■タバコを交換したがるおばちゃんは、もしかしたら神様が遣わす使者なのかもしれません
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■オススメ度
日常系映画が好きな人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2023.11.22(TOHOシネマズ二条)
■映画情報
情報:2023年、日本、97分、G
ジャンル:ある古いコーポの住人を取り巻く日常を描いたヒューマンドラマ
監督:仁同正明
脚本:近藤一彦
原作:岩浪れんじ『コーポ・ア・コーポ(2019年)』
キャスト:(わかった分だけ)
馬場ふみか(辰巳ユリ:安アパートに住むフリーター)
東出昌大(中条紘:女たらし)
倉悠貴(石田鉄平:日雇い労働者)
笹野高史(宮地友三:怪しい商売をする老人)
藤原しおり(恵美子:タバコを交換したがるおばちゃん)
前田旺志郎(カズオ:ユリの弟)
斉藤錣太(カズオの恋人の連れ子)
片岡礼子(信乃:ユリの母親)
白石和子(幸江:ユリの祖母)
山口智恵(幸江の友人)
芦那すみれ(慶子:中条の父の後妻)
広山詞葉(紗綾:中条のパトロン)
中村更紗(ちえ:出会い系にすっぽかされた女)
成松修(石田健児:石田の父)
北村優衣(高橋:石田の現場で働く女子大生)
高坂汐里(美沙希:石田の元カノ)
池波玄八(美沙希の父)
オラキオ(石田の同僚)
マッコイ斎藤(石田の親方)
大谷麻衣(宮地の商売の踊り子)
佐藤大志(松永:宮地の客の学生)
長島大晟(友田:松永の友人)
藤本静(大家)
山本浩司(山口純平:亡くなった住人の息子)
岩松了(宮地の行きつけのサ店のマスター)
落合弘浩(喫茶店のマスター)
■映画の舞台
大阪府:大阪市
鶴橋〜道頓堀近辺
ロケ地:
東京都:八王子市
萩原荘(コーポ)
https://maps.app.goo.gl/hrCo4yKgYTj3cYy66?g_st=ic
お好み焼き やまと
https://maps.app.goo.gl/1EKkuf6Xhxxgdtdb8?g_st=ic
神奈川県:横浜市
喫茶TAKEYA
https://maps.app.goo.gl/nUs47a6FYW1HHqCy9?g_st=ic
■簡単なあらすじ
大阪の下町にある古いコーポには、訳ありの人々が住んでいた
母親との関係が悪化して行方をくらましているユリや、女に貢がせて生活している中条、怪しい見せ物で小銭を稼ぐ宮地、暴力的な日雇い労動の鉄平などが住んでいる
彼らは大家が家賃を取り立てに来ると隠れ、空気の読めない恵美子は、見境なくタバコの交換を申し出ていた
ある日、住人の山口という男が首を吊って自殺してしまう
彼は「金を貸してくれ」と数人の住人に声を掛けていたようだが、それは実現せずにいた
山口の部屋には家電がびっしりと置かれていて、住人たちは我先にと勝手に持っていってしまう
その後も何気ない日常を過ごしていた彼らだったが、ユリの弟・カズオが居場所を突き止めてやってきてしまう
聞けば祖母の容体が悪いということで、2人は病院へと向かった
祖母は思った以上に元気だったが、ユリはそこで疎遠の母・信乃と再会してしまう
信乃はユリを殴りつけるものの、その原因はユリ自身の素行にあったのである
テーマ:日常を変化させる喪失
裏テーマ:日常を変化させる執着
■ひとこと感想
ほのぼの日常系だと思っていたので、まったりとした気分で鑑賞
舞台は大阪の鶴橋近辺ですが、ロケ地は違う場所になっていましたね
地元民が見たら一発でわかる感じですが、ロケ地選定には苦労したんじゃないでしょうか
映画は群像劇となっていて、主要な人物の名前が章立てのようになっていました
ユリの章で家族問題、中条の章で経済問題、石田の章で恋愛問題、宮地の章では青春問題みたいなものが描かれていたように思います
群像劇の趣旨は、このままこいつらを観ていたと思わせられるかというところで、劇的な変化というものはあまり描かれません
あくまでも、小さな変化の先に小さな変化が積み重なる感じになっていて、劇中の数日で人が変わるほど簡単なものではないと言えます
この世界観に浸れるならOKですが、退屈に思ってしまう人がいるもの事実かなと思いました
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
ネタバレらしいネタバレもないのですが、パンフレットはなくて、公式読本というものが売っていました
あいにく映画館で買えず、同じ建物大垣書店で買えず、帰り道に寄ったイオンがこれまた大垣書店で、という感じになって、結局のところKindleで電子書籍になってしまいましたね
特典のメイキングがQRコードから入るという面倒なところがありますが、脚本もきちんと載っているし、キャラ説明も普通のパンフレットよりも充実しています
映画は、主要4人の日常が描かれ、その生活が少しだけ変化する様子が描かれていました
ユリは家族問題が解決せぬまま、弟に子どもと連れ子ができて、家族の輪というものが広がります
中条は女ったらしのまま変化はありませんが、パトロンとの関係は切れるような気がしますね
石田は突き放した高橋が戻っているという展開になっていますが、その先がどうなるかは読めません
宮地の商売は終了で、その踊り子の息子が客として来てしまうという絶望的な展開になっていました
それぞれの風景は変わらないままですが、人生はそこまで劇的ではないよという意味合いがあるのでしょう
些細なことが面白みになっていますが、世間は狭いんだなあと思わされる内容になっていましたね
■日常が変化しない理由
映画は、同じコーポの住人が首吊り自殺をするという導入になりますが、それが住人たちに劇的な変化をもたらしません
全く無関係でもなく、「お金を貸さなかった」という接触があったのにも関わらず、その後の人生には影響をもたらしません
それが、他人に無関心だからとかではなく、自分ごとではない波紋というものは、大小あれ、いずれは収束していくものだからと言えます
一番大きな波紋のように思えた石田ですら、次の日には「普通に家電を漁る」という感じになっていて、いささかドライのようにも思えてきます
自分に余波のない他人の人生に関心を持てるのは、生きていく上で「暇」だからであり、何もやることがないからだと思います
こんなことを言ってしまうと怒られそうではありますが、ワイドショーの芸能ニュースで一喜一憂している人とかを見ていると、他にやることはないのかなと感じてしまいます
コーポの住人たちは、山口の死に関して深掘りをすることもなく、息子が現れるまでは自由気ままにやっていました
息子がいたことを知っていたのかは何とも言えませんが、大家から逃げていたので、入れるべき情報も遮断していたのかもしれません
このように、自分の日常を変えるものは「自分の日常以外にはない」のですが、その変化も実に角度の小さいものが多かったですね
ユリも母との再会で「自分の立ち位置を再確認した」だけで、そこから生活を変えることはありません
それは、彼女自身が自分の人生を生きているからでしょう
石田には高橋という女性が現れますが、彼自身は変化を恐れて高橋を突き放してしまいます
これは、彼のルーツに高橋がそぐわないと思い込んでいるからですが、彫り物たくさんの親がいる家庭には、高橋が入り込む余地はないと考えるのは、彼の優しさであると思います
中条に関しては、後妻やパトロンとの距離感が変わりますが、それは新しい存在・ちえが現れたからなのですが、彼自身は何も変わっておらず、ちととの関係もお金とセックス以外にはないと考えられます
宮地は踊り子が辞めたことで日常が変わりそうに思えますが、実際に変わったのは踊り子の方だったりします
踊り子は息子が客として来たことにショックを覚えて自分の立場を俯瞰するのですが、彼女が辞めたことが宮地の何かを変えるとも思えません
彼自身は余生を過ごしているだけで、その暇つぶしには踊り子でも自販機の小銭でも大差がないのですね
彼らの人生は、彼自身が「自分らしければ良い」と思っていて、それらの変化すらも「良ければ」の延長線上でしかないように思えてきます
■人生に流される生き方
彼らの人生は、目標を持って行き進んでいる人からすれば、流されているように見えるかもしれません
でも、全ての人生は「自分で漕いでいるつもりでも流されているもの」だと思います
目標というブイがあっても、そこに到達するまでは流されて、抗っていくもので、ブイがないように見える人は「流されるブイ」にしがみついているものなのですね
なので、流されて生きる人生を目的にしている人からすれば、なぜ必死に漕いでいるんだろうと思ってしまうかもしれません
人生の若年期は、目の前に見えるブイだけを見て、ひたすらに漕いでいくものですが、それが限界に達するか、その意味を見失った時に、人は自分のブイを自分の足元に作ってしまうものだと思います
それまでに追いかけてきたブイというものは、言い換えれば「誰かが示したブイ」であり、それに一生懸命になることに意味があるのかを考えてしまうのですね
そして、自分のできることでお金を得るという着地点を見つけると、そこから先は波に任せるような生き方に移行してしまう
稀に「他人のブイの押し付け」に嫌気が差して深海に逃げてしまう人もいるのですが、ブイそのものの価値はその人が決めるものなので、それを強制することはほとんど効果を得ないと言えます
映画では、ある程度人生に達観を得た人たちが登場し、彼らは目の前の一日だけを生きています
ユリは専門学校を辞めて流されるように見える人生と生きているし、中条もある女性との関係が微妙になると他の女性を探します
石田も今を生きるのに精一杯で、誰かと歩むことなど考えていません
宮地はいつ死んでも不思議には思っていないので、余暇を過ごすネタを探しているだけだったりします
これらの人生に対する価値は、彼らの心の中にしかなく、他人がどうこう言うものではないと思います
彼らの人生を俯瞰して、何らかの感情を有したとしても、それはその感情を有した人の問題であり、彼らの人生から自分の人生を投影しているに過ぎません
それが侮蔑、憧憬など両極端なものから、水槽の中の魚を眺めているような人もいたりする一方で、バーチャルとして自分を投影する人もいます
日常系映画の多くは、観客の処方箋的な役割を有しているので、その反応を見ていくことで、その人自身の抱えているものや人生というものが見えてくるのかもしれません
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
本作で特徴的な人物と言えば、タバコを交換したがるおばちゃん・恵美子だと思います
藤原しおりって誰やろと思っていたら、まさかの「ブルゾンちえみさんの最終形態」だという
とても驚きを感じたと同時に、多才な方だなあと思ってしまいました
彼女は、いかなる時も同じことを投げかけていて、その都度相手の反応が変わって行きます
石田がわかりやすい例で、「それ、今言う?」と過剰に反応しているのですが、他のメンバーは「とりあえず交換する」のですね
交換しなかったら何かが起こるのかは分かりませんが、あの行動が恵美子のルーティンになっていて、日常に居ることを再確認しているように思えます
また、他のキャラクターの日常性と言うものを示すリトマス試験紙のようなものになっていて、彼女の行動で起こる反応の多くは「冷静になる」と言うものでした
人生の根幹を支えるものは「感情」であり、それが大きく揺らいでいる時は「冷静ではない」と言えます
理論的な行動に思えても、正常化バイアスと自己選択絶対感というものがかかってしまうのですね
これによって、多くの人は失敗へと向かい、反省の材料になってしまいます
この恵美子のような「自分の流れを遮断するもの」というのは、個人的には「ギフト」であると考えています
それは、その流れは危ないぞと言った注意喚起から、引き返すべきだという行動指南であったりと、様々なものだったりします
例えば、バイク(車)を運転している時に、急な車線変更で割り込みがあったり、対向車線にはみ出して追い抜いていく車両に遭遇する場面を思い出して見てください
抜かれたことに腹を立てる人もいると思いますが、私の場合は「この流れで行くと事故るかもしれないから流れを変えてね」というサインだと思うようにしています
また、下世話な言い方をするならば、「自分の代わりにトラブルに遭う人だ」と思ったりもするのですね
実際に、その後に何が起こるかは関係なくて、自分の流れを変えることが重要なのだと考えています
映画の登場人物は、彼女が遮断することで冷静さを取り戻し、そして日常へと帰っていくのですが、この何気ない違和感というものを描いているのは面白いなあと感じました
そして、これらの違和感というものは、視野狭窄が起こっていいる時ほど「感情で反応するもの」だったりするので、尚のこと瞬間沸騰しやすい人は「兆候」だと思って気に留めておくのが良いのではないでしょうか
■関連リンク
映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
公式HP: