■音による名刺を作れるアーティストは、古参のファンと新規のファンに支持されやすいのではないでしょうか
Contents
■オススメ度
JO1の河西拓実のファンの人(★★★)
音楽青春映画が好きな人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2024.5.4(イオンシネマ京都桂川)
■映画情報
情報:2024年、日本、119分、G
ジャンル:音楽が生まれ進化する中で生まれる葛藤を描いた音楽映画
監督:風間太樹
脚本:谷口恒平&沖野浩孝&風間太樹
原作:むつき潤『バジーノイズ(小学館)』
Amazon Link(原作コミック)→ https://amzn.to/3Ur3Bs6
キャスト:
川西拓実(海野清澄:DTMが趣味のマンション管理人)
桜田ひより(岸本潮:清澄のマンションの上の階の住人)
井之脇海(速水航太郎:潮の同級生、レコード会社の社員)
柳俊太郎(大浜陸:清澄の軽音楽部の先輩、マザーズデイのベース)
天野はな(千尋:陸の彼女)
円井わん(内海岬:ソロアーティスト、ドラマー)
テイ龍進(沖:レコード会社のプロデューサー)
夏目知幸(尾崎:レコード会社のアレンジャー)
奥野瑛太(洋介:マザーズデイのボーカル)
柳谷一成(遠藤:マザーズデイのドラマー)
𠮷田カルロス(マザーズディのギター)
木村寧臣(マザーズディのサポートベーシスト)
駒井蓮(辻井凪:若手のアーティスト)
櫻井海音(慶二:アンクヘッドのボーカル&ギター)
田中偉登(アンクヘッドのメンバー)
大友一生(アンクヘッドのメンバー)
馬場園梓(スナック「歩M」のママ)
左津川愛美(亜弓:潮のバイト先の店長)
𠮷田ウーロン太(清掃会社の責任者)
吉岡睦雄(スナックの客)
堀春菜(マザーズディの古参のファン)
東宮綾音(海辺のカップル)
齋藤友暁(海辺のカップル)
島村苑香(潮の先輩社員)
佐藤慎之介(凪のライヴのベーシスト)
岡本啓佑(凪のライヴのドラマー)
福岡丈明(凪のライヴのギタリスト)
太田旭紀(?)
吉澤憲(?)
安達真由(?)
金城裕一(?)
池添康子(?)
■映画の舞台
東京都内のどこか
ロケ地:
東京都:杉並区
G-Roks
https://maps.app.goo.gl/oGcWjbf3b3SWi67j7?g_st=ic
スペースクリエイト自由空間 SELF 高円寺店
https://maps.app.goo.gl/S3ersshyGPZHDJRu8?g_st=ic
東京都:渋谷区
LIVE STUDIO UNIT DAIKANYAMA
https://maps.app.goo.gl/BD5MKEwZkkj1fVhm8?g_st=ic
Studio Tanta
https://maps.app.goo.gl/fibfifoshT97jz5X8?g_st=ic
東京都:世田谷区
炭火焼鳥や 三日月ロック
https://maps.app.goo.gl/gBVqkR1KAZvcpxMF9?g_st=ic
Mother‘s RUIN
https://maps.app.goo.gl/PyCRcEKJWivqJV14A?g_st=ic
茄子おやじ
https://maps.app.goo.gl/EhFkESjDTeaew6dW9?g_st=ic
東京都:中野区
鶏と魚と炭火焼き 燈
https://maps.app.goo.gl/jaaYbV6roHu5JCw26?g_st=ic
神奈川県:横浜市
カラオケスナック STAR J
https://maps.app.goo.gl/hw2c6NHJSNQ7x92p9?g_st=ic
■簡単なあらすじ
マンションの管理人として働いている清澄は、DTMで音楽を作るのが趣味で、頭の中にあるイメージを音に変えてきた
ある日、マンションの住人の潮から「私の下の階に住んでいる人は誰?」と聞かれる
清澄は自分だとは言えず濁したが、彼が鳴らす音楽は近隣住民から「騒音」だと思われていた
その夜、潮は清澄の部屋を訪れ、自分が騒音の主だとバレてしまう
だが、潮は清澄の音楽が好きだと言い、失恋して落ち込んでいるから聴かせてほしいという
だが、「次に苦情が来たら追い出す」と言われている清澄は戸惑い、それでも潮のために音楽を鳴らした
清澄はマンションを追われ、ネットカフェで過ごそうと考えるものの、潮が勝手に上げた清澄の演奏動画がバズり、そこで潮は彼を自分の部屋に住まわせて、自由に音楽をさせてあげたいと言う
勢いに負けて潮の部屋に世話になって
、音楽制作は海辺で行うことになった清澄だったが、徐々に彼の音楽は世間に認知されていく
そして、潮は幼馴染でレコード解消で働いている航太郎を捕まえ、さらにかつて一緒にバンドを組んでいた陸も彼の元にやってきてしまう
彼らの音楽は「AZUR」と言うユニットで配信されることになったが、その動きを察知した音楽プロデューサーの沖が彼らの前に立ちはだかることになったのである
テーマ:音を楽しむことの意味
裏テーマ:活動の原点
■ひとこと感想
音楽制作にYaffle、主題歌の歌詞がいしわたり淳治ということで、期待値マックスで鑑賞
JO1はそこまで詳しくはありませんが、楽曲制作過程をSNSで上げていたグループだったという記憶があります
音楽映画は大好きで、楽曲が出来上がる過程を見られるのが良いですね
本作は、その過程も描かれますが、その原点とは何かというところに行き着いているのが良いと思います
主人公の清澄は「日常に起きること」が脳内にイメージとして降りてくるタイプで、潮と過ごしてからは、彼女の挙動がイメージとして降りてくるようになっていました
楽曲はDTMで制作して、そこに「生の音が欲しい」という感じで、それによって徐々に音が命を帯びていく様子が描かれていました
清澄を表舞台に出せても、音楽ができない潮は疎外感を感じてしまうのですね
でも、最初のファンの存在感は大きくて、それが活動の原点になっていたりします
映画では、そのすれ違いを描いているのですが、インスピレーションとは何かということを描いていたようにも思えました
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
音楽にしろ、共通言語で話せる相手は重要で、そこに加われる人と加われない人というのはいると思います
でも、共通言語を使えない人が役に立たないかと言えばそういうこともなく、そういった人は「共通言語の元になるもの」を生み出しているとも言えます
清澄と潮の関係はまさにそれで、清澄の中では生まれない音というものを潮は生み出すことができます
音楽はその人の経験値によって生まれ、多彩性を持たせるためにいろんな音楽を聴いて吸収することがあります
それらの素養がいつか結びつき、それが新しいものが生まれる可能性というものを広げていきます
映画は、音を楽しんでいるのかという根源的なものを問いかけていて、求められるものを作ることと、やりたい音楽を両立させることの難しさというものが描かれていました
音楽プロデューサーの沖が言っていることも理に適っていて、幾千もの才能の中から生まれるものに対して、どのような犠牲を払うのかというのがあるのですね
でも、彼が清澄を追いかけないのは、清澄と潮から生まれる音楽の可能性というものをこれからも聴きたかったのかな、と思いました
■音楽はどうやって生まれるか
映画は、色んなものからインスピレーションを受けた清澄が、頭の中に出来上がったものをアウトプットしていく様子が描かれていました
黒い背景にノイズのような波紋が浮かんでは消えていく演出があって、あのイメージを音楽にしているということになります
実際に作曲をしたことはないのでなんとも言えない部分はありますが、絶対音感がない人間からすれば「言葉に宿る音感」というものが楽譜に乗るというイメージなのかなと感じています
ただ清澄は「音が先に出来上がるタイプ」で、詩はその音程に合わせて後付けで作るという作曲方法になっていました
音楽番組などで、アーティストが「曲先か詞先かどちらで作るのか」という質問をされていて、明確に答えられる人もいれば、どちらでもないという答え方をするアーティストもいます
曲先の人もリズムから作る人もいればメロディから作る人もいるわけで、清澄がそのパターンなのかは明確には描かれていないように思えました
彼が岬に作った楽曲にて、アレンジャーの尾崎が「リズムが独特」で「アルバムのコンセプトに沿うアレンジをした」という評価をしていていました
清澄の楽曲における特異性というのはリズムパターンにあるような印象があり、それを変えることなく、音を重ねたり削ったりすることで、楽曲の印象を統一させていたのかなと感じました
個人的には、ボタン押したらコードが鳴る機械とか、スタインバーグのソフトとか、UR22Cなどがパソコンの周りにあるのですが、独学ではあまりにもハードルが高い印象がありました
基本的には詞先で作るタイプだと思っていて、大学時代には「歌詞を作る練習」として、既存の楽曲に歌詞を当てはめるという修行をした経験があります
200曲分ぐらいは言葉を音にハメるということができましたが、楽曲の世界観に引きずられて言葉が近くなってしまったり、200曲作っても根本は数曲の派生みたいなことになっていましたね
今では、頭の中にだけできている小説に登場する楽曲などを作ってはいますが、浮かんだ歌詞にメロディーをつけて、鼻歌みたいに歌って録音する、というところが限度だったりします
時間を作って本格的にやってはみたいものの、なかなかモチベーションが上がらないのが辛いところではありますね
■潮の功罪
潮は音楽に関しては素人で、リスナーとして自分に心地の良い音楽を求めている人でした
これは多くのリスナーの共通するもので、歌詞や楽曲などの何か表現できない部分が「刺さる」というもので、それは「その時の本人の状況」というものが大きく左右することになります
潮は恋愛時も失恋時も清澄の楽曲に癒されている存在で、彼が作り出すグルーヴそのものを心地よいと感じています
このような趣味趣向は言葉で表すのはとても難しく、それでも「サブスクなどのプレイリストの偏り」などが自然と行われていて、それが言語化の代わりをしているようにも思えます
潮は清澄の音楽を愛していて、それを多くの人に聞いてほしいと望んでいます
いわゆる発見者としての機能があるのですが、同時に「発見当時のままではいられない」というジレンマの入り口にもなっています
清澄の音楽は多くの人との関わりの中で進化し、彼自身が言語化できない良さというものを音で語り合って昇華させていきます
この過程は音楽で会話できる人同士でしか成り立たず、そのステージに入ると潮の役割というものは終わってしまいます
同じ楽曲でも、アレンジなどによって徐々に変化し、それを進化だと捉える制作者とそうではないリスナーというものが存在します
この溝はなかなか埋まらないもので、同じアーティストが過去に出した楽曲を再録音してアレンジしたものがリスナーに刺さらないということも起こります
これは、その楽曲が生まれ、人に刺さった背景というものを織り込めないことが原因で、リスナーは「その時の感情を再確認するために」音楽にふれている部分があるからなのですね
なので、新しい技術やアイデアが浮かんで、それを既存の楽曲に落とし込んでも、同じようにバズらない理由になっています
このようなアイデアを盛り込む場合は、既存の楽曲とは別の楽曲を作るというぐらいの振り幅が必要で、さらに歌う人も変わっている場合はうまくいく傾向があるように思います
いわゆるカバーと呼ばれるもので、古今東西様々な楽曲が「実は本歌があった」という驚きがあったりします
それらは海を超えて、その国のアイデンティティが盛り込まれた変化を遂げていくのですが、それが逆輸入されてバズるのかは何とも言えない部分があります
潮のような発見者的な立場の古参のファンというのは、芽が出る前にもがいているアーティストそのものの「光を帯びている楽曲」を好んでいるので、アーティストの進化とともに離れていく人もいると思います
これは世に出るきっかけを与える功績と、アーティスト自身の進化による弊害の中で板挟みになっている状態なのですが、楽曲そのものだけが刺さっている状態だと、離れてしまうのはやむを得ないのかもしれません
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
映画は、ノイズとして捉えられがちなものが、誰かにとっての大切な音であるという起点が存在します
街角から音楽が消えて久しく、路上でライブをしている姿もあまり見かけなくなってしまいました
これは、聞きたくもないものを聞かされるという状況を産んでしまっているので、多くの人にとってのノイズの発生というものを許容できる時代ではなくなっているとも言えるでしょう
今では、音楽は個々の趣向によって、個人とアーティストの中で関係性が紡がれるものになっていて、その趣向が広義に共有されることは少なくなりました
音楽番組などでもランキングが発表されていますが、これらは再生数などが基礎になっています
今ではサブスクの時代で、好きな楽曲を何度でも聴くという趣向が多いように思います
個人的にもdヒッツにて毎月10曲ずつ気になる楽曲をリストに加えていきますが、聴いている楽曲にはかなりの偏りがありますね
目的が聴くよりは歌うという方向になっているので、「自分が歌いたい曲」のリピートがすごく多くなっていて、それゆえに偏りが出るのは無理もないと思います
音楽のヒットチャートもそれらの個々の趣向が凝縮されたものになっていて、SNSを中心とした「踊ってみた」「歌ってみた」などの練習のための鬼再生曲が上位を占めたり、SNSなどの音源に使用されやすいものがバズってランキングに入ったりしています
音楽を街角で聴くことがなくなっても、SNSなどの使用楽曲として流れる頻度は高くなっていて、それはテレビCMなどよりも効果的であると考えられます
映画内でも、プロデューサーの沖は「SNSで部分的にバズらせてからリリースする」という手法論を語っていて、今では「SNSに登場する素人風のアーティスト」は「プロモーションをしているデビュー前のアーティスト」である可能性が高いように思えます
映画は、これらの現代の音楽の在り方を少しだけ取り込んでいて、楽曲制作に関わる方法、バズる方法、置き去りにされるものなどが展開していきます
実際に音楽に携わっている人の方が共感力が高く、聞き手としては潮の寂しさというものが理解できるという感じに描かれていました
二人の関係は恋愛には発展しないのですが、ひと昔前の創作なら、確実に付き合ってしまうような流れになっています
でも、最後まで恋愛感情が抜きにして語られていて、それが潮が恋したのは清澄本人ではなく楽曲である、というところを貫いているからなのでしょう
これはマザーズディのボーカリスト洋介が語っていたことを同じで、「自分を発見し支持し続けているファン」というのは、メンバーの一人のあるとも言えるのだと思います
そう言った古参のファンの支持を保ちながら新しい音楽を探ることはとても難しいのですが、それは楽曲を愛してもらって、その背景を愛してもらえるようになれば良いのだと思います
長く活動を続けているアーティストには固定のファンがたくさんいて、それは「その人がやる音楽の全てを肯定する」という側面があります
これが楽曲との恋愛から、アーティストとの恋愛に発展している例であるとも言えるので、そのようなアーティストが残すものは新しくはあるけれど「名刺のようなもの」が刻まれているのですね
この名刺を武器にできるアーティストこそが、のちの世にも受け継がれる可能性を秘めているのかな、と感じました
■関連リンク
映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
https://eiga.com/movie/99670/review/03780094/
公式HP:
https://gaga.ne.jp/buzzynoise_movie/