■「ふれる」依存症が人格形成に与える影響はなかったのだろうか
Contents
■オススメ度
コミュ障映画に興味のある人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2024.10.4(イオンシネマ京都桂川)
■映画情報
情報:2024年、日本、107分、G
ジャンル:ふれるという謎の動物によって人間関係を構築できた若者たちを描いた青春映画
監督:長井龍雪
脚本:岡田麿里
キャラデザ:田中将賀
制作:CloverWorks
キャスト:
永瀬廉(小野田秋:BARの店員、諒と優太の幼馴染)
(幼少期:瀬戸麻沙美)
坂東龍汰(祖父江諒:不動産会社の社員)
(幼少期:田村陸心)
前田拳太郎(井ノ原優太:服飾専門学校の学生)
(幼少期:豊崎愛生)
演者なし(ふれる:島の伝承の生き物で、接触すると意思疎通ができる存在)
石見舞菜香(浅川奈南:優太の服飾専門学校の同級生)
白石晴香(鴨沢樹里:奈南の幼馴染)
皆川猿時(脇田:秋たちの学生時代の恩師)
津田健次郎(島田公平:服飾専門学校の先生、優太のクラスの副担任)
江口拓也(ひったくり犯)
小形満(バーのマスター)
大塚芳忠(五木:バーの客、マスターの知り合い)
平野文(五木の妻)
茅野愛衣(バーの女性客)
櫻井孝宏(バーの男性客)
水瀬いのり(優太の同級生)
内山昴輝(優太の同級生)
若山詩音(優太の同級生)
■映画の舞台
間振島&東京のどこか(高田馬場周辺)
■簡単なあらすじ
人見知りの少年・秋は、少年時代のある日、海岸にあった祠からあるものを見つけた
それによって、秋は諒、優太と仲良くなることができ、心が通じ合う関係になっていく
そして、大人になった彼らは活動拠点を東京に移し、そこで共同生活を始めることになった
彼らの関係を結んでいるのは「ふれる」と呼ばれる妙な生物で、それにふれることによって、言葉を介さなくても、テレパシーのようなもので心を通じ合えるようになっていた
内向的な秋はバーでアルバイトをして生計を立て、諒と優太の食事を作ったりしていた
諒は不動産会社に就職し、優太は服飾専門学校へと通い始める
そんな折、秋はひったくりに遭っている女の子を助けることになった
彼女は優太が通っている服飾専門学校の別のクラスの生徒で、その事件を機に急速に接近することになってのである
テーマ:コミュニケーションの正体
裏テーマ:心のフィルターの存在理由
■ひとこと感想
コミュニケーションがうまく取れない主人公が、ふれるという生物と出会うことでテレパシー能力のようなものを得るという内容で、それが3人の人間関係を構築するという内容になっていました
幼少期の出会いから、一緒に成長していって、東京に進出する中でも変わらない友情というものが描かれていきます
彼らが「ふれる」ことで対話をしているのですが、それがあらぬ誤解を生んで行ったりしましたね
女の子が混じることで感情が複雑になっていくのですが、それでも思ったことは伝わってしまう
そんな関係性にはある秘密があった、というものになっていました
彼らは立派な成人なのですが、心はまだ子どもという感じになっていて、それは彼らの関係性に起伏がなかったからとも言えます
そうしたものが一気に押し寄せることになってしまい、さらに現在進行形の問題が重なって複雑化していく様子が描かれていました
後半に限らずファンタジーな部分が多いので、どちらかと言えば若年層向けの作品になりますね
良い大人からすると「近頃の若者は」と言ってしまいそうな内容で、個人的にはあまり刺さらなかったというのが正直なところでしょうか
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
個人的にはそこまで内向的ではないので、主人公の葛藤はあまり良くわからない部分がありますが、ふれるによって守られてきたことで、さらなるバリアーみたいなものが強固になっていったように思います
同時に、その中身はさらに繊細になり、脆くなっていくという感じで、感情というものは鍛え上げていかなければならないものだと思い知らされると思います
ふれるの存在によって心が通じ合っていたと思っていたら、という内容で、そこにはフィルターというものが存在していました
本来ならば、そのフィルターは自意識が行うもので、その際に共感性とか、相手を思いやる気持ちなどが成長していくことになります
彼らは、そう言ったものをふれるによって経験してこなかった分、反動が大きいという感じになっていましたね
このあたりの感覚は、甘酸っぱくてしんどい青春を過ごした人には共感しづらい部分があって、それらを避け続けてきた人がどっぷりとハマってしまうように思えました
とは言え、そんなことを言っていられるのも子どものうちのもので、社会に巣立つ時期には否応にも強風に晒され続けるものなのですね
それを思うと、幼少期から少しずつ痛みを体験することは、大人になってからの強風に立ち向かうための術を与えてくれたもののように思えてきます
■コミュニケーションが怖い理由
人付き合いが得意とか、人と話すことが好きと言う人以外だと、コミュニケーションを煩わしく思ってしまうと思います
そんな中で「怖い」とまで感じてしまう人がいて、それは過去にコミュニケーションによるトラウマを抱えてしまったからだと考えられます
コミュニケーションを怖がる理由はたくさんあると思いますが、人間不信にまで陥るものとしては、「人の裏表」に晒された人のように思います
口で言っていることと思っていることのギャップが凄すぎて、人を信用できなくなってしまうのですね
また、人前では態度が違うとか、TPOに応じて、常に違うことを言っているなどの、人間として信用できないものを見てしまう、と言う体験が根底にあるように思えました
人は必ずしも思っていることを全て話さないのですが、中には思ったことをすべた話さないとダメな人もいるし、自分を守ったり装飾するために嘘を重ねる人もいます
映画では、そう言った煩わしさを「ふれる」が除去してくれていて、相手の考えがダイレクトに伝わっていると信じていました
でも実際には、人が日常で行なっていること以上にフィルターをかけていて、目的のために揺らぎすら無いと言う状況になっていました
同じことを人が行っても、その日の気分とか感情によって、正確に除外はできず、それによって軋轢を生んだり、本音が出てしまうと言うことがあります
「ふれる」にはそう言ったファジーな部分が一切なく、それゆえに完璧なフィルターになってしまっていたのだと思います
誰しもが衝突をしたいとは考えていないのですが、自己表現を正確に行いたいがゆえに相手に配慮できない人と言うのもいます
その人としては親切のつもりで言っていることも、言葉選びによって鋭利な刃物になっていたりします
親切だと思っている分、届かなくては意味がないと考えていて、その目的が優先されてしまって、相手を傷つけてしまうと言うことが起こります
傷つけられることが多い人ほど盾を強固にするようになり、自然とコミュニケーションから距離を置こうと考え始めます
恐怖とは、そのものを100%自分で吸収しようと考えるから生まれる概念であり、同じような強度のコミュニケーションを受けても動じない人もいれば、その人の個性だと笑える人もいます
そうした他人のコミュニケーションスキルを目の当たりにすることによって、さらに自虐的になって、恐怖心が増幅すると言うことも起こるのではないでしょうか
■ふれるはなぜフィルターをかけたのか
映画に登場する「ふれる」は、諍いの種になるようなものを排除する機能があって、それによって「ふれる」を通じたコミュニケーションからは相手の嫌なところが見えないようになっていました
それは個別のフィルターをかけるものであり、秋→優太、優太→秋、秋→諒、諒→秋、優太→諒、諒→優太の6種類のフィルターがあることを意味します
それぞれ中に「相手にあったら嫌なもの」が違うので、それを「ふれる」はフィルターで除いているのですが、そもそも「ふれる」はなぜフィルターをかけるのでしょうか
「ふれる」は秋が海岸の祠で見つけた生物のようなもので、それまでは誰の目にもふれられずにそこにいたことがわかります
かつて、「ふれる」も島の人々と交流を持っていたとか、「ふれる」族のようなものがいたのかもしれません
このあたりの「ふれる」の設定はほとんど覚えていないのでアレですが、「ふれる」自身がそうしないと生き残れなかったとか、見つけてもらえなかったと言うものがあるように思います
「ふれる」のフィルターは可視化できませんが、人から「ふれる」を見た場合、そこには「見た人を不快にさせるものは無い」のだと思います
なので、もしかしたら「ふれる自身を守っているフィルター」を取り除けば、恐ろしい姿をしている、なんてことも無きにしもあらずと言えます
「ふれる」が秋に見つけてもらうために「自分にフィルターをかけている」としたら、「ふれる」自身がそのフィルターを外す状況にならないと「秋たちに掛かっているフィルター」も外れないように思います
とは言え、元々フィルターというものがあるのかも疑問なのですね
それは、伝説がそうだからというものがあって、実際には「ふれる」を通じて自分の嫌な部分を見てしまっているから、とも言えます
彼らは学校の先生から「ふれる伝説」を聞くことによって、「フィルターが消滅しなくても疑心暗鬼になる」のですが、それは「ふれる」を通じて見えた嫌な自分を思い出すことになったから、なのかもしれません
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
本作はゆるキャラ+青春ものという王道でしたが、思ったよりもバズらなかった作品のように思います
その理由は色々とあるのだと思いますが、男子三人の友情が結局は色恋沙汰で変になっている感じになっていて、「ふれる」の存在が後半になると薄まっているからのようにも思えました
「ふれる」とは何かと言うのはそこまで難しくもなく、想定内だったりしますが、闇堕ちしてダークな心理戦になるとか、「ふれる」が彼らの感情によって変質するなどの転換がないのが残念だったかな、と思いました
「ふれる」は一見するとハリネズミのようなビジュアルをしていますが、そのトゲのようなものが何かを攻撃することもありません
また、全員に見えている姿が同じものなのかとか、さわれる人とダメな人がいると言うのもなかったりします
心に壁を作っている人ほど暖かく感じるとか、ズバズバ言う人ほど尖っていて痛くて冷たく感じると言うものもないのですね
このあたりが単なるキービージュアルの販促狙いにもなっていないのが微妙のように思えました
映画を見て不思議に思ったのは、自分の心の中で思ったことと反応の相関性があるのかな、と言うことなのですね
相手は聖人のように見えるのですが、学校の成績とか、モテるモテないなどの嫉妬に繋がるような要素って、多感な時期だと結構多く見受けられると思います
このようなネガティブに抱えた感情が相手を不快にさせていないと言う時点で、「ふれるコミュニケーションに懐疑的になる」と言うのがありそうなのですが、そこに気づかないのは設定なのか純粋なのかはわかりません
相手の感情がフィルターになっても、自分の感情はダイレクトなので、そのような疾しさと言うものは普通なら押し殺して、対人関係を紡いでいくと思います
通常のコミュニケーションでも相手が不快になるようなことはフィルターにかけているので、「ふれる」がいなくてもそこまで悪化はしないものだと思います
なので、「ふれる」がないとコミュニケーションができないほどの資質を彼らが抱えているとしたら、相当歪んだ性格になっていそうにも思います
このあたりは、ネガティブを与え合わない=そのような感情を有しないと言う図式ありきになっているのですが、人間ってそこまで単純でもなく、うまくいかなくてネガティブを抱えるものだと言えます
なので、本音と建前の使い分けみたいなものが習得されない状態における人格形成というものは、もっと闇を深くして、懐疑的になった段階でもっと激しく噴出してしまうように思います
また、「ふれるコミュニケーション」は自分自身の内面と発信を鍛えることがないので、同じ感覚で他の人とコミュニケーションを取ってしまうと大変なことになると思います
なので、他の人との人間関係はさらにおかしなものになってしまい、それによるストレスも増加していくと思うので、ますます「ふれるコミュニケーション」に依存していくと思います
そのような状況を見た奈南と樹里は違和感を持たないのかなど色々と考えてしまうのですが、そこはファンタジーだと割り切るしかないのかな、と感じました
■関連リンク
映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
https://eiga.com/movie/100854/review/04328841/
公式HP: