■「自由に生きること」の根幹には、自然による自由意志が存在しているのかもしれません


■オススメ度

 

性的マイノリティで悩んでいる人(★★★)

 


■公式予告編

鑑賞日:2022.12.28(アップリンク京都)


■映画情報

 

情報:2022年、日本、104分、G

ジャンル:恋愛に興味のない女性がマジョリティの圧力に悩む様子を描いたヒューマンドラマ

 

監督:玉田真也

脚本:アサダアツシ

原作:アサダアツシ

 

キャスト:

三浦透子(蘇畑佳純:恋愛感情を持てないアラサー、コールセンター勤務)

前田敦子(世永真帆:中学の同級生)

 

伊藤万理華(篠原睦美:佳純の妹、妊婦)

前原瑞樹(篠原健人:睦美の夫)

 

伊島空(小暮翔:佳純の行きつけのラーメン屋の店長)

 

前原滉(八代剛志:佳純の大学時代の知り合い、幼稚園勤務)

浅野千鶴(春日寛子:八代が働く幼稚園の先生)

北村匠海(天藤光:佳純が指導する新人保育士)

 

田島玲子(蘇畑宮子:佳純の祖母)

坂井真紀(蘇畑菜摘:佳純の母)

三宅弘城(蘇畑純一:佳純の父)

 

佐藤玲(キヌコ:佳純のコールセンター時代の同僚)

山科圭太(カシムラ:合コンの相手)

田村健太郎(スドウ:合コンの相手)

 

中村まこと(世永真一郎:真帆の父、政治家)

 

石川誉(晴翔:サクラちゃんにフラれる幼稚園児)

田中優貴(ソウタ:サクラちゃんが好きな幼稚園児)

伊藤音(幼稚園児)

菖蒲千明(幼稚園児)

 


■映画の舞台

 

日本のどこかの地方都市

 

ロケ地:

東京都:あきる野市

https://maps.app.goo.gl/XM2U583QJwa5DqW4A?g_st=ic

 

千葉県:千葉市

JFA夢フィールド 幕張温泉 湯楽の里

https://maps.app.goo.gl/nAgcRijxcDiWQ5yW6?g_st=ic

 

埼玉県:さいたま市

料亭 玉家

https://maps.app.goo.gl/LoUhsnBc54agaNoJ8?g_st=ic

 

東京都:板橋区

仏蘭西舎すいぎょく

https://maps.app.goo.gl/XVGMHpmqtw5wKb1W8?g_st=ic

 


■簡単なあらすじ

 

コールセンターで働く佳純は、母・菜摘から小うるさく「結婚しろ」と言われることに辟易していた

妹・睦美は早々に結婚し子どもが産まれる寸前で、佳純は心の中を曝け出せる人が近くにはいなかった

 

合コンで言い寄られても迷惑で、でも付き合いだけは欠かさずに巻き込まれる性格

そんな折、「服を買いに行く」という理由で料亭に連れてこられた佳純は、強引にお見合いをさせられてしまう

 

だが、相手が行きつけのラーメン屋の店長であることがわかり、彼も恋愛には興味がないという

友人関係がそこから始まるものの、その居心地の良さが彼を変化させ、その関係性も終わってしまった

 

閉塞感漂う中、家にも居場所のない佳純は、時折浜辺に出て無心になる時間を取っていく

そんな彼女の元に、中学時代の同級生・真帆が現れた

 

テーマ:無性愛(アセクショナル)

裏テーマ:人生と恋愛の関係性

 


■ひとこと感想

 

恋愛感情が全く起きないアラサーを三浦透子さんが演じると知って迷わずに参戦

アセクシャル(無性愛)というマイノリティーが、周囲の中で孤立していく様子が描かれていました

 

佳純は人に興味がないわけではなく、誰が相手でも性的な興奮が起きないという性質を持っていて、「仕事が言い訳になっている翔」の変化に戸惑うところはリアルでいて、翔は少しかわいそうかなと思ってしまいます

 

佳純自体が「アセクシャル」という言葉やその特性を知らないまま生きていて、自分自身と他人の違いは最後までわからないままでしたね

逆に、劇中で説明されると説教映画になってしまうので、この判断は良かったと思います

 

世界中にどれぐらい同じ特質の人がいるのかは知りませんが、性的欲求があっても異性とは交わらないという時代になって久しいので、時代の移り変わりとともに許容されていく(特質とは思われない)のかなと思ったりもしました

 


↓ここからネタバレ↓

ネタバレしたくない人は読むのをやめてね


ネタバレ感想

 

性的指向としてのアセクシャルは「他者に対して性的欲求を抱くことが少ない」のですが、普通に性欲があっても加齢とともに「他者との交わり」が億劫になったり、そもそも性行為=性的満足ではないところから、若者のセックス離れなんている言葉遊びも流行させたりしていますね

若者が結婚しない理由ランキングでは「そもそも他者と関わるのが嫌」というものが多くて、さらに性差がある異性とは関係を持ちたくないという人が増えている現実があります

その最たる理由が「自分の時間が削られる」というもので、ここまで来ると「コミュニケーションの煩わしさ」からいかにして逃げるかという世界になってしまいます

 

この映画では、対人関係は問題なく、単純に「性的対象として相手を見ない」のですが、それが「相手にその魅力がない」と感じ取られて誤解されるという難点があります

映画では、翔がその重荷を背負わされるのですが、「好きになった相手から性的に興味を持てない」と言われると、その特性の生きづらさよりもキツいものを感じてしまいます

 

この辺りは、佳純が自分の性的指向について不勉強である部分もあるのですが、だからといって「相手が勝手に傷ついて去っていく」だけなので、佳純的には問題なく、無駄に敵が増える印象があるのが大変かなと思ってしまいます

佳純がそうなったのは、性体験のトラウマなのか、そもそも性的行為に対する嫌悪感があるのかまではわからなかったので、そのあたりが描かれているとなお良かったのかなと思いました

映画的には「先天的」ということで良いのかなとは思います

 


アセクシャルとは何か

 

アクセシャル(Asexuality)とは「無性愛」と言い、「他者に対する性的な魅力への無関心、性的な行為への関心や欲求が少ないか、存在しないこと」を言います

性欲がない「無性欲」でもなく、性的行為に嫌悪を抱く「性嫌悪、性的欲求低下障害(HSDD)とは違います

社会学・心理学の分野でも研究の初期段階で、無性愛が性的指向かどうかも議論が分かれています

諸外国では「性的な惹かれを経験しない人」と定義づけされていて、日本の場合では「恋愛感情の欠如」と捉えられていることが多いとされています

 

世界でも約1%、日本でも0.73%ほど存在していると言う統計がありますが、本当のところは分かりません

無性愛者のコミュニティもSNSによって発展し、日本だと「Asexual.jp」のドメインで再構築されたコミュニティが交流の場所になっています

日本の場合とは違って、諸外国では「性的には惹かれ合わないが恋愛関係にはなる」とされていて、映画だと佳純と翔の初期の関係はそれに近いものがあります

でも、翔の方は無性愛ではないので、佳純に性的な興奮を感じていました

 

恋愛感情の先に性的欲求がある日本だと、その段階を経ると言うしきたりのようなものがあります

告白文化があるのも特異なことで、お互いの気持ちを確認してから関係性を紡ぐと言う流れがあります

映画でも「いいよね」と翔が佳純の確認を取るのですが、その前段階の「そっち行って良い?」の段階で、佳純の抵抗は始まっていました

この一連の流れにおいて、翔は「自分には男性的な魅力がない」と感じていて、佳純の抱える問題には無関心なまま関係が壊れていました

 

結局、この関係は最後まで修復の機会もないままでしたが、そもそもが「恋愛に対して感じていたもの」が根本から違っていて、それがお見合いのシーンでは描かれていました

仕事一筋と言う「恋愛との優先順位を持つ翔」と、そもそも「恋愛がどの順位にも属さない佳純」なので、仕事よりも佳純が大事になった翔の気持ちはわからないと言う感じになっていました

このエクスキューズはより2人の断絶を生むだけになったと思うのですが、何もないまま翔が誤解したまま終わるのは少しだけ心苦しくも感じてしまいます

 


性的マイノリティ問題よりも根深いもの

 

映画は無性愛の生きづらさを描いていますが、それよりも問題に感じたのは「家族による過干渉」だったと思います

母親は騙してまでお見合いをさせようとするし、妹はレズビアンなのかと嫌悪感をぶつけます

それらは無性愛への無理解というよりは、単に自分の価値観に従って、「なぜ自分と同じことをしないのか」と言う意味につながります

総じてそれらは、「同じ苦悩を共にしよう」と言う側面があって、「女ならば産み育て、その苦悩を知るべき」と言う価値観が根底にあると言えます

 

彼らの家族の中でその価値観に執着を持たないのが佳純の祖母で、彼女だけが「自由に生きたらいい」と言います

同じように出産、育児などを経験しているのに佳純を許容しているのは、その役割を睦美が担ったから、とも言えます

睦美に子どもができて、「孫を抱く」と言う欲求は満たされるので、祖母からすれば「無理にその役割を佳純に背負わせる意味はない」のですが、それは言い換えれば「無関心だから」と言うところに行き着くのですね

なので、残酷な言い方をすれば、祖母は既に佳純を同性とは見做していないとも受け取れます

 

家族というものは出産、育児の先に血縁を遺していくものなので、自分の代でそれを終わらせる宣言というものは、ある意味一族への背信に近いイメージをもたらします

この生物としての根幹と個人の自由意志のどちらを優先させるかにおいて、真っ向から議論になるのは当然のことでしょう

でも、人類の進化の過程で生まれてくるマイノリティというのは、大枠で考えれば自然の意思そのものであると言えます

血族の存続に対する意味も含めても、そこまで拘って生きている人の方が少なく、絶えることも必然であるという時代に突入しつつあるのかもしれません

 


120分で人生を少しだけ良くするヒント

 

これまでに声を上げられなかったマイノリティが武器と仲間を得て主張を始めたのが今世紀の最大の変化であると思います

かつて同程度はいたとされるマイノリティも、同じ考え方を持つ人を探すのが困難だった時代を経て、今では多くのマイノリティのコミュニティというものが存在していると言っても良いでしょう

これらは「人類の細分化」によって起こったもので、マイノリティの主張というものが起きているのは比較的先進国で生命の危機の少ない地域に限るというイメージがあります

これまでの人類の歴史は戦争の繰り返しで、寿命まで生きる人の方が少なかったと言えます

第二次世界大戦が終わって、ようやく寿命を全うする人が増え始め、それによって「人生をどう生きるか」というフェーズに入ってきました

 

このフェーズに入ってから既に50年以上が経ち、様々な経済成長の中で人類は増加の一途を辿り、それによって多くの価値観が生まれます

そして、こうした声が繋がりやすくなった世界において、その声が大きくなるのは必然の流れでしょう

今では少子高齢化と晩婚化など、血族の途絶えというものが同時多発的に起こっていきます

「家」の制度がない時代において、血族の繋がりを求められるのは限られていて、それを重視する階級も存在するでしょう

でも、そう言った舞台では、個人よりも家が重視されているので、家のメリットがなければそれに耐え得る意味はないように思われます

 

多くの血族は自分の代で滅ぶとしても、その価値を持たない人の方が多く、その理由の一つとして「将来に希望がない」ということが含まれます

地球の環境汚染問題、国の財政問題などに端を発して、この国で子孫が苦しむのではないかという懸念は往々にして感じられます

そう言った未来への絶望というものが、血族の断絶に拍車をかけているような気がしないでもありません

人類にとっての長寿が幸福ではなくなったように、価値観はここ数年でガラッと変わってしまったような印象を受けます

人類は相対的に自然の自由意志のもとで存在しているものなので、人類という括りの成長と衰退の中で起こることの一つと言えるのかもしれません

この議論は映画からかなり逸れてしまうので、ここまでにしておきます

 


■関連リンク

Yahoo!映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)

https://movies.yahoo.co.jp/movie/383737/review/8ce27cf7-b08e-423e-945a-f7b34c3a362b/

 

公式HP:

https://notheroinemovies.com/sobakasu/

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投稿者 Hiroshi_Takata

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