■飲みたい時に飲める水がある場所からは、なかなか離れられないものだと思います
Contents
■オススメ度
河合優実の演技を堪能したい人(★★★)
現代の若者の日常風景を満喫したい人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2024.9.9(京都シネマ)
■映画情報
英題:Desert of Namibia
情報:2024年、日本、137分、PG12
ジャンル:二股をかけていた女子が生活の変化とともに精神的に崩れていく様子を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本:山中瑤子
キャスト:(わかった分だけ)
河合優実(カナ:脱毛サロンのスタッフ)
金子大地(ハヤシ:カナの浮気相手、クリエーター)
寛一郎(ホンダ:カナの彼氏、不動産屋)
新谷ゆづみ(イチカ:カナの友人)
唐田えりか(遠山ひかり:カナの隣人)
中島歩(東高明:精神科医)
渋谷采郁(葉山依:心理カウンセラー)
澁谷麻美(吉田茜:カナの職場の先輩)
倉田萌衣(瀬尾若菜:カナの職場の新入り)
伊島空(三重野:ハヤシの大学時代の友人、官僚)
堀部圭亮(林恒一郎:ハヤシの父)
渡辺真起子(林茉莉:ハヤシの母)
高田静流(ハヤシの知り合いの妊婦さん)
空美(カナコ:ハヤシの知り合い)
田中穂先(カフェの客?)
細井じゅん(カフェの客?)
高也(カフェの客?)
浦山佳樹(?)
佐々木詩音(ホスト)
中山慎吾(ナンパ男?)
佐々木悠華(サロンの客、大学生)
嵐千尋(サロンの客、大学生)
木越明(サロンの客、大学生)
豊満亮(彫師)
二村仁弥(バスの運転手)
遠藤雄斗(?)
永井ちひろ(サロンの客)
佐倉萌(サロンの客)
伊芸勇馬(?)
朱永菁(カナの親族)
王メイコ(カナの親族)
林礼子(カナの親族)
郭斌(カナの親族)
陶力(カナの親族)
周美恵(カナの親族)
カーマイケル・リー(?)
橋野純平(?)
■映画の舞台
日本:東京都心のどこか
ロケ地:
東京都:町田市
セピアカフェ
https://maps.app.goo.gl/bApA2WanMukXtHbs8?g_st=ic
町田タイ料理マイペンライ
https://maps.app.goo.gl/kivziq1k2iid4qpJ6?g_st=ic
東京都:杉並区
INKRAT(タトゥー屋)
https://maps.app.goo.gl/M4jSLGYPKhLHzrmk9?g_st=ic
■簡単なあらすじ
脱毛サロンで働いているカナは、恋人のホンダと同棲しつつも、ハヤシと言う男と密会を繰り返していた
ホンダは不動産関係の仕事で生真面目な男だったが、ハヤシはクリエイターとして自由度が高い男だった
ある日、北海道に出張に行ったホンダは、上司の誘いを断れずに風俗に行ってしまう
そのことを正直に話したホンダだったが、カナはそれを理由に彼の部屋から出て行って、ハヤシと同棲するようになった
だが、ハヤシは在宅ワークで家にいるものの、カナの相手はまったくしてくれない
そんな折、引越の荷物の中から、赤ん坊のエコー写真が見つかる
それを機に、カナはあらぬことを考え始め、ハヤシにキツく当たるようになったのである
テーマ:日常が変わる瞬間
裏テーマ:惰性で生きていく意味
■ひとこと感想
河合優実が出ると言うことで、気怠い感じの主人公が何をするのかと思っていましたが、終始イライラしまくっていましたね
ハヤシが別れずに付き合っている理由はわかりませんが、体の相性が良いとか、そんなところなのでしょうか
冒頭の友人イチカの話よりも、リーマンの話が気になるとか、そのままイチカをホストクラブ送りにするなど、性根が歪みまくっているのがよくわかります
映画は、ホンダとの生活に見切りをつけてハヤシに向かうカナが描かれますが、大局的に見たらハヤシとの生活はギャンブル度が高いように思えます
ホンダのスペックは高いけど、束縛がキツい感じがして、ハヤシだと自由に生きられるように思えます
それでも、今度はハヤシを束縛する方に回ってしまっていて、それをまったく自覚していないように思えました
物語性はあまりなく、長回しが多いので疲れる映画ではありますね
じっくりと日常を観察するのが好きだと良いのですが、どちらかというと疲れるタイプの内容ですね
カナがナミビアの砂漠のライブ動画を見ていましたが、それと同じことを観客がしているような感じになっていました
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
タイトルは意味深ですが、読み解くキーワードは「水」でしたね
ホンダは「与える」側で、カナの意思とは関係なく、ホンダのタイミングで水を与えていました
逆にハヤシはそう言ったことには無音着で、カナが何かを欲しようが、先回りして渡すと言うことはしませんでした
この二人は突っ組み合いの喧嘩に発展してしまうのですが、それでも次の瞬間にはなかったことのように普通になっていました
この関係性が続く理由はよくわかりませんが、色んなものが合っているのかな、と思います
映画は、ナミビアの砂漠の動画を眺めて過ごすカナが描かれ、その行為が唯一の癒しのようになっていました
彼女は人付き合いが苦手ではないけれど、面倒だと思ってしまうタイプの人間でした
そんな彼女は、ふとしたことで会うことになった隣人のひかりと交流を持つようになります
二人で焚き火を飛び越えるシーンで、ようやくカナが心から笑えたんじゃないかな、と感じました
■タイトルの意味
本作のタイトルは『ナミビアの砂漠』で、これはカナが見ていたYoutubeチャンネル内の映像に由来するものと思われます
↓おそらくこれ
この映像には「ナミブ砂漠」の一部が定点観測で映っていて、この砂漠はアフリカのナミビアという国にあります
ナミビアはアフリカ大陸の南西部にあって、南アフリカの北側に有里、東にはボツワナがあります
この「ナミブ」という言葉は、主要民族のサン人の言葉で「何もない」という意味になります
大西洋を北上する海流の影響で生まれた砂漠で、ドラケンスバーグ山脈からオレンジ川を流れ出た砂が海岸にたどり着き、海岸から吹く強風によって内陸部に押し戻されて形成されています
酸化鉄の色によって、赤く変色していて、年間降水量は120mm以下となっています
この地域にはウェルウィッチアとナラメロンという植物があって、ミナミアフリカオットセイ、ツチブタ、サバクキンモグラなどが地面の下で活動していたりします
ちなみに、この映像に映っている動物はオリックスという動物で、長い角が特徴のウシ科の動物になります
この動物はアフリカのこの地域に生息している動物で、サバンナに生息している草食動物になります
映画は、このナミブ砂漠の映像を見ているカナが描かれていて、メタ的には「オリックス=カナ」という感じになっていました
そこに映っている生態を眺めていて、向こう側はこちら側のことを知らないか理解していない、という感じでしょうか
全体的に、カナという人物を観察するような距離感があるのですが、オリックスは自らの意思で水を飲み、その場所にいるのですね
なので、カナ自身の本質は、自分の意思で行動し、居たいところにいる人物ということになっていて、それを端的に表しているのだと考えられます
■生態観察の先にあるもの
映画のタイトルは、カナがホンダと別れて、ハヤシと同居するタイミングで登場していて、ここから先が「定点観測におけるカナの生態観察の時間ですよ」という感じになっていました
物語が動くというよりは、カナという人物がどのような行動をするのかを見るという感じになっていて、実に距離感のある内容になっていたと思います
おそらくは、カナのような人物と恋人関係にあった人にしかわからない共感性があって、普通の人からすると、どうしてこの二人は別れないんだろう?と感じるのではないでしょうか
でも、これがカナの特性であり、オリックス同様の「あの場所を好んでいる」という側面があるように思えました
このような人間観察系の映画は、対象者と論理的な思考が通じない場合が多く、ある種のマイノリティを見ているような感覚になります
同等、もしくは関わりのあった人だけが共感できる世界観があって、それに対しの是非というものはありません
距離感があったとしても、そこにいるのは同じ人間で、いくつかの分岐を経てたどり着く可能性のあった世界線のように感じられます
カナは常に自分がしたいことをしているのですが、おそらくは境界性パーソナリティ障害のような感じで、予測不能な行動に出たり、瞬間的に切り替わる印象があります
彼女自身はそこまで明確に理解してはいないと思いますが、ハヤシの方がそれを理解しているのかな、という感じに思えました
カナとの付き合いを切ることなく続けているというのは、そういった特性よりも優先するものがあると思うのですが、映画では明確には描かれていません
消灯後の相性が良いとか、ハヤシ自身が劣等感の塊なので、カナと一緒にいることで優越感を得られるとか、そのあたりの感覚なのかな、と感じました
人間観察をしていて思うのは、理解不能に見える人ほど「その人の論理で動いている」ということがわかる点でしょうか
その論理は確かめようがない部分があるのですが、それを想像したのちに「こんな行動をするんじゃないか?」と予測を立てることになるのですね
そして、その通りになったら読めた!と思うように、オリックスが水を飲むタイミングを思い描いて当たったら面白い、みたいなところがあるように思いました
本作の面白みというのは、このような予測不能な部分と鑑賞者の論理性との乖離によって、人生経験や想像力の範囲が浮き彫りになるところかな、と思いました
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
本作のラストは、ナミブ砂漠の定点映像になっていて、映画全体がそのような視点で作られていたことがわかります
シナリオ自体は監督が書いているように、監督の中で出来上がったカナというキャラクターが勝手に動いていてできたのかな、と思いました
創作したことがあると何となくわかると思いますが、物語に沿ってキャラクターを動かす場合と、キャラクターを作って勝手に動くのを書き留める、という二つの方法論があります
シナリオの本筋が決まっている場合だと、カナはハヤシとの関係を続けるか別れるかを先に決めていて、その結末に向かうようにエピソードを重ねていくことになります
このようなゴールから決めるシナリオというのは論理的に作られる一方で、キャラの造形と行動が一致せずに、シナリオに動かされていると感じる場合があります
一方で、カナというキャラクターを生み出してからシナリオを構築する場合、用意するのは「選択肢」となり、それがハヤシとホンダという異性になります
カナというキャラならばどちらを選ぶのかとか、その後、選んだ相手とどうなるのかを見ていくことになり、この場合は結論を決めないことが多いと思います
本作のシナリオがどのように構築されたのかはわかりませんが、感覚としては「カナのキャラクターが先で、物語はカナの行動に任せたもの」のように思えました
これらは監督の脳内で進行していて、それを書き出した末に、このような物語になったのだと推測しています
映画の主題として、カナという人物の生態観察があるのならば、そこで描かれる物語に論理性はいらないのですね
それは、人間が論理的な思考をしながら、非論理的な行動を取る動物だから、ということになります
人間が非論理的に見えるのは、その大部分を論理的に表現できないからであり、部分論理性の塊に整合性を見つけられないからなのですね
なので、この行動とあの行動の関連性が結び付かなくなって、それが非論理的な行動に見えてしまう、ということになるのだと思います
でも、大枠の人間性を把握した段階だと、その無関係に思えるものにも法則や関連性を見つけることができるのですね
カナの場合だと、ホンダを捨てたのは自由度が低いからで、それより優先する価値観はないのだと思います
そして、その自由度を満喫できる環境をハヤシが用意することができたのですが、最終的にその目論見というものは崩れてきます
怪我をしたカナが「私はもう働かなくてもいい?」と聞くシーンがありましたが、このセリフなどは典型的なカナの論理の末に出た言葉のように思えます
今後、このカナの自由度をハヤシが維持するのかはわかりませんが、ハヤシの価値観の中にカナとの生活が組み込めればOKなのでしょう
ハヤシに関してはそこまで細かな描写はありませんが、彼は自立することで親からの距離を取ることができているので、否応にもカナの自由度を高める生活を維持する方向に動いて行くのかな、と感じました
■関連リンク
映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
https://eiga.com/movie/101627/review/04228749/
公式HP:
https://happinet-phantom.com/namibia-movie/