んなものが進化しても、人が孤独と感じる要因は同じで、その解消方法も同じということです

これを言い換えれば、「時間が助けてくれる問題ではない」という意味になるので、「問題が発生したら、早急に対応すべき」というメッセージにつながります

 

映画では「馴れ合いで時間が解決するだろう」と考えていたのがこころの担任で、問題解決に早急さを感じて「アキを緊急避難させたのはオオカミさま」でした

リオンの両親が日本から離れることを選択し、マサムネも転校を迎えそうになっています

環境を変えるしか方法がないというのは「孤城へのエスケープ」が示すように、根本解決にならないけど緊急避難としては現在のところは最善策であると言えます

これらの問題は「閉鎖空間に同じ人々を長い時間閉じ込めるから起きる」と考えられるので、学校でのいじめ問題を解消するならば、大学のように「個々が多くのカリキュラムを選択して、固定された学級制度を廃止する」以外にないと思います

大学でいじめ問題が起きるのは、教室ではなく「サークル内、部活内」などの閉鎖空間になっているし、社会人でも「会社内」という閉鎖コミュニティになっています

なので、これらを考えると、「閉鎖空間を作り出すと、人の特性としてそこで細分化されたカーストが誕生し、その順列争いが起こる」ということは「人間の逃れられない本質」であると言えるではないでしょうか

 


■関連リンク

Yahoo!映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)

https://movies.yahoo.co.jp/movie/381626/review/235e4988-d473-4086-b5ff-58976128e442/

 

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投稿者 Hiroshi_Takata

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