■邦題は観客を惹きつける効果があっても、映画自体を理解していないように見えてしまいますね


■オススメ度

 

花嫁取り違えコメディに興味のある人(★★★)

インドの女性の地位向上に興味があるひと(★★★)

 


■公式予告編

鑑賞日:2024.10.7(MOVIX京都)


■映画情報

 

原題:Laapataa Ladies(失われた女性たち)

情報:2024年、インド、124分、G

ジャンル:取り違えられた妻と姿を隠したい妻を描いた社会派ヒューマンコメディ

 

監督:キラン・ラオ

脚本:スネハ・デサイ

 

キャスト:

ニターンシー・ゴーエル/Nitanshi Goel(プール・クマーリー/Phool Kumari:駅に置き去りにされるディパークの婚約者)

スパルシュ・シュリーワーススタウ/Sparsh Shrivastava(ディパーク・クマール/Deepak Kumar:妻を撮間違える夫)

 

プラティバー・ランター/Pratibha Ranta(ジャヤ/Jaya:プシュパと名乗るプールと間違われる新婦)

Aparna Upadhyay(カルパナ/Kalpana:ジャヤの母)

 

チャヤ・カダム/Chhaya Kadam(マンジュ・マアイ/Manju Maai:駅の茶屋の女主人)

Satendra Soni(チョトゥ/Chhotu:ムルティ駅に住む少年)

Ravi Kapadiya(アブドゥル/Abdul:足が不自由なチョトゥの友人)

 

【警察関連】

ラビ・キシャン/Ravi Kishan(シャム・マノハル/Shyam Manohar:ブンガープルー村の警部補)

Durgesh Kumar(ジャイプラカシュ・ドゥベ/Jaiprakash Dubey:間の抜けた巡査)

Kanupriya Rishimum(ベラ・クマリ/Bela Kumari:怪力の女性巡査)

 

Meenu Kale(ムルティ署で歌うフォークシンガー)

Abhay Shankar Dubey(フォークシンガーの息子、囚人)

Sanjay Dogra(ムルティ署の巡査)

 

Kishore Soni(トリブバン/Tribhuvan:スラージムの警官)

 

【ディパークの家族】

Geeta Agrawal Sharma(ヤショダ/Yashoda:ディパークの母)

Pankaj Sharma(ディパークの父)

Rachna Gupta(プナム/Poonam:ディパークの義理の妹)

Abeer Sandeep Jain(バブルー/Bablu:プナムの息子、ディパークの甥)

Kirti Jain(ディパークの祖母)

Balram Ji(ディパークの祖父)

 

Daood Hussain(グンジャン/Gunjan:ディパークの親友)

Pranjal Pateriya(ラグー/Raghu:ディパークの親友)

Samarth Mahor(ビラス/Bilas:ディパークの親友)

 

Sundar Likhar(マニ・シン/Mani Singh:MLA、マルクス・レーニン主義の議員、グンジャンの知り合い)

Jasrat Singh Thakur(マニ・シンのアシスタント)

 

【プールの家族】

Savita Malviya(プールの母)

Khusbhoo Chowbidkar(プールの叔母)

A M Dhannu Lal(プールの叔父)

Govind Lovaniya(プールの父)

Aman Shrivastava(プールの兄)

Tapasya Ji(プールの祖母)

 

【プラディープ関連】

Bhaskar Jha(プラディープ・シン/Pradeep Singh:ジャヤの夫)

 

Arjun Singh(プラディープの父)

Ranjana Tiwari(プラディープの母)

 

Rahul Rajawat(シャンブー/Shambhu:プラディープの手下)

Atishay Akhil(スディール/Sudhir:プラディープの手下)

Vasu Soni(モヒット/Mohit:プラディープの手下)

 

【列車内】

Shivam Ghawariya(水売り)

Bhagwat Kumbhar(列車のフォークシンガー)

Sujeet Kumar(賢そうな列車の乗客)

Keshav Landge(乗客の新聞記者)

Pranali Ugle(列車の乗客、3番目の花嫁)

Shantanu Pandey(列車の乗客、3番目の花婿)

 

【ムルティ駅】

Sanjay Kota(ムルティ駅の警備員)

Vivek Sawrikar(駅長)

 

Arun Gite(クーリー/Coolie:マンジュの店の常連)

Narendra Khatri(ラケシュ/Rakesh:マンジュの店の常連、チャツネの男)

 

【その他】

Aadarsh(ハリ/Hari:?)

Sartaj Shad(アビダ/Abida:?)

Mohan Dewedi(ヴィドゥルの友人)

 

Ramswroop(村に向かうバスの運転手)

 

Shiv Kumar Dubey(小舟の老人)

Bharti(小舟の学生)

Uddham Singh(小舟の学生の先生)

Heeralal(小舟の野菜売り)

 

Gajanan(宝石商)

Shad Mohamad(離俗した男)

Sunil Pathak(サイバーカフェのオーナー)

Mahesh Parmar(旅行代理店)

Mohammad(バーの酔っ払い)

Hemant Soni(服屋)

 

Mahadev Parmar(ジャヤを乗せるバスの運転手)

 


■映画の舞台

 

2001年1月、

インド:ニルマル・プラデーシュ村(架空)

 

ロケ地:

インド:

マディヤ・プラディーシュ州

セホール県バムセリ村&ダンケデイ村

 


■簡単なあらすじ

 

2001年1月、ニルマル・プラディーシュ村で式を終えたディーパクとプールの夫妻は、夫の故郷であるブンガーパル村へと向かった

バス、ボート、列車を経由して向かう旅の途中で、同じようなベールで着飾った花嫁たちと同乗することになった

 

目的地に着いたディパークは妻を引き連れて駅を降り、自分の家へと向かう

だが、着いた先で花嫁を取り違えていたことに気づく

一方その頃、そのまま列車に乗って終着駅のムルティ駅に着いたプールは、夫の不在に慌てふためいた

そんな彼女の元に駅に住んでいる少年チョトゥが声を掛け、駅長室に行くものの、夫の住んでいる土地などがわからず、捜査は難航してしまう

 

ディパークも地元の警察署に向かうものの、妻の姿がわかる写真はなく、進展する様子もなかった

だが、別の署から「同じ時間の同じ列車にて早嫁がいなくなった」という捜査情報が入る

ムルティ署のマノハル警部補は、ディパークの妻が偽名を使っていることを怪しみ、独自に捜査を始めるのである

 

テーマ:花嫁は何を失ったのか

裏テーマ:インド社会の女性の地位向上

 


■ひとこと感想

 

花嫁を取り違えるというのがどうやって起こるのかと思っていたら、インドの慣習がそれを誘発していたというのはビックリでしたね

全く同じ格好をしている花嫁が3人同時に居合わせるという摩訶不思議な状況で、ディーパクがトイレに行っている間に席順が微妙に変わっていました

その後、村に着くまでわからないのですが、本来なら手を取ったりしたらわかったのかな、と思います

 

映画は、その舞台設定をきちんと描きながら、当時のインドの結婚事情などがサラッと描かれていました

また、ムルティ駅の屋台の店主も結婚に対する哲学をきちんと持っていました

そんな中で、ちゃんと育ったと思っていたプールが一番無知だったというのはわかりやすい構成になっていました

 

物語は、ジャヤが偽名を使ってでもディーパクの元に居続ける理由を追っていく流れになっていて、それが単に暴力的な夫というものではない、というところが深くもありました

女性の社会進出という重めの命題よりも、人生を楽しく生きるためにどうするのか、というものを描いていて、とことんまで突っ走ってこそ人生だと思わされます

 


↓ここからネタバレ↓

ネタバレしたくない人は読むのをやめてね


ネタバレ感想

 

本作のネタバレは「ジャヤがどうなるのか」になりますが、これに関しては知らないで見た方が楽しめると思います

また、架空の村を舞台にしていますが、これはインド全土で起こり得る問題として提起しているのだと考えられます

 

映画では、実は演技をしている足の不自由な男などが登場し、人は見かけではわからないというテーマがありました

一方で、ベールで顔を隠していると「人格がわからない」と言われ、その妻がムスリムでヒジャブを着ているというブラックジョークなども登場します

権力を悪用しているように思える警部補が見事な裁きを見せるのが特徴的で、根底には人として大事なものを大切にしているというものもわかります

 

人生に目的のある人でも、苦しんでいる人を見捨てられないという想いがあり、それが最後に自分を救うことに繋がります

一見すれば、フィクションだからで済まされそうなものでも、人としての正しい行いをしていれば、自分の望む方向に人生は動いていくのかな、と感じました

 


社会進出よりも大切なもの

 

本作は、花嫁が偶然取り違えられたことを機に、これをチャンスだと考えるジャヤがいました

彼女は隠れる時間が欲しくて、それがディーパク夫妻を苦しめることになったのですが、事情を説明しても受け入れられなかったように思います

ジャヤの考える人生観というものが一般的だったら理解できたかもしれませんが、インドに根付く家父長制とか男尊女卑的なものを払拭できるほどに現代的な価値観が浸透しているとは思えません

 

女性が家に入ることの是非というのは色々とありますが、社会進出を推進していることで弊害があるのも事実だと思います

それは人間には生物的な役割があって、男性は子どもを産むことができないのですね

なので、家系であるとか、民族などの維持を考えると、その役割を軽視はできなくなってしまいます

理想的なのは、役割を終えた後にスムーズに社会復帰できることなのですが、社会情勢は日々変わり、半年も経てば状況は激変してしまいます

それに即座に対応できるかどうかというところも難しさがあって、社会復帰した後にかつての生活が取り戻せるかという難題があるのだと思います

 

この手の問題が如実になってきたのは核家族化と、世代間の意識のズレというものが顕著になっているからだと思われます

これまでは家族総出で子育てをしてきたものが、夫婦だけで何とかしなければならないと感じているし、また自分たち以外に関わらせたくないという人も増えています

関わらせたくないと思うのは世代間ギャップが存在しているからで、教育方針のズレが生育に影響することを懸念しているとも言えます

単純に親世代、姑との信頼関係がないというのが根底にあるのですが、一番の問題は子どもに対する考え方が変わってきたからだと思います

 

とは言え、1番の根本は国家の政策であり、今ある社会に対応しているだけなのですね

子どもを作ることが裕福に繋がるという社会であればその方向に動く人もいると思うし、役割に対する否定的な考えも薄まると思います

結局のところ、社会進出してくださいねという世の中になって、実際に社会進出をすると、従来的な価値観を捨てざるを得なくなってしまいます

自分の価値が社会にどのような影響を与えるかということに前向きになればなるほど、後回しにされる問題になっているのですね

なので、先進国は自ずと同じ道を辿ることになり、民族を維持できなくなって、移民に頼るか機械化を推し進めて閉鎖的になるかの二択を迫られることになるのかもしれません

 


人を判断することの意味

 

映画では、ディーパクは怒りのあまりジャヤの本質が見えていませんでした

それはジャヤ自身が自分の目的を優先したからであり、ディーパクの怒りは当然のものとなっています

そんな中、ディーパクの友人グンジャンは彼女が只者ではないことに気づいていました

ジャヤは農業を勉強したくてディーパクを巻き込んでいるのですが、農業を目の前にして黙っていられない部分があり、それがグンジャンの気づきに繋がっていました

 

彼女は有機農法によってインドの農業を変えたいと考えていて、女性の社会進出というものを念頭には置いていません

インドは家父長制の強い地域があって、それゆえにジャヤの行動はその根幹を揺るがすものと捉えられがちです

でも、実際には男女という概念を超えて、何かしらの貢献を果たそうと考えていて、過去の遺物の破壊を目論んでいるわけではありません

ジャヤは農業の話をする時だけイキイキとしていて、それがグンジャンの心を掴んでいます

でも、彼はジャヤを自分の元に引き留めようとは考えないのですね

それは、彼の家もまた古い慣習に囚われていて、それと戦う時間すら無意味だということを悟っていたからだと思います

 

グンジャンのような良き理解者が増えれば時代の流れというものも変わっていきますが、このようなうねりというものは、声を高らかにあげれば進むとは限らないのですね

人が人を見て、その人の適材適所への道を妨げない

そこには未来のインドに必要な人材を配するという大きな目的があり、国を壊そうとしている古い慣習が出る幕はありません

でも、現実は声を上げて裾野を広げていくことでしか動かないものもあり、さらにそれ自体が権力化するという歪な状況を生み出しているように思えてなりません

 


120分で人生を少しだけ良くするヒント

 

映画は、ジャヤだけの物語ではなく、取り残されたプールの物語でもありました

彼女はディーパクの家に入って家事をする妻になるところで、それを悪いことだとは思っていません

でも、家の外の世界にふれることで、それだけでは生きていけないことを知りました

プールの家もディーパクの家も裕福とは言い難いところがありますが、駅にはさらに厳しい生活を強いられている人々がいました

 

そんな駅に取り残されたプールは、少年チョトウの助けを借り、マンジュの店を手伝うことで自身の社会性というものを育てていくことになります

彼女が作る料理は、当初は家族を楽しませるものでしたが、それが社会の中で別の役割を担うことに気付きます

そして、そんな社会はもっと過酷なものに見えていて、悲劇的なものであるように思い込んでいました

でも、実際にはアブドゥルは生きていくために足が不自由な演技をしていたし、他人の情を食糧にする強かさというものが必要であることを学んでいきます

 

映画のタイトルは、邦題は現象を追いかけているだけですが、原題は「失われた女性たち」というテーマに即したものになっています

単なる「花嫁取り違いコメディ」と考えるか、家父長制の影響を受けている二人の女性の成長と考えるかで、映画に対する見方というものが変わっています

ジャヤは家父長制によって機会を損なわれそうになりますが、プールもまた慣習の中で疑問を持たずに生きていけば何かを失っていたと言えるでしょう

そして、そんな潜在的なモノを慣習という大枠で見ないふりをすることで、さらに多くのモノが失われていくと言えます

このような機会損失をしないために新たな社会の枠組みを作る必要があるのかな、と感じました

 


■関連リンク

映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)

https://eiga.com/movie/102105/review/04343999/

 

公式HP:

https://movies.shochiku.co.jp/lostladies/

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投稿者 Hiroshi_Takata

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