■小さな鼓動から始まる音も、いつしか大きなうねりとなって、時代を創っていく
Contents
■オススメ度
実話ベースの音楽映画が好きな人(★★★)
ボレロが好きな人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2024.9.25(アップリンク京都)
■映画情報
原題:Divertimento(劇中でザイアが結成する楽団の名前、嬉遊曲)
情報:2022年、フランス、114分、PG12
ジャンル:実在の指揮者ザイア・ジウアニが楽団を結成するまでを描いた伝記映画
監督&脚本:マリー=カスティーユ・マンシヨン=シャール
キャスト:(一部所属&楽器自信なし)
ウーヤラ・アマムラ/Oulaya Amamra(ザイア・ジウアニ/Zahia Ziouali:クラシックを夢見るアルジェリア出身の少女、17歳)
(幼少期:Lorena Kaidi)
リナ・エル・アラビ/Lina El Arabi(フェットゥマ・ジウアニ/Fettouma Ziouali:ザイアの双子の妹、チェロ奏者)
ニエル・アレストリュプ/Niels Arestrup(セルジュ・チェリビダッケ/Sergiu Celibidache:ザイアを指導する著名な指揮者)
Ariane Ascaride(チェリビダッケ夫人/Mme Celibidache)
Zinedine Soualem(アブデルマジド・ジウアニ/Abdelmadjid Ziouani:姉妹の父)
Nadia Kaci(リラ・ジウアニ/Lila Ziuyani:姉妹の母)
Mohamed Iyad Smaïne(メディ/Mehidi:姉妹の弟)
Laurent Cirade(クロード・ブルゴス/Claude Burgos:フェットゥマのチェロの先生)
Martin Chapoutot(ディラン/Dylan:クラリネット&ピアノ奏者)
Zbigniew Jankowski(ディランの父)
【パリ・ラシーヌ音楽院:ディヴェルメントに不参加】
Louis-Damien Kapfer(ランバート・ラレマン/Lambert Lallemand:指揮者志望のエリート)
Rémi Lecomte(ベルトラン/Bertrand:トランペット奏者)
Valentin Thierry(ヴァレンティン/Valentin:トランペット奏者)
Aurélien Carbou(ガブリエル/Gabriel:トランペット奏者)
【パリ・ラシーヌ音楽院:ディヴェルメントに参加】
Salomé Desnoues(ポーリン/Pauline:第一ヴァイオリニスト)
Léonard Louf(アントワーヌ/Antoine:コントラバス奏者)
Tifenn Giraudeau(ジュリー/Julie:フルート奏者)
Victor Burgard(ヴィクター/Victor:ホルン奏者)
Adèle Théveneau(アガラ/Agathe:チェロ奏者)
Darline Saint-Félix(ゲール/Gaëlle:ホルン奏者、アリオーソ大会の主催者)
Barbara Soller(アリアン/Ariane:ファゴット奏者、ラシーヌ音楽院)
【チェリビダッケの教え子】
Pierre Xifaras(ピエール/Pierre:第1ヴァイオリニスト、コンサートマスター、チェリビダッケの教え子)
Benoit Del Grande(カルル/Karl:チェビリダッケの教え子、第2ヴァイオリニスト、フェットゥマと親密になる)
【スタン音楽院】
Emmanuel Coppey(マーティン/Martin:第1ヴァイオリニスト)
Blandine Laignel(ブランディン/Blandine:第2ヴァイオリニスト)
Martin Gillis(ケヴィン/Kevin:コントラバス奏者)
Jonas Ben Ahmed(マリク/Malick:フルート奏者)
Louise Legendre(マリー/Marie:ヴィオラ奏者)
Adèle Gal(クレア/Claire:ヴィオラ奏者)
Ambre Munié(カロリーヌ/Caroline:クラリネット奏者)
【ワークショップ】
Isabelle Conan(イザベル:チェロに興味を持つダウン症の少女、楽団に参加)
Leila Hilmi(クララ/Clara:ワークショップから楽団に参加、ヴィオラ奏者)
Félicien Garcia(ブノワ/Benoit:ワークショップから楽団に参加、ヴィオラ奏者)
Jayden-Felix Dos Santos(フォフォ/Fofo:ワークショップの男の子)
Wendy Nieto(フォフォの母)
【その他】
Laurence Pierre(モルチェリー先生:ラシーヌ音楽院の音楽の先生)
Sylvie Turowski(ラシーヌ音楽院の哲学の先生)
Xavier Maly(ラシーヌ音楽院の校長先生)
Valérie de Monza(スタン音楽院の先生)
Gilles Menet(ジャン=バティスト先生/Mr Jean-Baptisete:スタン音楽院の校長)
Pascal Rogard(グリポワ先生/Mr Gripoix:スタン音楽院の音楽の先生)
Lionel Cecilio(スタン音楽院の先生)
Valérie De Monza(デュ・ジェム音楽院の受付)
Karine Dogliani(ボビニー審査員:ブサンソン国際コンクールの審査員)
Richard Rouillé(ブサンソン国際コンクールの審査員長)
Jean-Yves Freyburger(フェットゥマのチェロコンクールの審査員長)
Bruno Garcia(ステンの市長)
Marion Christmann(ソーシャルセンターの管理者)
Amine Lansari(囚人1)
Tom Phoenix(囚人2)
William Brisson(学生のヴァイオリニスト:所属不明)
Souad Arsane(ドゥニア/Dounia:?)
Hugo Chenaf(ロイック/Loïc:?)
Hicham Faïz(アーメッド/Ahmed:?)
南部優萌/Yume Nanbu(アメレ/Amélle:?)
Enzo Pernet(セドリック/Cédric:?)
■映画の舞台
1985年&1995年
フランス:パリ
リセ・ラシーヌ音楽院
ステン音楽学校院
ロケ地:
フランス:パリ
フランス:スタン
■簡単なあらすじ
パリ郊外のパンタンで生まれたザイアとフェットゥマは、ともに音楽の道を目指して邁進していた
ザイアはヴィオラ、フェットゥマはチェロを選択していた
だが、ザイアは幼少期の頃に観たクラシックのビデオの影響から指揮者になりたいと思っていた
17歳になった二人は、地元のスタン音楽院からパリの名門ラシーヌ音楽院への転入を認められる
指揮者になりたいというザイアの思いを汲んだモルチェリー先生は、エリート指揮者候補のランバートとともにオーケストラの指揮をするように命じる
だが、田舎から出てきた移民への扱いは酷く、時には授業に出ると嘘をついて演奏すらボイコットするようになっていた
ある日、著名な指揮者セルジュ・チェリビダッケの授業に参加することになったザイアたち
そこでザイアは、「作曲者と話せないのにどうやって音楽を表現するのか?」とセルジュに疑問をぶつける
彼は指揮台に上がるように命じ、そこで指揮をすることになったのだが、女性が指揮者を目指すことには反対の立場だった
だが、彼女の指揮に何かを感じたセルジュは、ザイアを自分の講義に参加させるようになるのである
テーマ:指揮者の本懐
裏テーマ:人生と音楽の関係性
■ひとこと感想
実在の人物の若かりし頃の伝記映画で、今もなお活動を続けている楽団「ディヴェルティメント」創設の物語となっていました
この原題を「パリの~」にしてしまう圧倒的なセンスのなさには絶望してしまいますが、いつものことなのでスルーするしかありません
かれこれ40年近く活動している楽団に対して「ちいさな」という言葉のチョイスは無知と失礼以外の何者でもありません
映画は、田舎の音楽院から都会の音楽院に編入したことで洗礼を受けるというもので、格差であるとか、人種差別のようなものがサラッと登場しています
そんな中、ラシーヌでもスタンでもない音楽教室にてディランという青年に出会うことになり、そこから奇妙な縁が誕生することになっていました
とにかく出演者が死ぬほど多い作品ですが、主要キャストも含めて「ほとんど現役の奏者」ということになっていて、出演者の名前でググると色んな情報が飛び込んできます
キャスト欄作成は地獄の極みではありますが、数人以外はなんとか拾うことができました
ラシーヌから7人が参加、ワークショップから3人、それにディランとスタンの仲間、師匠の教え子が2人という構成だったように思いますが、間違っている可能性もあるのであまり引用などはしないでくださいね
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
指揮者として大成している実在の人物の若かりし頃と言うことで、音楽素人のザイヤ役のウーヤラ・アマムラに1から仕込んだり、ヴァイオリニストのリナ・エル・アラビがチェロ奏者として出演したり、となかなか強烈な裏話がある内容となっていました
実在の指揮者なども登場し、演奏はすべて出演者が行なっているなど、ガチな音楽映画となっていました
自然音を聴いてタクトを振るなど、音楽と人生の関わりの中で、バックグランドに自然のリズムというものが登場します
そして、後半では「ボレロ」が登場するのですが、本作の前に『ボレロ 永遠の旋律』を観ていると、そのシーンの重要さというものがよくわかるようになっていました
指揮者は孤独だけど、一体となった時に奇跡が起こる、という趣旨の言葉が登場し、それが後半のキーシークエンスへと結びついていきます
このシーンはとてもベタなのですが、感動を呼ぶ名シーンだと思います
また、刑務所のシーンも最高で、あのシーンがあるからこそ、ラストの「ボレロ」の導入が効果的になっているように思えました
■音楽と人生の相関性
映画の主人公であるザイア・ジウアニと妹のフェットゥマは実在の人物で、ザイアが従事した指揮者セルジュ・チェリビダッケも実在の人物となっています
Wikiによると、姉妹は1978年6月27日にパリで生まれ、両親はアルジェリアからの移民でした
その後、パンタンに引っ越しし、両親は今もそこで住んでいるとされています
妹はチェロ奏者としてその後も研鑽を積み、ザイアはビオラから指揮者へと転身することになります
父はパリのレストランに勤務していて、クラシック音楽に熱中していて、娘たちにも音楽に興味を持って欲しいと考えていました
その後、パリのスコラ・カントルム(Schola Cantorum de Paris)に入学したザイアはそこでセルジュ・チェリビダッケの指揮法を学ぶことになります
そして、1998年いはディヴェルティメント交響楽団(映画で結成した楽団)を設立し、イル・ド・フランス地方の70人の音楽家と音楽教師を集めてコンサートを行うようになっています
楽団設立後もそう簡単にはうまくいかず、自己嫌悪から楽団から距離を置くようになってしまいます
彼女の弱い部分を攻撃する何かがあって、そう言ったものが多感な彼女を攻撃してきました
でも、最終的には彼女が表舞台に引き上げようとした人たちによって、然るべき場所に戻るという物語になっています
クラシックに限らず、音楽には楽譜というものがありますが、機械に演奏させたら全く同じものが再現されますが、人が演奏するとなるといろんなものが変わってきます
音楽に対する解釈の違いによって、表現する感情も変わってくる
映画では、ザイアがディランと練習をする場面にて、「ロミオとジュリエットの表現方法の違い」というものがサンプルとして登場しています
ロミオの一人称で考えるディランと、物語とそれ以上の世界情勢を考えるザイアには見えているものが違っていて、ザイアはロミオがその場所に来るまでの物語を理解していることになります
このような楽曲の背景への理解というものは、小手先の楽譜の再現とは趣旨が違い、そこに気づくかどうかというのは人間性にも深く関わってきます
ザイアはセルジュの教えに時には反発しますが、この時にはセルジュの視点が見えていないのですね
彼女が未熟だとも言えますが、それはザイア自身が自分自身の人生を俯瞰で見られていないともいるし、そこに登場するセルジュの物語を理解していないとも言えます
シェイクスピアの書いた物語では見えるものも、自分の人生では見えない
それは当たり前のことのように思えますが、実際には多くの情報を入れ、感情への依存を無くせば見えてくるものだと思います
セルジュが自分に何を伝えようとしているのか
そこにはセルジュのこれまでの歴史があり、クラシックの歴史があり、フランスの指揮者の歴史があります
そんな中で、フランスにはほとんどいない女性指揮者を指導しようと考えているセルジュが何を想うのか?
映画を見ていればわかることも、劇中の人はわかっていない
ここに物語としてのリアリティがあるように思えました
■指揮者とは何者か
指揮者とは、楽団に対して楽曲の意図を伝える存在で、指揮者によって演奏される楽曲の色というものが変わってきます
演奏者にも各自の楽曲に対する理解というものがあり、演奏する楽器の存在意義や役割を認知していますが、指揮者はそれらを取りまとめつつ、自分の考えを共有してもらう必要があります
そこで押し付けることで不和を生むとか、個人の思い入れを放置して分解するというのは指揮者映画のデフォのようなもので、本作ではその分断に「差別意識」というものがありました
これはザイアの視点なので、当時のパリの人が全員そうだったというものではありませんが、移民へのあたりが強いとか、貧乏人に対して富裕層の子どもがキツく当たるというのはあるあるのように思えます
この手の映画では富裕層の子どもはだいたい同じような行動を起こすのですが、それは富裕層側は常に自分のポジションを守るために過剰な防衛をする、というところが大元のように思います
実際には、富裕層を富裕層たらしめているのは底辺と呼ばれる人々なのですが、富の集中を行なっているが故に、その地盤というものが脆くなっていたりします
親はこの辺りのからくりを理解していたりしますが、勘違いをしている親族からの吹聴などによって、何も知らない無垢はあっさりとわかりやすい考えに凝り固まってしまいます
映画では、さまざまな方面から人を集めていき、さらに富裕層と呼ばれる人々も参加していきます
最初はとんでもないところに来たと思う人たちも、これまでに自分たちが意識して来たものも世界の一部だと知るようになります
そう言った、現在進行形の人の思考すらもまとめ上げていくのが指揮者の仕事であり、演奏の最初と最後では演奏者のマインドや理解も変わっていきます
指揮者は楽曲に対しても広い視野で見つめながら、刻々と変わっていく演奏者にも目を配っていく
理解度も実力もあるのに何故か上手く演奏できない人がいたり、その内面に踏み込めない場面もあると思います
そう言ったものの、どこまで関与すべきかは指揮者の感性によると思いますが、ザイアの場合だと、そこに深く踏み込んでいくのかな、と感じました
映画では、彼女の失意からの復活で物語が終わっていますが、その後の物語があるとすれば、そう言った視点で描かれていくのではないでしょうか
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
本作におけるザイアは、自然音からリズムを学び、手が勝手に動いてしまう人物でした
自然と音楽の融合の先にあるものを探していて、セルジュが語る指揮論にも通じるところがあります
自然を背景とし、その中で揺れ動く人間とは何か
音楽は、そういった人のありのままを切り取っている部分があり、その背景をも含めた表現が必要となってきます
音楽を理解することはとても難しいようでいて、そこまで難しくないと思います
それは、音楽を作った人が特殊な環境で書き上げたとしても、そこには同じ血の通った人物の感情というものが含まれているからなのですね
それを考えると、その人物がいる背景を理解することができれば、そこに自分自身を委ねてみて、そして見えるものを表現していくことになります
ラストで登場する「ボレロ」は、まさにこれを体現している楽曲であり、ラヴェルが捉えた環境というものを理解することで、その楽曲の存在理由というものがわかると思います
ラヴェルの「ボレロ」に関しては、他の映画などでも登場しますが、楽曲は「同じリズム」をベースとしたループミュージックになっていて、そこに少しずつ楽器が加わってくるという構成になっています
ラヴェルがこの音楽を思いついたのは寄り返す波のある街と、労働者の息遣いが滲んでいた工場でした
当初はバレエのために書かれた楽曲も、演者であるバレエダンサーのイダはそこに男女の理を映し出します
自然、すなわち生活の中にいる人間に欠かせないものとしての性を描いていて、当初は否定的だったラヴェルも、その舞台を観て、イダの真意を理解したとされています
本作では、ザイアが救ったディランがいて、彼が太鼓を打ち鳴らして彼女を目覚めさせます
そして、そこからザイアが集めた人々が楽器を持って登場し、その街の人々もいつの間にか溢れてきました
この流れを見た時、時の刻み=人生であるという概念と、そこに集うのが人間であることが見えてきます
ザイアの復活に賭ける人々は、ザイアが刻んだ時の声によって目覚め、それは彼女がいないところでも鳴り続けていました
そして、ザイアがそのリズムに改めて出会う時、それは彼女の過去というものを肯定することになります
ラストのボレロは、彼女が表現しようと考えている音楽の集大成であり、その道が間違っていないことを示すものだったと感じました
彼女は、人種や階級などの垣根を取っ払った先にある音楽を追求していて、それが形になろうとしていました
時の刻みに集まる人間には区別はありません
その中心で刻まれているザイアのリズムと同じものを有している人ならば、その波長に同調することができます
映画のラストは、これからのザイアの思念の伝播と世界観の広がりを見せるという意味において、最良のシーンだったように感じました
■関連リンク
映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
https://eiga.com/movie/101899/review/04293664/
公式HP: