■こちらにいたのも、実は鬼だったのかもしれません


■オススメ度

 

ドロドロの三角関係に興味がある人(★★★)

原作のファンの人(★★★)

 


■公式予告編

鑑賞日:2022.11.16(T・JOY京都)


■映画情報

 

情報:2022年、日本、139分、R15+

ジャンル:実在の両親と不倫相手をベースに大人の三角関係を描いたロマンス&ヒューマンドラマ

 

監督:廣木隆一

脚本:新井晴彦

原作:井上荒野(『あちらにいる鬼(2019年、朝日新聞出版社)』)

 

キャスト:

寺島しのぶ(長内みはる/寂光:出家した女性、モデルは瀬戸内寂聴)

豊川悦司(白木篤郎:小説家、モデルは井上光晴)

 

広末涼子(白木笙子:篤郎の妻、モデルは井上郁子)

海老名瑠花(白木海里:篤郎と笙子の娘、モデルは井上荒野)

 (幼少期:諏訪結衣

太田結乃(白木焔:篤郎と笙子の娘、次女)

 

長内映里香(蒔子:笙子の妹)

丘みつ子(白木サカ:篤郎の母)

 

高良健吾(小桧山真二:みはるの彼氏)

村上淳(秦:建設会社の社員、篤郎の友人)

蓮佛美沙子(坂口初子:自殺未遂を図った篤郎の愛人)

宇野祥平(新城:篤郎の編集担当者)

古谷佳也(室井:若い編集者)

佐野岳(矢沢祥一郎:京都の役者)

高橋侃(東京大学の学生)

 


■映画の舞台

 

1966年〜1973年

東京都、福岡県、京都府、長崎県

 

ロケ地:

東京都:滝山

滝山団地(マップは滝山管理サービス事務所)

https://maps.app.goo.gl/KTEumpdZtzgQzkEh8?g_st=ic

 

東京都:豊島区

旅館江戸駒

https://maps.app.goo.gl/DLzo23TEZjF5iAXy8?g_st=ic

 

京都府:京都市左京区

圓通寺

https://maps.app.goo.gl/zMhfpz6PE3oa68Rf7?g_st=ic

 

東京都:あきる野市

古民家スタジオまきのした住宅

https://maps.app.goo.gl/QEWL6Qr36GbVaDAL9?g_st=ic

 

長崎県:西海市

崎戸炭鉱跡

https://maps.app.goo.gl/GbHqD8V27taAvaVYA?g_st=ic

 


■簡単なあらすじ

 

福岡の講演会に登壇した作家のみはるは、そこで同じく作家の白木篤郎と出会う

着物を褒められたみはるは気を良くして、篤郎のトランプ占いに興じる

篤郎はカードを読みながら、これまでと違うものを書くことになる、と告げた

 

団地を題材に小説を書くという口実で篤郎の家の近くに来たみはるは、そこで篤郎の妻・笙子と出会う

笙子はただならぬ雰囲気を感じながらも、飄々として彼の運転する自転車の荷台に座った

 

京都に家を建てることになったみはる、奇しくも篤郎も東京の郊外に一戸建てを建てることになる

二人はお互いの生活を尊重しながらも逢瀬を重ねてきたが、ある日みはるは決意を篤郎に告白する

 

それが「出家する」というもので、篤郎は「そういう方法もあるか」と彼女の選択を否定することはなかったのである

 

テーマ:愛の終着点

裏テーマ:妻という名の鬼

 


■ひとこと感想

 

原作は未読で、寺島しのぶさんが瀬戸内寂聴を演じるという内容に興味があって参戦

剃髪のシーンもガッツリありますし、濡場もそこそこ登場する大人の恋愛ドラマになっていました

 

正直言って、この3人の考えていることは分かりませんが、娘(作者)からはこう見えていたんだなあと思って、それはそれで興味深い視点だったかなと思います

 

映画ではダブル主人公みたいな目線になりますが、実質的な主人公は作者の母にあたる笙子さんだったのかなと思います

なので、「鬼」というのは、母のことを指しているのかなと思いました

 


↓ここからネタバレ↓

ネタバレしたくない人は読むのをやめてね


ネタバレ感想

 

福岡の公演で一緒になって、あっさりと大人の関係になっていきますが、そのテンポが恐ろしく早くて焦りました

と言っても、出会った瞬間に「やる気満々」の雰囲気を醸し出していて、始まっていないのに始まっている感というのが凄かったように思います

 

そして、妻・笙子もみはると会った瞬間い新しい愛人であることに気づくし、自殺未遂をした愛人の元に行ったりと、このキャラクターも恐ろしくぶっ飛んでいましたね

 

映画の背景は学生運動が盛んな頃で、その時代背景も二人と繋ぎ止めた理由の一つでしょうか

「あなたが殺したのよ」というみはるの言葉も恐ろしいのですが、「あの人は嘘をつかないと生きていけないのよ」という笙子の言葉も恐ろしくもありました

 


時代背景をサラッと

 

時代は1960年代、映画でもたくさんの時代背景が出てきました

そのあたりをサラッとまとめておきたいと思います

【日本の1960年代ザックリ年表】

1960年 1月19日 日米新安全保障条約が締結

1960年 6月15日 安保闘争

1960年 10月12日 日本社会党の浅沼稲次郎委員長が演説中に右翼の山口二大によって暗殺

1962年 6月23日 日米安全保障条約改定が発効

1963年 11月9日 三井三池三川炭鉱炭じん爆発、鶴見事故が発生

1963年 12月8日 力道山が赤坂のホストクラブで住吉会系の暴力団組員に刺殺

1964年 10月10日 東京オリンピック開幕

1965年 6月22日 日韓基本条約の調印

1966年 6月22日 三里塚闘争が始まる

1968年 6月26日 小笠原諸島の返還

1968年 12月10日 三億円事件

1969年 1月18日〜19日 東大安田講堂攻防戦

 

映画内でも篤郎の台詞に重なってニュース映像が流れていたのは「東大安田講堂攻防戦」とのちの「浅間山荘事件」、それと「全共闘全般」でしたね

これらが描かれているのは、白木篤郎のモデルが井上光晴だからです

彼は貧困家庭で育ち、炭鉱労働を経て日本共産党に入党した人物です

その最中『書かれざる一章』を書いて、それが内部批判として扱われ離党に至っています

その後、炭鉱労働者也被爆者、被差別部落民、朝鮮人などの社会の底辺にある差別を作品に落とし込んでいました

 

篤郎がみはるを連れていく崎戸は実際に炭鉱があった場所で現在は廃坑になっています

長崎県西海市の蛎浦島(かきのうらしま)にあった炭鉱でした

1880年代に炭鉱が発見され、1907年から本格的に始まりました

1943年には年間100万トンを産出し、従業員7500人を超えていました

 

映画で篤郎が熱く語る「朝鮮人の強制労働」は、1912年頃に現地に「納屋」と呼ばれるところがあり、そこに朝鮮人坑夫がいたという記録(『炭鉱誌』)があるそうです

納屋制度は1929年に廃止さて、その後は合宿所に収容されることになります

1930年になって、浅浦坑にて朝鮮人労働者100人が殴打事件があり、そこから逃げた人が暴行に遭ったのを見たという証言などもあるとのこと

この辺りは「崎戸 廃坑」でググるとたくさんの資料やHPが出てきます

 

井上光晴の自筆年譜では、旧満州旅順に生まれ、4歳の頃に帰国、佐世保の崎戸炭鉱で働き、朝鮮人の独立先導で逮捕されたとされています

でも、娘の井上荒野(原作者)は出身地や逮捕歴などの経歴に対し、「自分自身を小説化した」と明言していて、この辺りのエピソードの真偽は不明になっています

それゆえ、「嘘つきみっちゃん」と呼ばれていたこともあったとされていて、それが映画内の「あの人は嘘をつかないと生きていけないの」という妻の台詞に繋がっています

 


生きながらにして死ぬとは何か

 

映画でみはるが出家することになり、そこで「生きながらにして死ぬ」という表現がありました

出家は死ぬことではありませんが、「家庭生活を捨て、仏教コミュニティに入ることが出家」なので、俗世間の生活から乖離するという意味で用いられたのかなと推測します

みはるにとって、篤郎との生活が全てだったので、出家することでしか未練を断ち切ることができないと判断したのでしょう

これに関しては瀬戸内寂聴自身が出家の理由に述べているそうですが、映画的(小説的)な演出が多めかなと思いました

 

仏教においての「出家」の「家」というのは、「煩悩」を意味します

人には「五欲」があり、「五欲」とは「眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)」の5つの感覚(五感)から得られる5つの刺激(=五境)、すなわち「五境に対して起こす欲望」のことを言います

また「財欲・色欲・飲食(おんじき)欲・名誉欲・睡眠欲」と呼ばれることもあります

なので、「出家」とは、これらの欲望から距離を置く、完全に断絶するという意味合いになります

 

人の営みの多くのことを断つことになり、また篤郎との関係が全てだったみはるにとっては、生きているけど死んでいるという感覚なのでしょう

このあたりは瀬戸内寂聴の作家性を知っている人なら、色欲からの離脱というのはなんとなく理解できるかもしれません

篤郎が「これまでに書いてきたものが変わる」と言ってたのは、これまでの路線と違うところに行き着くという意味もあり、出家に至ることを仄めかす小説的な伏線であったといえるでしょう

 


120分で人生を少しだけ良くするヒント

 

個人的には瀬戸内寂聴の書籍は読んだことがなく、「子宮作家」と呼ばれていることもウィキで知るくらいでした

本屋で勤務していたこともあり、瀬戸内晴美時代からの書籍を含めて、随分と多作な作家なのだなあと思うくらいで、特段の興味はなかったというのが本当のところです

イメージとしては「坊主頭の老齢のお坊さん」というもので、今回の「出家の理由」を描く映画というのは、当初はそれほど興味が湧かなかったのですね

でも、予告編で寺島しのぶさんが演じて、相手役が豊川悦司さんでしたから、相当ヤバい話なのかなと思っていました

 

映画について調べていると、原作者は登場人物の家族らしいということがわかり、荒野さんは当初男性だと勘違いしていました

でも、井上光晴の娘ということもあり、「娘から見た父の不倫」というのはかなり興味が湧きましたね

それが虚実交えて小説になり、映画化に至るのですから、天国の両親はどんな気持ちなんだろうかと思ってしまいます

原作が出版された時に瀬戸内寂聴のみが存命で、彼女が小説の帯を書いていて、その文言が映画のチラシにも書かれていました

「作家の父、井上光晴と、私の不倫が始まった時、作者は五歳だった」というものですが、この一文でガッツリと事実認定をする当事者というのはすごいことだなあと思ってしまいます

 

作品のタイトルは『あちらにいる鬼』で、「あちら」とは鬼籍(亡くなった人の生年月日を記す帳面)のある地獄という意味になると思いますが、単純に「娘から見たよくわからない大人の特殊な世界」とも言えます

「鬼」は単純に地獄に堕ちた人という意味だと娘目線だと結構ヘビーですが、これは「主要人物から見た他の人物に対する目線」という意味合いは大きいでしょう

笙子から見たみはる、みはるから見た笙子、そして、篤郎から見た笙子とみはる

さらには「娘から見た三人」というのは、「鬼」であるということなんだと思います

 

「鬼」というのは「人間に危害を加える想像上の怪物」のことですが、この作品内では「鬼を退治するものがいない」という絶望的な世界でもありました

最終的に「鬼が自分自身を縛るために出家する」というすごいことになっていて、鬼が鬼であると自覚しているようにも思えてきます

この一連の行動が一般的には理解し難いものですが、みはる、篤郎、笙子の三人だけは、この行動理念を理解していたのだと思います

 

作家の母ということで笙子がまともな人物に見えるように描かれていますが、実際には一番の鬼は彼女だったと思います

前半にサラッと語られる「光晴のゴースト発言」では、自分の内面のドロドロとしたものを「光晴の名前で書くことで昇華させる」という趣旨のセリフがありました

この頃の篤郎の作品のどこまでが彼女の思想の影響下にあるのかはわかりませんが、みはると出会う少し前からの彼の作風は笙子の影響下にあったという意味になります

作家人生は半分笙子に乗っ取られていて、それらからの退避行動が篤郎の女性関係を産んできたようにも思えてきます

 

そうした先に出会ったみはるという女性は、笙子にとっての最大の難敵で、水面下のバトルはものすごいものがありました

わかっていても知らないふりをし続ける笙子、その笙子の意志を受け取ったかのように家庭には一切立ち入らずに世間体も壊さないみはる

そうして、その関係性の中でさらに凝縮されていく笙子の思想が光晴の作品として世の中に出ていく

死の際においてみはるを彼のそばに呼び、二人が手を取り合っている瞬間に二人を見る笙子はまさに「鬼」だったと言えます

 

そうして、みはるは最後は「篤郎を家庭に戻す」ために、その手を笙子に握らせています

これまでの関係性でみはるがそうすることを笙子は知っていて、そのためにみはるを呼んでいるとも思えるので、最終的に「家庭を捨てられない篤郎」という人物を見透かした上での行動だったのだと思います

この辺りのどこまでが創作かはわかりませんが、娘から見た母は「こうしただろうというふうに考えていた」ようにも思えるので、やはり一番の鬼は笙子だったのかな(娘目線)と思いました

ぶっちゃけると女の人って怖いなあというところがありますが、この辺りの怖さをきちんと表現できているので、ある程度の年齢層より上ならば、この映画の本質に驚愕できたのではないかと感じました

 


■関連リンク

Yahoo!映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)

https://movies.yahoo.co.jp/movie/382481/review/bed7041b-dc08-4664-8753-59a97c9acd07/

 

公式HP:

https://happinet-phantom.com/achira-oni/

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投稿者 Hiroshi_Takata

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