■献身的という言葉の裏側にある、人生を諦めきれない二つの魂


■オススメ度

 

大人の情事に興味のある人(★★★)

 


■公式予告編

鑑賞日:2024.12.3(アップリンク京都)


■映画情報

 

原題:Laissez-moi(放っておいてください)、英題:Let Me Go(放っておいてください)

情報:2023年、スイス&フランス&ベルギー、92分、R15+

ジャンル:一度限りを楽しむ熟女に訪れた転機を描いたヒューマンドラマ

 

監督:マキシム・ラッパズ

脚本:マキシム・ラッパズ&マリオン・ベルノー

 

キャスト:

ジャンヌ・バリバール/Jeanne Balibar(クローディーヌ/Claudine:アバンチュールを楽しむ裁縫師)

トーマス・サーバッハー/Thomas Sarbacher(ミヒャエル/Michaël:ドイツ人のエンジニア、水力発電の専門家)

ピエール=アントワーヌ・デュべ/Pierre-Antoine Dubey(バティスト/Baptiste:障害を患うクローディーヌの息子)

 

ベロニク・メルムー/Véronique Mermoud(シャンタル/Chantal:クローディーヌの隣人、バティストの世話係)

アレクシア・エブラール/Alexia Hébrard(シルヴィ/Sylvie:ウェディングドレスを作る若い女性客)

マリエ・プロブスト/Marie Probst(アネット/Annette:母親の洋服を持ち込む常連客)

イベット・テロラズ/Yvette Théraulaz(マルティーヌ/Martine:口うるさい常連客)

 

アドリアン・サヴィニー/Adrien Savigny(ナタン/Nathan:ホテルの受付係)

ジャンフランコ・ポディケ/Gianfranco Poddighe(イタリア人/L’Italien:フィレンツェの男)

アレックス・フリーマン/Alex Freeman(イギリス人/L’Anglais:スミレ色のセーターの男)

フィリップ・シュラー/Philippe Schuler(スイス人/Le Suisse:ルソリュンの男)

 

マルタン・ライナルツ/Martin Reinartz(アルバン/Alban:介護士)

エティエンヌ・ファグ/Etienne Fague(施設長/Le directeur)

José Oliveira(エミール/Emile:施設の運転手)

Noëlle Panchaud(ルイーズ/Louise:施設の女性利用者)

 

マルコ・カラメンドレイ/Marco Calamandrei(ガストン/Gaston:レストランのウェイター)

 


■映画の舞台

 

1997年、夏

スイス:ヴァレー州

Barrage de la Grande-Dixence/グランディクサンス

https://maps.app.goo.gl/baKiNCNjTgbJceY27?g_st=ic

 

ロケ地:

上に同じ

 


■簡単なあらすじ

 

1997年の夏、裁縫師のクローディーヌは、毎週火曜日にはダムの麓にあるホテルに出向き、後腐れのないアバンチュールを楽しんでいた

顔馴染みのホテルマン・ナタンから来客の情報を聞き出し、その男に声を掛けては、その日だけの関係を続けていく

 

彼女には障害を持った息子バティストがいて、火曜日だけは隣人のシャンタルに世話を任せていた

それ以外の日は、馴染み客の服を繕い、時にはドレスを新調したりして生計を立てている

男とのアバンチュールには金銭の授受はなく、あくまでも一度きりというものだった

 

ある日、いつものようにダムの上を歩いていたクローディーヌは、そこで測量か何かをしている男とすれ違う

彼の名はミヒャエルと言い、水力発電のエンジニアで、クローディーヌが向かうホテルに宿を取っていた

ナタンからワインを受け取ったクローディーヌは、いつものように情事を済ます

だが、この関係は一度きりでは終わらなかったのである

 

テーマ:女としての生き方

裏テーマ:全ての解放の先にあるもの

 


■ひとこと感想

 

スイスの山奥で一夜限りの情事に耽るという内容で、ホテルの受付はそれすらも込みで情報を流していました

誘われる方も何となくわかっている感じで、彼女の噂というものは立っていたのかもしれません

でも、勘づいて近づいてくる男は排除していましたね

てっきり焦らしプレイでも始まっているのかと思ったのですが、S気質とか暴力的なセックスをしそうな人を排除していたように思えます

 

映画は、障害を持った息子を一人で育てている女性が、週に一度だけ自由になるというもので、その先で自分を求めている男性と出会うことになります

でも「自分だけ」ということになっていて、息子を施設に置いていくというのが暗黙の了解の部分がありました

クローディーヌが息子から手を離すことができるのかというのが命題で、その選択が彼女自身の人生を大きく変えることになります

 

山の中を列車を使って、ロープウェイで山頂を目指すのですが、そこは自分のいる場所とは違う異世界なのでしょう

そこでは母親という呪縛から解かれる場所でもありますが、それ以上ではないところが切なくもあります

彼女の選択が正しいかどうかは何とも言えませんが、いずれは同じような日が来たのかな、と感じました

 


↓ここからネタバレ↓

ネタバレしたくない人は読むのをやめてね


ネタバレ感想

 

原題を直訳すると「放っておいてください」という意味になり、言い換えると「自由になりたい」という叫びのようにも聞こえます

でも、その言葉を体現するかのように「自由になる」のですが、それは空虚の始まりだった、という内容になっていました

 

クローディーヌの選択によって、息子は施設に、家は売却、ミヒャエルはアルゼンチンという感じになって、全てを失うという構図になっていました

でも、いずれは息子は誰かの世話にならざるを得ないし、裁縫の仕事も先細りしていたでしょう

なので、ミヒャエルと一緒に行くしか道はなかったのですが、彼女は中途半端なところで中途半端な決断をしてしまったという感じになっています

 

真の解放がもたらされたことになりますが、解放=自由ではないのですね

制約があるからこそ楽しめるというものがあって、背徳というものも彼女の欲望を駆り立てたのでしょう

そう言った自身の資質に気づいていなかったのだと思いますが、それ以上に息子から突き放されたショックの方が大きいように思えました

 


制約と自由

 

クロディーヌには障害持ちの息子バティストがいて、生活は彼を中心に回らざるを得ませんでした

そんな中で曜日を決めてアバンチュールを楽しんでいるのですが、ミヒャエルとの出会いによって、一夜限りという限定的なものが消え去ろうとしていました

彼女の人生には制約が多いのですが、その中でも自由でいたいという願望を持っています

同時に、制約のない人生になると彼女は生きていけず、ある程度のしがらみがある方がうまく行くタイプのように思えます

 

マーケティングで有名な話だと、選択肢が多ければ多いほど「決定疲れの回避」が起こるとされていて、自由すぎると却って不自由に感じるというものがあります

飲食店などでは多くの選択肢があり、そこにトッピングなどの付加要素があると、限りある時間で考えるのが億劫になってしまいます

これらは「わざと決定疲れを起こす」という方策になっていて、売りたいセットなどを選ばせる仕掛けになっています

でも、一定数メニューが複雑すぎて、おすすめが感覚に合わないということで、機会損失を生んでいることも事実だと思います

 

この他にも、全ての選択決定の責任が自分にあるということが心理的負担になるというもので、全てを自分で選ぶことが続きすぎると、ある程度誰かが決めたもので心を休めたくもなってきます

また、クロディーヌにとっては息子は「決定回避の言い訳にできる」という側面があります

制限があることで工夫が生まれることもあるし、制限によってその時間が濃密になるということもあります

ある意味、人間は怠惰な生き物なので、他人もしくは自分がルールを決めないといつまでもダラダラとしてしまうようにも思います

 

クロディーヌは自分に課せられた制限の中で、自分の欲望を最大限に満たすものというものを探していました

それが家庭から切り離された瞬間であり、ミヒャエルとの連続する人生というのは、最終的には家庭へと戻ってしまいます

それ自体を目的としていればストレスはありませんが、彼との時間が濃密になればなるほどに、女性というものから遠ざかってしまう畏れも感じていたでしょう

限界が来るまで求められたいという欲求は、この制約の中でしか生まれない快楽だったのかもしれません

 


いずれ離れていくものたちへ

 

本作は、スイスの避暑地にてアバンチュールを行うクロディーヌを描いていて、彼女には障害持ちの息子がいました

彼のために人生のほとんどを使い、週に一度だけは自分のために使っていました

行きつけのホテルの従業員ナタンから客の素性を聞きますが、客側もクロディーヌの噂を知っている人もいたりしました

クロディーヌは自分の噂を聞きつける男は無視し、あくまでもその場限りという偶然性を重視していました

 

そんな彼女の元にミヒャエルというドイツ人が現れ、一度きりではない関係へと発展していきます

彼はクロディーヌを連れ出そうと考えていましたが、息子ファーストのクロディーヌはその選択をしません

一度は施設に預けて一緒に行こうとするのですが、行くのをやめて施設に戻ってしまいます

そこで、一人で頑張っている姿を見て、クロディーヌは泣き崩れてしまいます

 

クロディーヌの年齢を考えると、いずれは息子は施設のお世話になるか、彼を支えてくれる人との出会いによって、母親の元を去っていくと思います

クロディーヌの置かれている状況を「自分がいないとダメだ」と思い込んでいるように見えますが、実際にはその縛りを作ることで解放された時の爽快感を得ているようにも思えます

なので、彼女の場合は、安心と安定が最大の敵になっていたのでしょう

 

保護者である親というのは、基本的には被保護者よりも先に亡くなるので、いずれは自分自身でなんとかするか、そのような道筋を歩ませる必要があります

相互依存の状況では何も生まれず、ただ年齢とともに疲弊して動きを狭めていくだけになります

そのことに対して最重要課題だと感じて早めに動くことが大事で、クロディーヌにとってミヒャエルの登場は最後のチャンスだったと言えます

この出会いによって、息子は自立へ一歩進みますが、逆にクロディーヌは不安定な状況になります

それは、これまでは保護者的な立場として、人生の選択をおこなってきたからなのですね

なので、誰かの決定によって人生を動かしてきた経験の少ないクロディーヌが、そのような人生にうまく対応できるのかは分かりません

 

映画のラストシーンでは、クロディーヌが息子の姿を遠くから見つめて泣くという場面になりますが、彼女を慰める人がそこにいないのは残酷なように思います

おそらくはこの地に残ったまま、息子が成長し、自分の人生を歩んでいく様子を陰ながら見つめ続けていくのでしょう

その人生が良いかどうかは別にして、彼女は息子と完全に離れることに違和感もしくは恐怖を覚えていたのかもしれません

息子は母親がミヒャエルと一緒に幸せに過ごしていると思っているので、息子の前に姿を現すことも難しくなります

そう言った意味も含めて、彼女の下した決断は「母親として生きること」の方に重きが置かれていたのかな、と感じました

 


120分で人生を少しだけ良くするヒント

 

映画のタイトルは「放っておいてください」というものなのですが、なぜか邦題は状況を説明する言葉に置き換わっています

主観的な感情が表されているものを客観視に変える意味は分かりませんが、映画で描かれていることを表現できていればOKだと思います

原題に関して、誰の主観になるかと言えば、これはダブルミーニングになっていますね

1つはクロディーヌの視点で「他人にどう思われようとかまわない」というもので、もう一つは息子の視点で「母親に言いたくて言えない言葉」ということになります

 

クロディーヌは自分自身が間違っているとかはどうでも良くて、これが自分の生き方だと自負してきたと思います

火曜日だけのアバンチュールを決めることも、自分の決めたルールに従って生きていて、それを誰かにとやかく言われたくないのでしょう

そんな生き方をしてきた彼女は、いわば短絡的かつ破滅的のようにも思えます

 

これに対する息子視点は、長期的な視点のように思えます

母親にそんな生活をさせたくないと思っているし、いつまでも続くと思っていない

でも、母親には逆らえないと思っていて、心の中では自分を切り離して欲しいと考えているように見えます

息子は母親が自分の可能性を奪っているとまでは思いませんが、自分自身が枷になることを良くは思っていません

 

このようなキャラクターの心情を表現しているタイトルを改変するというのは悪手だと思っていて、客観視するとしても「キャラクター自体を客観視する」方が良いと思います

「山逢いのホテルで」という言葉は、単にクロディーヌの日常を表しているだけで、息子の存在すら掻き消されてしまっています

ダブルミーニングを踏まえたまま邦題をつけるとすれば、「すれ違うふたり」とか「避暑地に消えた自由」とかでしょうか

こういうセンスは皆無なのに文句ばかり言ってしまいますが、趣旨がわかってもらえたら良いかなと思い、無理やりながら考えてみました

 


■関連リンク

映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)

https://eiga.com/movie/102449/review/04529303/

 

公式HP:

https://mimosafilms.com/letmego/

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投稿者 Hiroshi_Takata

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