■大志を叶える原体験は、何かを自力でやり切ることだと思う
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■オススメ度
少年たちの成長ムービーを観たい人(★★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2023.3.28(アップリンク京都)
■映画情報
情報:2023年、日本、145分、PG12
ジャンル:小学6年生最後の夏に訪れた青春の爪痕を描いた青春映画
監督&脚本:足立紳
原作:足立紳『弱虫日記(2017年、講談社文庫)』
キャスト:
池川侑希弥(高崎瞬:中学受験を嫌がる小学6年生)
田代輝(村瀬隆造:瞬の親友、父はヤクザ)
白石葵一(戸梶元太/トカゲ:宗教二世のいじめられっ子)
松藤史恩(星正太郎:東大目指すガリ勉)
岩田奏(西野聡:瞬と同じ塾に通う少年、夢は映画監督)
坂元愛登(小林幸介:武闘派気取りの転校生)
蒼井旬(玉島明:ツッパリ中学生・政ちゃんの舎弟)
松島歩志(明の取り巻き)
上阪隼人(明の取り巻き)
鶯上丈太(政ちゃん:小学生にカツアゲさせる中学生のツッパリ)
久保了万(政ちゃんの取り巻き)
佐久間紀光(政ちゃんの取り巻き)
竹河南充(政ちゃんの取り巻き)
大石積久(政ちゃんの取り巻き)
置田啓人(政ちゃんの取り巻き)
結城望夢(政ちゃんの取り巻き)
臼田あさ美(高崎佳子:乳癌を再発する瞬の母)
浜野謙太(高崎作朗:瞬の父、ガソスタ経営者)
新津ちせ(高崎ワコ:瞬の妹)
矢田美月(ミヨ;ワコの友達)
前田葵(サッちゃん:ワコの友達)
河井青葉(村瀬美奈:隆造を捨てた母)
永瀬正敏(村瀬真樹夫:隆造の父、強面のヤクザ)
川上友里(戸梶由香:宗教にのめりこむトカゲの母)
福室莉音(星莉緒:正太郎の姉、ヤンキー)
マシロ江口かれん(莉緒の友人)
田中いる(莉緒の友人)
稲川実代子(カワタのババア:駄菓子屋)
吉岡睦雄(内田先生:担任)
田中美晴(祥子先生)
干川真奈(保健室の先生)
坂田聡(校長先生)
犬飼直紀(塾の先生)
■映画の舞台
日本のどこかの田舎町(ロケ地は岐阜県飛騨市)
ロケ地:
岐阜県:飛騨市
神岡小学校
https://maps.app.goo.gl/1HNsc54wbhZ6pJVFA?g_st=ic
飛驒市立古川西小学校
https://maps.app.goo.gl/8TxFp6QPbd4t23hV9?g_st=ic
レールマウンテンバイク Gattan Go!!「まちなかコース」
https://maps.app.goo.gl/UFeY8MAkHhFEcpC3A?g_st=ic
八ツ三館
https://maps.app.goo.gl/2cj4EHLir6WvALV2A?g_st=ic
千代の松原公園(堤防付近)
https://maps.app.goo.gl/P1K9FHpLvw6yRjWHA?g_st=ic
■簡単なあらすじ
1988年、ある田舎町に住む小学6年生の高崎瞬は、成績下降を理由に塾に行かされることになった
彼には、リーダーシップを発揮する・隆造、不登校のトカゲ、秀才のゲーム好き・正太郎という親友がいて、何かにつけていつも一緒に遊んでいた
ある日、彼らのところに小林というエアガンを撃ちまくる転校生がやってきて、クラスの話題は彼に集中し、隆造も小林とつるむようになっていた
そんな折、瞬は塾で出会ったクラスメイトの西野と仲良くなり、次第に交流を深めていく
彼らにとって、充実の1年間が訪れると思われたが、瞬の母は乳癌が再発し、隆造のところには家族を捨てた母が戻ってきておかしなことになっていく
さらに、西野がカツアゲされていたことを知った瞬は何もできないまま、友達を裏切ってしまう
友人関係に変化が訪れ、そして疎外感を感じていく瞬は、どうしたら良いかわからないまま、孤立しているように感じてしまうのであった
テーマ:友情と成長
裏テーマ:変わらずに残っていく絆
■ひとこと感想
小学生がわちゃわちゃ出てくる映画で、仲良し4人組が「様々な要因」に晒される中で友情を育んでいく様子が描かれています
原作は未読ですが、どうやら監督の実体験が紡がれていて、子どもたちのつながらない適当なセリフの応酬がリアリティを醸し出していました
物語は、疎外感を感じる瞬と隆造がお互いに抱えているものを分かち合えないけど、強く結ばれていく様子が描かれていました
家庭の諸事情は子どもの力ではどうすることもできず、転勤や離婚などの要因によって、あっさりと引きちぎられてしまいます
そんな中でも、友達のために何かをすることとか、自分のために避けてはいけないものなどが山積していて、それを手探りでクリアしようとしていました
この流れがとても感動的で、演技なのかリアルなのかわからないくらいに真に迫っていると感じました
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
彼らの住む町には「地獄トンネル」という廃線になった線路があり、そこに入る勇気がないという彼らが描かれていきます
彼らがトンネルを怖がるのは、その先に何かがあると信じていて、それがなかった時の虚脱感というものを感じているのですね
実際には「行動」による自信がつくのですが、特別な何かを感じている彼らは、常に受動的で変わりゆく状況に翻弄されていきます
物語のメインは政ちゃん率いる中学生と喧嘩になる、というもので、そこで父を切りつけた刀を持った隆造が描かれていきます
「殺してやる」と言って斬りかかろうとする隆造に先んじてドロップキックをかます瞬は、隆造がその一線を越えることで二度と会えなくなるというものを瞬時に悟っているのですね
彼自身が逃げ続けた過去があって、それを払拭する意味も含めて、体が反応した瞬間なんだと思います
瞬が目覚めたことで形勢は逆転し、さらなる成長を見せることになりました
■少年期のマウント合戦
映画の中で、体育館の用具庫を巡る争いが勃発していました
いわゆる縄張り争いのようなもので、小学生高学年ぐらいから「自然派性のグループ」というものができてきます
お山の大将のような感じのヒエラルキーが存在し、「家が金持ち」「喧嘩が強い」と言った「本人の資質と家庭環境」というものがマウントに顔をのぞかせます
家庭環境がマウントになる場合は、まだ個が確立していない時期で、自分のポジションを家庭環境で誇示するしかない場合ですね
この対局に「家が貧乏」「母子家庭」「父が怖い」「母が綺麗」「お姉ちゃんが美人」などの情報が付加されていきます
個人の資質によるものだと、「喧嘩が強い」の他には「頭が良い」「絵が上手い」という技能が優先され、性格などはあまり加味されない印象があります
基本的には、圧倒的に「家庭比べ」が行われるイメージがあり、子どもの習い事などが「家庭の経済」を表していましたね
ピアノなどのような「練習にお金がかかる」と裕福というイメージで、小学生の頃から塾通いしているのも同じような感じになっています
父親の職業、母親の場合は美貌などが対象になっていて、子ども心の純粋さは時には残酷だったように思えました
子ども時代に派生するコミュニティとそのマウント合戦は、雄としての本能なのかなと思います
群れること、孤立することも含めて、幼少期の場合は考えることなく自然と構成されていき、もっとも心地の良い場所を求めていくことになります
そして、その心地よさが「場所」を求め、社会や家庭とは違う「どこか」というものを欲していきます
映画では学校内の用具庫でしたが、近くの公園とか、廃線になった駅などに「秘密基地」を作り、共通の秘密を持つことで、結束を強めるというものがあります
これらは動物世界のマーキングのような効果があって、それが為されるのが小学生ぐらいまでのヒエラルキーと言えるのではないでしょうか
■トンネルの先にあるもの
映画では、廃線になったトンネルに願い事をしていましたが、劇中のセリフで「もし、トンネルを通り抜けて何もなかったどうしよう」と不安を抱えている様子が描かれていました
トンネルは向こう側が見えないほどの長さで、暗闇の怖さもありますが、それ以上に「偶像崇拝」のようなものの先にある現実というものに心を奪われていたように思います
願い事が叶うかよりも、自分の願いを何かに託していることが重要で、他力本願の弱さというものがそこにあります
トンネルを抜ける行為は、他力本願から抜け出すという意味があり、自分自身の力で何かを成した先にある無力感というものが怖さに繋がっているように思えます
願い事は叶うまでが楽しく、自分の行動が結果に結びつくまでの過程において、自力では何ともならない「神風」のようなものを期待してしまいます
それは大人になっても変わらなくて、人間社会において、自力だけで何とかなるというものは限られているのですね
受験にしても、その年のボーダー次第で変わりますし、会社に入っても自分の資質と上司の方向性が合わないと、同じ努力をしても結果は変わっていきます
子ども時代には「行動の結果は相対的である」ということを知らないので、自分の行為の結果が思うようにいかないと、まるで自分がダメだったように感じてしまうのですね
結果が直結すると信じる時代において、トンネルを抜けるような「自分の能力を超えた瞬間」に訪れる結果というものは、とても大きな意味を持ちます
自分の弱さに打ち勝ったことが自信になり、そうしたものの積み重ねが子どもを強くしていきます
本作におけるラストシークエンスの瞬は、トンネルを抜けた先で隆造に追いつきます
隆造に瞬がトンネルを抜けたことが伝わったのかはわかりませんが、瞬の中でケジメというものがついたのは事実でしょう
瞬がみんなと同じように駅に行かなかった理由は語られませんが、彼が胸に秘めていたのは「未来」であると思います
このトンネルを抜けた先で隆造に会うことができれば、もしかしたら、この先の未来でも再会できるかもしれない
そして、2人の絆というものを神様が肯定したようにも思えるでしょう
そういった不確かなものを手繰り寄せるために、瞬は誰にも何も言わず、まるでトンネルへの祈りを誰にも話さないのと同じように、走り抜けようと考えたのではないでしょうか
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
本作は、少年期の多感な時期における人格形成を描いていました
人と繋がること、人を信じること、人に裏切られることなど、多くの対人関係の難題が凝縮されています
6年生から中学に上がる場合、多くの人は学区内のまま進級を果たすので、そこでも小学校で出来上がったコミュニティが継続されていきます
私の場合は、二つの小学校が中学で合流するという感じだったのでシャッフルされてしまいましたが、小学校で仲の良い人たちとはそのままの仲を維持していました
でも、中学になると、クラブ活動が本格化して、その活動時間が多いために、それまでの関係性というものは徐々に希薄になっていきます
学校内の中でコミュニティの変化が起き、私の場合だと「早々にサッカー部をドロップアウトした」ために、学校内での居場所というものは失われてしまいました
中学入学して一週間くらいでいきなり「帰宅部」の状態になり、ほとんどの人が何らかのクラブ活動をしていたために「空白の時間」というものができてしまったことが鮮明に思い出されます
小学校で文化系だったのに、中学で体育会系に行くという暴挙が原因だったのですが、そこで体育会系への不適合が明確になったために、個人活動に集中するようになりました
ちょうど、小学6年生の時に両親の離婚があり、6年生の頃は「越境通学」という状態で、そのまま中学で合流を果たせたのですが、帰る方向が全く違うために「学外の交流」というものが途切れることになりました
「学内の交流」というのは、主に休み時間、放課後に限るので、それよりも「学校が終わってから夕食が始まるまでのゴールデンタイム」というものはとても貴重なものだったと思います
学外の交流では、それぞれが「本当にやりたいこと」を重ねていくので、映画の場合でも「映画を撮ろう」というような目的が生まれていました
西野の転校によってそれは叶いませんでしたが、彼が「撮れなくても映画の台本を書いたこと」は、多くの友人たちに多大な影響を与えます
「何かをやり切ること」というのは、自信を持つための最短ルートで、その繰り返しによって自信というものは醸成されます
夏休みなどの宿題でも、「自分でやり切る」ということが大事で、最後の一日であっても、誰かの助けを借りずにやり切ることはとても重要です
ここで、誰か(家族でも)に頼ることで終わらせる癖をつけてしまうと、それが甘えというものに繋がっています
なので、個人的には「中身よりも自分でやり切ったか」の方が重視されると思うので、他人の力を借りて終わらせるくらいなら、途中までで提出した方がマシだと思います
学校教育では「手段は問わないから形にしろ」と言っているに等しい「誰かの力を借りて完成させること」を重要視しているように思えます
本作における瞬は、西野の自分でやり切ることに感化され、トンネルを自力で抜けることをやり切ります
彼は「心が逸れば、体が勝手に動くタイプ」の人間で、頭で考えるとマイナスに引き寄せられてしまう傾向がありました
この時期に思考で行動を制御することは可能性を摘む行為に等しいと思うので、陥りがちだった彼が脱皮できたのは良かったと思います
おそらくはこれが監督の原体験で、その習慣が「すべての基礎を作りこむ」というものに繋がったのかなと思います
そう言った意味において、この映画は「やり切ることの大切さ」というものを訴えているのかな、と感じました
■関連リンク
Yahoo!映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
https://movies.yahoo.co.jp/movie/383897/review/e52f389c-7453-4e3e-a22b-d9dbb0a36a64/
公式HP: