■劇中映画の欠落部分は、瞳を閉じることによって脳内補完されるものなのかもしれません
Contents
■オススメ度
監督のファンの人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2024.2.21(京都シネマ)
■映画情報
原題:Cerrar los ojos、英題:Close Your Eyes
情報:2023年、スペイン、169分、G
ジャンル:失踪した俳優を探す映画監督を描いたヒューマンドラマ
監督:ビクトル・エリセ
脚本:ビクトル・エリセ&ミシェル・ガスタンビデ
キャスト:
マノロ・ソロ/Manolo Solo(ミゲル・ガライ:お蔵入りになった映画を撮った映画監督)
ホセ・コロナド/Jose Coronado(ガルデル/フリオ・アレナス:失踪した俳優)
アナ・トレント/Ana Torrent(アナ・アレナス:フリオの娘、美術館のキュレーター)
ペトラ・マルティネス/Petra Martínez(シスター・コンスエロ:フリオと思われる男のいる介護施設の施設長)
マリア・レオン/María León(ベレン・グラナドス:フリオを担当する介護士)
ファン・マルガージョ/Juan Margallo(ドクター・ベナビデス:フリオの主治医)
Ana María(シスター・ルシア:介護施設の修道女)
マリオ・パルド/Mario Pardo(マックス・ロカ:映画の編集者、ミゲルの親友)
ソレダ・ビジャミル/Soledad Villamil(ロラ・サン・ロマン:ミゲルの元恋人)
エレナ・ミケル/Helena Miquel(マルタ・ソリアーノ:「未解決事件」の番組のプロデューサー)
アントニオ・デチェント/Antonio Dechent(ティコ・ソレル:「未解決事件」に出演する記者)
María Veloso(テレビ局の赤い髪の女)
ホセ・マリア・ポウ/Josep Maria Pou(フェラン・ソレル/ミスター・レヴィ:「別れのまなざし」の役者)
Kao Chenmin(リン・ユー:「別れのまなざし」の役者、レヴィの付き人)
Venecia Franco(チャオ・シュー/ジュディス:「別れのまなざし」の役者、レヴィが探す少女)
ホセ・コロナド/Jose Coronado(フランク:「別れのまなざし」の役者、レヴィの少女探しを依頼される男)
Dani Téllez(トニ:ミゲルの犬を預かる隣人)
Alejandro Caballero Ramis(ペイトン:トニの父、ミゲルの友人)
Rocío Molina(テレサ:トニの妻)
José Manuel Mansilla(ドン・ラファエル:「別れのまなざし」を上映する映画館の管理人)
■映画の舞台
2012年&1990年代
スペイン:
ロケ地:
スペイン:アンダルシア
カステル・デ・フェロ/Castell de Ferro
https://maps.app.goo.gl/KvKKRz96tcxdh5UN8?g_st=ic
アルメリア/Almería
https://maps.app.goo.gl/X3wMqDfpQD66u7MP9?g_st=ic
アグアドリュセ/Aquadulce
https://maps.app.goo.gl/ti1jrjiEwNwq17EfA?g_st=ic
■簡単なあらすじ
1990年代に映画「別れのまなざし」を撮っていた映画監督のミゲルは、俳優フリオの失踪によってお蔵入りになっていた
時を経た2012年、フリオはテレビ番組「未解決事件」からオファーを受け、失踪した俳優フリオを探す企画に関わる事になった
ミゲルはお蔵入りになったフィルムを管理している友人マックスを訪ね、若かりし日の自分とフリオを目の当たりにする
ある日、街角にて自分のサインが入った本を見つけたミゲルは、その本を贈った元恋人ロサのことを思い出す
ロサは売った覚えはないというものの、彼女はフリオの元恋人でも遭った
やがて、テレビ局はフリオに娘がいることも見つけ出し、出演のオファーをするも断られたと言ってきた
そこでミゲルはフリオの娘アナと会い、今何が起きているかを話していく
番組はアナ抜きで行われて完成するものの、ミゲルは数十秒観ただけで番組を観るのをやめてしまった
だが、その放送は思わぬ情報を呼び寄せる事になったのである
テーマ:捜され人の人生
裏テーマ:真実は暗闇の中に
■ひとこと感想
監督の熱烈なファン向けの映画だったようで、かなりの高齢の方々に囲まれて鑑賞することになりました
ほぼ満席に近い状態になっていて、どんな話題作なんだろうと思ってしまいました
映画は、失踪した俳優を見つける中で、自分の人生と向き合うという感じになっていますが、監督自身が今何をしているのかはよくわからない感じになっていました
おそらくは地方で自給自足のような生活をしていて、隠居していたのだと思われます
犬を飼っているようで、追跡番組の中に監督が出た時にキョロキョロしていたのは可愛かったですね
物語はとてもシンプルですが、やはり長いなあと感じてしまいますね
ゆったりと映画館でくつろぐというのなら良いのですが、ミニシアターでほぼ満席で、隣の人に気を使いながらという環境は思った以上に疲労感がありましたね
隣の人、早々に爆睡していたけど、意味わかって劇場を去ったのかは何とも言えない感じでしたねえ
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
個人的には監督への思い入れはないのですが、現在進行形で公開されているものは大体観るようにしています
本作の場合も、「失踪した俳優を探す映画監督」という設定が面白そうで、映画が未完成になった瞬間を想像してしまい、見つけたらどうするんだろうと考えてしまいました
映画はそのような方向性ではなく、30年近く経っているので、未完成への遺恨というものは無くなっていましたね
むしろ、無事に生きていてくれて良かったと思う反面、相手が自分を認知しない寂しさが際立っていました
しかも、自分がスクリーンにいるのに他人に見えるというところも、アクシデントの影響の大きさを物語っていました
娘との再会でも何も動かず、ただ目を閉じた時だけ、瞼に在りし日が映り込むのかな、と思ったりもします
映画は、実に淡々とした流れになっていて、長回しも多くスローテンポでしたね
忙しい展開の映画に慣れていると間延び感がすごいのですが、鑑賞年齢層には合っているのかな、と感じました
■時を経た再会に意味はあるか
本作は、約30年ぶりの再会を描いていますが、相手は何らかの理由で完全に記憶が欠落している状態になっていました
認知症によるものか、怪我などが原因で記憶喪失になっているのか分かりませんが、何を見ても聞いても反応していない様子が伺えます
映画の撮影中に突如消えたというエピソードを考えると、何らかの事故に巻き込まれたなどの外的要因がクローズアップされますが、精神的なものが理由で離脱し、その後認知症などを発症した、ということも考えられます
そんな彼との再会は、残酷なもののように見えますが、わだかまりが消えた瞬間でもありました
当初は、映画が頓挫したことに怒りがあったと思いますが、気まぐれな逃避行などではないと感じた時、それらの感情は封印され、いち個人として心配になってしまうのですね
でも、その感情は時とともに風化し、自分への影響が消えたことに忘却の彼方に押しやられることになります
これだけの時間が経過していると、お互いを知る者同士でも微妙な空気になります
会わなかった理由みたいなものがどこかにあって、年相応の人間関係のコミュニティは変化していきます
あの時に気が合ったと言っても今でも合うとは限らず、それぞれが現在のコミュニティを作った場合だと、必要がないと接近で終わるように思えます
この二人は「記憶がない」という障害があるものの、フリオには新しい人生とコミュニティがあるわけで、無理やり記憶を取り戻させて、過去のコミュニティへの関わりを強制するのは残酷なように思えてきます
■フィルム越しで自分を観る意味
今回のフリオは、スクリーンを通して過去の自分と対面することになります
記憶にない自分自身がそこにいることはとても奇妙なことで、しかもその場には「スクリーンの中の自分を知っている人」で埋め尽くされていたりします
映画では、フリオがどれぐらいのキャリアがある俳優かまでは明示されませんが、テレビ番組で失踪を追うぐらいの知名度はあるのですね
なので、介護施設の修道女たちも知っていた可能性があります
フリオからすれば「自分によく似た人間がこの世にはいるんだな」という感覚になっているのですが、それは見せられているのが「脚色された映画だから」なのですね
そこにはフリオのプライベートはなく、脚色され演出されたフランクという人物がいるので、自分のことには思えなかったりします
この奇妙なズレが、フリオ自身とその他の人とでは微妙に違っていて、他人は「能力」という観点で観るけれど、自分自身にはその視点が欠落していることになります
それ故に、フリオはそこに写っている人物を「自分」だとは捉えられないのだと思います
この映画がフリオ自身のプライベートを映しているものなら、彼自身の記憶と結合することがあるかもしれません
でも、この映画は「未完成品」で監督以外は観たことのないものなのですね
なので、監督以外の他人は在りし日のフリオのイメージを重ねることができますが、フリオ自身にはそれができません
それゆえに、さらにスクリーンの中の自分は自分自身から遠ざかっていくのではないか、と感じました
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
本作は、テレビ番組の企画によってフリオという人物を探す旅を描いていますが、実質的には「ミゲルの人生の置き忘れた荷物探し」だったように思います
彼自身もキャリアの中でいくつものお蔵入り作品というものに遭遇しているのですが、それらは誰かの判断と自分の判断の折り合いがついたものになっています
プロデューサーなどのダメ出しとか、自分自身が納得できずに制作をやめたなど、様々な理由がありますが、それらはある程度完成されたもので、創作としては形になったものだったと言えます
でも、『別れのまなざし』に関しては、撮りたいシーンもロクに撮れておらず、現存するのも「娘探しの依頼シーン」と「娘との再会のシーン」だけでした
要は「娘を探すという過程がすっぽり抜けている」のですね
この過程というものがそのまま映画内のフリオ探しと重なる部分があって、ミゲル自身が劇中のフランクの行動を演じている、という構図になっています
そのために、『別れのまなざし』の欠落部分を観客はミゲルの行動で補完することができていて、まるで『別れのまなざし』を脳内で完成させることになったような感覚に陥ります
物語の起承転結において、『別れのまなざし』は「起」と「結」しかないのですが、それでもどのようなお話だったのかわかるというのが凄いことなのですね
『別れのまなざし』における「起点」としての人物描写は、レヴィが生き別れたジュディスを探していて、それを人探しのプロであるフランクに依頼しています
レヴィには側近のリンユーという人物がいて、彼に中国人の妻がいて、中国に対して好意的な気持ちを持っていることがわかります
ラストでは、レヴィがジュディスのメイクを剥がすのですが、その前に扇子にて顔を隠すシーンというものがありました
そこでレヴィが観たものは、ジュディス本人ではなく自分の娘なんだろうと思います
当初はジュディスが探している娘かと思いましたが、年齢差を考えると、自分の元を去った娘の子どものように思えるので、レヴィとジュディスの関係は祖父と孫のように思えてきます(実際には直結する娘かもしれません)
メイクを剥がすという行為は、人生の装飾を剥がすことに繋がり、それはそのまま「生きていく上で自分に覆い被さってきた埃」のようにも思えてきます
レヴィがそれを剥がして、真実のジュディスを見ようとしますが、それは叶わないまま永眠することになりました
この映画の内容を考えると、ミゲル自身は「人生において自分に積もった埃」は払わなくても良い、と考えているのだと思います
それは、そのままその人の生き方の証のようなもので、フリオの人生に積み重なったものもそのままで良いという解釈になると思うのですね
それを考えると、ミゲルはフリオの人生をそのままにして、再び自分の人生に関わらせることをしないのだと言えます
『別れのまなざし』のラストシーンにおけるフランクは、再会の傍観を行なっている人物でもあるので、フランク=ミゲルであることを考えると、そのようなメッセージになるのかな、と感じました
■関連リンク
映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
https://eiga.com/movie/100617/review/03513478/
公式HP:
https://gaga.ne.jp/close-your-eyes/