■自分自身の中にある大切なものは、自分の外に出て初めて認知されるのかもしれない


■オススメ度

 

哲学的な作品が好きな人(★★★★)

 


■公式予告編

鑑賞日:2022.10.27(TOHOシネマズ二条)


■映画情報

 

原題:After Yang

情報:2021年、アメリカ、96分、G

ジャンル:動かなくなったシッターロボットに隠された秘密を知る家族の物語

 

監督&脚本:コゴナダ

原作:アレクサンダー・ワインスタイン『Saying Goodbye to Yang(2016年)』

 

キャスト:

コリン・ファレル/Colin Farrell(ジェイク:茶葉園を営む男性)

ジョディ・ターナー=スミス/Jodie Turner–Smith(カイラ:ジェイクの妻)

マレア・エマ・チャンドラウィジャヤ/Malea Emma Tjandrawidjaja(ミカ:ジェイクの養女)

 

ジャスティン・H・ミン/Justin H.Min(ヤン:ベビーシッターのロボット、テクノ・サピエンス)

HeleyLu Richardson(エイダ:ヤンのメモリーにある謎の女性)

Deborah Hedwall(ナンシー:ヤンの前の所有者)

 

リッチー・コスター/Richie Coster(ラス:ジョージの友人、整備工)

サリタ・チョウドリー/Sarita Choudhury(クレオ:テクノ・サピエンス博物館のキュレーター)

 

クリフトン・コリンズ・ Jr/Clifton Collins Jr(ジョージ:ジェイクの隣人)

Ava CeMary(ヴィッキー:ジョージの妻か恋人)

Adeline Kerns(ジョージの娘)

Ansley Kerns(ジョージの娘)

 

BrettDier/ブレット・ダイアー(アーロン:中古屋の販売員)

Orlagh Cassidy(リリアン:抹茶を買いにくる女性)

 

Eve Lindley(フェイ:カフェのウェイトレス)

Nana Mensan(ニコ:カフェのオーナー)

 

Julie Chateauvert(ヤンの記憶にある老女)

Jae Kim(ヤンの記憶にいる男性)

Taylor Prtega(ヤンの記憶にいる女性)

 


■映画の舞台

 

アメリカ:ニューヨーク

 

ロケ地:

ニューヨーク

 


■簡単なあらすじ

 

ニューヨークで高級茶葉店を営むジェイクのは妻カイラ、養女ミカと慎ましく暮らし、ベビシッターロボットであるテクノのヤンとも家族のように接していた

ある日、ヤンが故障し、動かなくなってしまう

 

ジェイクは隣人のジョージからいくつかの修理店を紹介してもらったが、購買元の店主ですら治せないという

そこでジョージから紹介された修理工のところにヤンを運び込むと、ヤンの中に記録デバイスがあることがわかった

 

ジェイクはそれをテクノ・サピエンスの専門家のもとに持ち寄って分析を依頼する

その中には、これまでにヤンが見てきた断片的なものが記録されていて、その中には見知らぬ女性が多く映っていたことを知るのである

 

テーマ:人間とロボットの境界線

裏テーマ:ロボットは人間になりたがるか?

 


■ひとこと感想

 

哲学的な雰囲気が凄く、坂本龍一さんの音楽も相まって、寝不足で行ったら確実に寝るタイプの映画でしたね

緩やかな音楽と、光彩の激しい映像、暗いシーンも多く、セリフは観念的で難しいものが多い

そんな中、眠気覚ましのノーズミントを鼻に挿しながら鑑賞してきました

 

映画はロボットが停止して、その記憶を辿る中で、人間とロボットの違いについて考えていくという流れになっていました

謎の女性の存在理由とか、ヤンがなぜ彼女と関わってきたのかがミステリーになっていて、それが後半になって明かされていきます

 

とにかく時間の流れがゆっくりとしているので、体感時間が長く、無言のシーンも多かったですね

哲学的というよりは観念的で、集中して観ていても「意味がわからん」となってもおかしくないと思います

 


↓ここからネタバレ↓

ネタバレしたくない人は読むのをやめてね


ネタバレ感想

 

ヤンの記憶媒体の女性がクローンというあたりで脳みそがパーンとなりそうになり、意識が飛びそうになりながらなんとか完走しました

人間とロボットとクローンが出てくる内容で、印象的だったのは「ロボットは人間になりたがるだろうか?」という問いかけですね

 

ロボットにはプログラムが仕込まれていて、そのプログラムによって動くので、「ロボットが人間になりたがっている」というのは人間の思い込みに過ぎません

それに対するヤンの語り掛けで、「人間は幸せになるようにプログラムされている」というセリフも印象的だったと思います

 

映画は何度か観ないとわからない感じに思え、テクノと呼ばれるロボットがどういったものかというところが後半でわかってきます

ヤンの記憶媒体の中にオリジナルのヤンがいたようで、その時代の恋人がエイダのオリジナルなのかなと思わせます

人間とクローンとテクノ・サピエンス(ロボット)の関係性において、それぞれがそれぞれを見る視点というのが違っていたように思えました

 


人間っぽい3つの生体

 

映画の後半にて、「ヤン(ロボット)は人間になりたがっていたか?」という趣旨の会話がありました

そのジェイクの問いかけに対し、クローンのエイダは「それは人間が思っていること」というふうに答えています

「人間であることはそれほど素晴らしいことなのか?」とエイダに聞かれていて、他の存在が人間になりたがっていることはエゴに過ぎないと言われています

ヤンは常に「ミカのアイデンティティの醸成の手助けをしよう」と考えていて、「中国人とは何か」について学ぼうとしていました

エイダと会っていたのもそれが理由になっていて、ヤンに恋愛感情があったのかと疑問を持ったジェイクはそれが勘違いだと知らされます

 

映画には人間、ロボット、クローンの三つの「人間の形をした生物」が登場します

人間が人間であることの本質は「ルーツ」があることで、二つの異なる遺伝子が絡み合って子孫を作り出すという特性があります

その際に異文化の交流が家族単位で起こることになり、新しい価値観とそのルーツを生み出していくことになります

 

ロボットは、この映画の世界では「テクノ・サピエンス」と呼ばれていて、動力が失われると「朽ちていく」ものだとされています

感覚的には「人間のクローンにプログラムを組み込んだもの」という感じになっていて、個人的には「オリジナルのヤンのクローン」に「テクノ技術が施された」のかなと思っていました

最後のヤンに残っている記憶に「ヤンらしき人物(おそらくは兄弟?)」がヤンの記憶に残っていて、ヤン自身は朽ちることなく三世代の人生を眺めている存在でした

 

クローンは失われたものを再生しているので、エイダのオリジナルが何らかの事情によって(事故だったかな?)死んだ後に複製されたものと推測されます

クローンが年齢を重ねるのかはわかりませんが、劇中で老いていく女性はエイダの母のようにも見えます

これら一連のシーンは現在のテクノ・ヤンの記憶媒体に残っているもので、時折ヤンが自分の鏡を見ているシーンがありました

 

個人的な感覚だと、クローンになった段階ではまだ成長があって、ロボットの段階になってそれが止まるのかなと思って見ていました

クローンは作り出した時のオリジナルのコピーであり、その段階では細胞は分裂をすると思うのですね

でも、鏡に映るヤンは100年近く経ってもその身体的変化は見られません

一度だけ、鏡に映るヤンの髪が伸びたショットがあったのですが(女装っぽいのも含めると2回)、その時点ではまだロボット化していなかったのか、成長を止める技術が確立していなかったのかのどちらかなのかなと思いました

 


鏡に映った自分は何者か

 

ヤンは何度も鏡を見ていて、それは自分の認知ではなく、他の人との違いであるとか、成長であるとか、性別などの人間の根幹部分への興味などによって行われているように思えました

彼が鏡を見ることで、観客はこの映像がヤンの記憶なんだと再確認するのですが、長い髪の毛のヤンがいたり、後ろ髪の長いヤンがいたり、2つ前の記憶では今と変わらぬ姿をしていたりと色々あったと思います

人が鏡を見るとき、ほとんどの場合は身だしなみのチェックだったりします

まれに鏡に向かって問いかける人もいますが、それは自分自身の認知がうまくいっていない時なのかなと思います

 

有名な心理実験で、「鏡に向かって『お前は誰だ』と問いかける」というものがあります

「やってはいけない雑学」でよく聞くもので、この問いかけをすると「自分が何者かわからなくなって、精神的に異常をきたす」と言われています

某掲示板が発祥であるとか、ナチスの実験だなんてものかググれば出てきますが、その行為の根幹は「自分を客観視することで、自己認知との乖離に気づく」というものではないかと思います

そして、「その乖離に対してどう反応するか」によって、精神に異常をきたすような人もいれば、観察力が増したという人もいると言った具合なのだと思います

 

映画のヤンがどのような問いかけをしていたのかはわかりませんが、彼は単純に「成長しない自分」と「成長する人間」というものの違いについて興味を持ったのだと思います

そして、それによって、「人間とは老いるものだ」というあたり前のような概念がヤンに突きつけられます

目の前で世話していた子どもが成長して大人になり、そして子どもを産んだ母親は老いて死んでいく

それと同時に、エイダのように不慮の出来事で亡くなってしまう人もいる

一つの家族を見ていくことで、ヤンは人間とは何かについて学んでいき、それがジェイクが最後に見た彼の記録なのだと思います

 

