お笑いについて考えたい人(★★★)

夢と成功の関係について考えたい人(★★★)

 


■公式予告編

鑑賞日:2024.1.9(イオンシネマ京都桂川)


■映画情報

 

情報:2023年、日本、116分、G

ジャンル:笑いに取り憑かれた青年の半生を描くヒューマンドラマ

 

監督:滝本憲吾

脚本:滝本憲吾&足立紳&山口智之&成宏基

原作:ツチヤタカユキ『笑いのカイブツ(文春文庫)』

Amazon Link  → https://amzn.to/47sxtJ6

 

キャスト:

岡山天音(ツチヤタカユキ/アレマ侯爵:構成作家を目指すハガキ職人)

片岡礼子(おかん:ツチヤの母)

 

松本穂香(ミカコ:ツチヤの想い人、バーガーショップの店員)

 

菅田将暉(ピンク:ツチヤを気に入るホスト)

 

【ラジオ番組パート(東京)】

仲野太賀(西寺/ベーコンズ:ツチヤを気にいる芸人)

板橋駿谷(水木/ベーコンズ:西寺の相方)

 

前原滉(氏家:ラジオ番組の構成作家)

管勇毅(佐藤:ラジオ番組のディレクター)

松角洋平(内山:ラジオ番組のプロデューサー)

 

樫本琳香(ベーコンズのマネージャー)

 

【劇場パート(大阪)】

前田旺志郎(山本:劇場の構成作家)

淡梨(トカゲ:ツチヤと組むピン芸人)

 

瀧見信行(安富:劇場の構成作家)

お〜い久馬(岡部:劇場の支配人)

西本銀二郎(丹羽:劇場の作家見習い)

赤木裕(長友:劇場の作家見習い)

おひな(岸:劇場の作家見習い)

 

【その他】

木村祐一(デジタル大喜利のMC)

藤井隆(デジタル大喜利のMC)

柳ゆり菜(デジタル大喜利のMC)

 

たかまん(おかんの恋人)

市川(ヨーグルト配達の先輩)

斎賀正和(フランス料理店の店長)

吉岡友見(コンビニの店長)

毛利大亮(ホストクラブの店長)

佐藤五郎(居酒屋の店長:ピンクのバイト先)

 


■映画の舞台

 

大阪府:大阪市(道頓堀付近)

東京都:23区内某所

 

ロケ地:

大阪府:吹田市

ESAKA MUSE(大阪の劇場)

https://maps.app.goo.gl/3cSG7dz5rmzduXmE8?g_st=ic

 

大阪市:都島区

まつい亭

https://maps.app.goo.gl/Nvio6dyLhtxMmiuw8?g_st=ic

 

BAR杉の子

https://maps.app.goo.gl/gHohi8XKGi71yn4b9?g_st=ic

 

BarSouth

https://maps.app.goo.gl/oPyyaK339XtwWGeK9?g_st=ic

 

肉バル×イタリアンRivio

https://maps.app.goo.gl/2sswnNvBePejFw7E9?g_st=ic

 

大阪市:中央区

大阪男塾(ホストクラブ)

https://maps.app.goo.gl/7agcyGivWgiapo6h7?g_st=ic

 

魔女の厨房 CAULDRON

https://maps.app.goo.gl/Z8Te89MyvmbEPNsN7?g_st=ic

 

東京都:台東区

浅草花劇場

https://maps.app.goo.gl/ZjiLwJ3tpxGcEboz8?g_st=ic

 

浅草花やしき

https://maps.app.goo.gl/sfpbSQSFd2sNWp1g6?g_st=ic

 

東京都:港区

焼肉晩翠

https://maps.app.goo.gl/JQW1GjoPPmyYnzvU6?g_st=ic

 


■簡単なあらすじ

 

大阪でデジタル大喜利に入れ込んでいるツチヤタカユキは、構成作家になることを夢見て、膨大な量のネタを昼夜問わずに作っていた

シングルマザーのおかんは日替わりで男を連れ込んでいたが、息子の活動については何も言わなかった

 

ようやく念願のデジタル大喜利でのレジェンドになったツチヤは、その名札で劇場へと足を運ぶ

支配人から見習いとして雇われるものの、誰もがツチヤを毛嫌いしていた

ツチヤはトカゲというピン芸人の作家となるものの、自分のネタとして認められない日々が募りとうとう辞めてしまった

 

ツチヤは次にラジオ番組のハガキ職人に転じ、そこで再び膨大な数のネタを送りつける

お笑いコンビのベーコンズの西寺はツチヤのネタを気に入り、ラジオで「一緒に仕事をしよう」と呼びかける

ツチヤは意を決して上京し、西寺のもとを訪れることになったのである

 

テーマ:笑いとは何か?

裏テーマ:成功の要因

 


■ひとこと感想

 

お笑いに取り憑かれた青年がハガキ職人になったぐらいの知識しかなく鑑賞

テレビの大喜利番組に入れ込んで称号を手に入れようとしているあたりからヤバさが全開になっていましたね

原作未読、本人の作品も知りませんが、今も健在で活躍されているのなら良かったと思います

 

お笑いとは何かという哲学的なテーマもありながら、物語の本懐は「成功するために必要なこと」を描いていたように思います

特に、「人間関係不得意」の彼は能力があっても開花させることは難しく、笑いを作っているのはネタ作家だけではないという事実が描かれていきます

 

映画は、ツチヤを演じた岡山天音の快演に心酔する内容で、助演の菅田将暉、中野太賀の好演も光るものがありました

常に絶望という感じで、命を削ってネタを書いているのですが、リラックスを生むはずのお笑いが精神を削って生み出されるというのは不条理のようにも思えます

 


↓ここからネタバレ↓

ネタバレしたくない人は読むのをやめてね


ネタバレ感想

 

本作は、ツチヤの半生を描いていて、デジタル大喜利時代、大阪劇場時代を経て、東京ラジオ作家時代へと繋がっていきます

ネタを書きまくることで熱意とブラッシュアップがなされ、「寝かす」という大阪人ならわかる絶妙な言葉が登場したのは感心しました

いわゆる「一晩置いて冷静に見る」という意味なのですが、ブログの記事で行き詰まる時もこんな感じに「寝かせる」場合がありますね

 

何かを生み出したことがある人なら理解できる産みの苦しみではありますが、こと笑いに関しては、多くの要素が絡まって起こる現象なので、狙って笑わせることができるというのは凄いことだと思います

映画で感じる感動なども、観客側の感情がいかに乗るかが重要ではあるものの、作り手側の感情が動かないものは伝わらないといえます

そう言った意味に置いて、ツチヤの笑いが届いている範囲はとても狭くて、一般受けしないところがあると感じました

 

何かに夢中になれることは凄いことだけど、それに苦痛が伴うと続けられません

ツチヤの場合は、ネタを書くことに苦痛はなくても、その面白さを理解してもらうとか、笑いの方向性を示すなどのプレゼン能力が絶望的だったのかなと思います

番組自体の方向性、芸人のプロデュースなど、様々な要因が絡み合う世界なので、そのネタが面白いかどうかよりも大切なものがあったのではないでしょうか

 


笑いとは何か?

 

映画は、お笑いに取り憑かれた男・ツチヤを描いていて、映画内では「誰かの活力になるもの」という西寺の哲学が示されていました

でも、ツチヤ自身のお笑いの定義というものはなく、「自分の考えた面白いことを大多数にわからせる」という上から目線のものがあったと思います

お笑いとは「何かしらの反応」であり、同じことが起こっても「受け手の状況」によって、反応は様々だと言えます

なので、お笑いは「ネタの中で観客のフォーカスを得て、感情をコントロールし、意外な着地点を提示する」というものが原則的な流れになっています

そして、ストーリーテリングであるとか、キャラとか、その行動というものに面白さというものを内包させることになります

 

日本におけるお笑いは大きく分けると2種類あって、「巧妙な話術で日常を笑いに変える」というものと、「誰かしらのおかしな行動を標的にする」というものがあります

前者は落語や漫才に代表され、コントは中間的なイメージがあります

後者が圧倒的に多いのがテレビを主体としたお笑い番組全般で、バラエティーだと素人いじり、後輩芸人いじり、キャラ芸人いじりなどがあります

これを面白いと思う人とそうでない人がいるのですが、前者の「日常内で笑われる人」は脳内で再生される「ある人物」だからで、特定の誰かを念頭に置いていないから(観客それぞれが違う人物を思い描いているから)だと思います

 

架空もしくは、あるモデルの話を引き合いに出して笑うのと、目の前にいる人物を笑うのとは話が違うのですね

これが「笑われる本人が望んでいる場合」と、「笑いのために犠牲になっている場合」があって、テレビは圧倒的に後者が多いような印象があります(個人的な主観ですが)

漫才やコントだと笑われ役に徹しているというキャラ付けがあったりするのですが、バラエティなどだと「芸人そのままが笑われ役に徹する」とか、素人いじりをして笑いものにするみたいな仕掛けを見ることがあります

笑われ役であることは了承済みだったりするのですが、それが見え透いてくると、笑えるものも笑えなくなってしまいます

 

お笑いとは、「日常を非日常にすること」で、その隙間を笑うことで、それがひいては現実を生きるための活力に繋がっていきます

その活力を生み出したものの中に「罪悪感」が生まれることは逆効果になってしまうのですが、その時だけ笑えれば良いと言う笑いが多いように思えます

気にしない人もいると思いますが、想像力の働く人ならば、お笑いの構造といじめの構造が似ていることに気づくので、なおのこと「立場を利用したハラスメント」をお笑いと称しているものには抵抗が生まれるのも当然なのかなと感じました

 


奉仕するか、支配するか問題

 

本作では、お笑いに取り憑かれているツチヤを描いていますが、お笑いとの関係をどのように考えるのかが人生を良くも悪くもする、という印象を持ちました

お笑いの肝を捉え自分の道具のように使いこなすのか、お笑いの魔物に飲み込まれてしまうのか

もし、お笑いの神様がいるとしたら、それは「その場にいる人の感情を飲み込んでしまうもの」だと思うので、神様に愛されている人は「その場の空気を自分のものに変えてもらえる特典」があるように思えます

笑いは感情のひとつで、心の向きを示すものですが、同時に「笑い以外の感情を消す」という効能があります

 

人は同時に複数の感情を示すことができず、同時にあるように見えても、瞬間的に変わっていくものだと言えます

感情とは、事象に対する反応であり、反応は過去の体験をベースに湧き起こるものなのですね

なので、同じ話を聞いても、笑う人もいれば怒る人もいる

でも、その違いは「全く同じもののように見えて違う」という特質があります

 

例えば、氏家がツチヤの才能を利用して構成作家として活躍しているという場面でも、ツチヤと西寺では感じている怒りの質も反応箇所も違うのですね

ツチヤの場合は「成功未体験者」としての焦燥、裏切りに思える業界の都合に対してキレていて、西寺は「成功者」としての氏家の思惑と強かさにキレていました

西寺が氏家に怒りを示すシーンはありませんが、あのネタの脚本に「その後参加しなかったツチヤをクレジットすること」ということが彼の怒りの表れだったように思います

元ネタにどれだけ手を入れたのかはわからないのですが、単独でツチヤの名前だけをクレジットさせているのは、ほとんどイジらなかったのだと推測されます

これが実現する舞台背景として、「ツチヤを起用するなら降りるとまで言ったディレクター」を説得し、氏家たちや自分の手によるネタのブラッシュアップもさせなかったのですね

いわゆる「ツチヤの心情を自分の未成功時期と重ねた西寺の静かな闘争」であり、その根底にあったのは「怒り」であったように感じられました

 

ツチヤの想いは、制作サイドの場を支配し、やがては劇場をも支配して行きます

それだけの才能があったことは事実で、彼があの場所に来れたのも導きであるように思います

でも、彼はそのまま去ってしまう

それほどまでに、彼の「人間関係不得意」という枷は重すぎたのだと言えるでしょう

 


120分で人生を少しだけ良くするヒント

 

この業界で成功するためには、個人の力が優秀というだけでは続きません

業界人のみならず、多くの人との関わりの中で、ひとつの空間と時間を作る必要があり、至高のネタを考えるだけでは何も生まれないのですね

これはどこの業界でも一緒で、一人の優秀な人物がいても結果を残せることの方が稀であるのと似ていると思います

 

ツチヤのネタは計算されたもので、自分が面白いと思ったものを客観視して作られていました

いわゆる「寝かせる」というもので、これは「冷静になって、そのネタを見返す」というもので、その場の自分の脳内にある雰囲気をクリアにして、再度ネタと向き合うということが必要になってきます

ネタを作り上げた時間よりも推敲に時間がかかるのは世の常で、このブログを書くに至っても、何度となくボツにしては書き直すということを繰り返しています

時には、構成自体を丸ごと変えることもありますが、このブログのように「ある程度のフォーマットが決まっている」と、そこまで大胆なことをする必要性は限りなく低くなっています

 

このブログはいわゆる内輪向けのもので、個人的に感じたこと、疑問に思ったことを掘り下げるという目的があるので、それ以外ではほとんど寄与しないのですが、ツチヤが考えるような「不特定多数を対象にした有料コンテンツ」というものは、ブログのような趣旨では作れません

彼らが作るべきものは「その空間に来た人を楽しませる」というものがあり、西寺の場合は「明日の活力になれれば良い」という骨子があります

そう言った営利目的や対価を必要とする場合には、ハードルの高さも格段に上がり、単にネタの推敲をするだけには留まりません

 

ネタのリハだけではなく、照明、音楽、温度、お客さんをスムーズに誘導する動線の確保、チケット購入から着席までの動線、販促、座席の間隔など、様々なものに配慮し、そして入念にリハーサルを繰り返します

さらにその日のネタの順番や、それに対する観客の反応などをリアルタイムに見ながら対応し、細かさな変調、構成の入れ替え、アドリブなどが行われます

路上でネタを見てもらう駆け出し芸人とは違い、そのステージによって収益が発生し、それによって生活する多くのスタッフがいるわけで、それらを全て飲み込んだ上で、さらに「新しいものを生み出す世界」なのですね

なので、業界で生きるということは、それ相応の覚悟が必要で、単に人よりも面白いことを考えられる、というのではうまく行きません

 

潤滑油として機能する飲み会とか会合、ミーティング、日常会話などを「仕事とは関係ない」と切り離す若者がいますが、それら全ては「勉強の機会」だったりします

方向性が同じ社員や上司は誰かとか、横のつながり、縦のつながりの縮図を見ながら、さらに別の部署では何を考えている人がいるのか、など

人を見る機会を増やすというのは、すべて自分の仕事に跳ね返ってくるものだと思います

 

仕事とは、「誰かの困りごとを助ける」というもので、言われたことをこなすのは「作業」と言います

作業員として一生働くのであれば問題ないかもしれませんが、雇用側や仕事仲間は部品が欲しいわけではないのですね

なので、そう言った意味も含めて、人間社会で生きていく上では「人間関係不得意」というのは致命傷にも近いものだと思います

それをどのように改善するかは個別の案件になるので特効薬はないのですが、人生は料理と同じようなもので、レシピ(計画&完成図)、材料(思考)、調理(行動)、味見(評価&改善)の後に「提供」という過程があります

これは「PDCA(計画、実行、評価、改善)」という仕事の概念のアレンジみたいなものですが、このルーティンを自分のものにすると随分と結果が変わってきます

これを「人間関係」にも落とし込んでいくことができるのですね

 

「仕事の目的のための人間関係構築(計画)」「対人関係における基礎教養(思考=映画では挨拶)」「対人との会話、共同作業(行動)」「レスポンスと再思考(評価&改善)」

これを繰り返すことで経験値が上がるのですが、大事なのは「計画」と「思考」なのですね

なので、どのような関係を築きたいかというものがあってからの思考になるので、それが合わない場合は「行動以下に進む必要がない」と言えます

ツチヤの場合は自分で限界を定めていましたが、業界が合わないのであれば無理にしがみつく必要もないでしょう

おそらくは、彼の場合は「好きなことを仕事にしない方が良いタイプ」だと思うので、生計を立てるために「自分にできること」を仕事にして、「好きなこと」を趣味にすれば良いのかなと思いました

そう言った先に居心地の良い場所というものが見つかり、自分の弱点を補ってくれる人々との出会いがあると思うので、その時に飛び込んでいけばいいのではないでしょうか

それが人生のどの時期になるかはわかりませんが、人生の先というものは見えないものなので、時期を気にしなくても良いのかな、と思いました

 


■関連リンク

映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)

https://eiga.com/movie/95535/review/03330853/

 

公式HP:

https://sundae-films.com/warai-kaibutsu/

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投稿者 Hiroshi_Takata

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