鏡に向かったヤンは動作をほとんどせずに、ただ自分を見つめているだけでした

これに呼応するのがジェイクとの中国茶談義で、ヤンはそこで「中国茶を入れるジェイクの所作が好きだ」と言います

また、この際にジェイクは「お茶に興味を持った理由」を聞かれ、ドイツの友人の話をヤンにしました

ヤンは目の前にいるジェイクの精神的なルーツの一つを知ることになっていて、それもミカのアイデンティティの醸成に役立つものだったと言えます

 

また、カイラとの記憶では、蝶の話になって、全く別の個体に変わることを始まりだ、というふうな趣旨の会話を重ねていきます

カイラは昆虫採集が趣味なのですが、これは「死でありながら死ではない」という概念に似ていて、ヤンの視点で言えば「他の生命に対する優越感を美に置き換えている行動」に見えるのかなと思います

これはヤンからすれば、人間の負の部分であり、ジェイクとは対になるものでしょう

ジェイクのお茶は大地の全てが凝縮されたもので、その命というものを体内に取り込んで同化します

でも、カイラの標本は自分の体の一部にはなりません

ある意味、精神的なものとして取り込まれるものではありますが、精神的な成長のために他の生体の生殺与奪をするという狂気というものをどう受け止めるかというところで、ヤンはカイラとの違いを感じていたのではないでしょうか

 

これら色んな人間を見ていくことで、ヤン自身は自分との違いを認知し、その違いこそが「人間たるもの」なのですが、ここで「クローンのエイダとの会話を重ねること」でさらにブラッシュアップされていたのかなと思いました

そうした思考の累積がミカに与えられる情操教育になっていて、特にヤンは中国にルーツを持つミカに対して、ルーツの必要性というものを伝達しようと考えていたのかなと感じました

 


120分で人生を少しだけ良くするヒント

 

映画はもの凄く静かな流れの中で、淡々と「ヤン去し後」を描いていきます

ジェイクは「ヤンの目線で家族を知る」のですが、これは「家族のプライバシーを覗き見している」ことと同意です

なので、彼はその罪悪感から「ドキュメンタリーだ」と苦し紛れの説明をミカにしていました

 

カイラも一度だけその記憶を覗き見していましたが、そのシーンで見たのは「彼女とヤンのやりとりだけ」でしたね

その後、ジェイクは権限を強化させて、すべての映像にアクセスすることになっていました

 

ヤンは生身の人と出会い、体験を共有したり、思考を深めていきますが、ジェイクは記録を通じて家族を知るという行動になっていきます

でも、そこにあったものが全てではなく、ヤンの選択もしくはプログラムによって記録された瞬間的な映像だったのですね

これは、人間が他人に全てを曝け出さないことに似ていて、他人の認知というものは表層的に全てを見てもわからないというところに通じていくのかなと思いました

その人の人生を全て見ていても、その人を理解することはできません

また、そこで見ているものは、見ている人が潜在的に見たいと思っているものと同じなのだと思います

 

ヤンの記録がどのような意図によるものかは描かれていませんが、おそらくは根底にある「ミカを手助けする」というものから派生するものでしょう

なので、ジェイクとのお茶のやりとりとカイラとの標本のやりとりは「育ての親である二人の価値観」をミカに伝えるための補足のようなものになっているのだと思います

また、ヤンはミカとの関わりの中で、直系ではない家族の在り方というものを学んでいて、自分自身が家族の一員であったことを理解していったのだと言えます

一つ前の所有者ナンシーとの記憶は5日程度しかなく、それは映画では圧縮されて描かれていません

でも、その一つ前の記憶が観客に提示されているのは、今の家族構成と対になっている家族だからであると推測できます

 

血縁家族だったオリジナルのエイダたちの家族と、養子を迎え入れたジェイクたちの家族は、社会的な単位としては同じ家族になりますがどこか違うのだと思います

それは、血縁以外を家族として迎え入れた先にある、家族という概念の変化なのでしょう

ヤンがどのように感じていたかはわかりませんが、ミカは「兄」だと認識し、ジェイクとカイラも家族として認識しています

そして、その認識が「喪失」とともに起こるというのが人間的な部分なのかなと感じました

 

本作は人間とは何かを描いているのだと思いますが、それを一言で表すなら、「自分自身を形成する多くの部分は、喪失への恐怖によって成り立っている」ということになるのかなと思います

かなり観念的で、ちゃんと言い表せているかはわからないのですが、ジェイクが権限を強化させてまで見たかったものというのは、現在の彼がロスしていると感じている家族観だったのかなと感じました

ある意味、ヤンの喪失で一番傷ついたのは、ジェイク自身だったのかもしれませんね

 


■関連リンク

Yahoo!映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)

https://movies.yahoo.co.jp/movie/384141/review/38889666-5987-4ed9-95e1-c3ac7fefe2bc/

 

公式HP:

https://www.after-yang.jp/

アバター

投稿者 Hiroshi_Takata

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA