■神様の言葉しか信じない者は、人の言葉を汲み取れないのだろうか


■オススメ度

 

人間と宗教の関係に興味のある人(★★★)

 


■公式予告編

鑑賞日:2024.4.8(京都シネマ)


■映画情報

 

原題:Vanskabte Land、英題:Godland

情報:2022年、デンマーク&アイスランド&フランス&スウェーデン、143分、G

ジャンル:デンマークから植民地に布教に来る牧師を描いたヒューマンドラマ)

 

監督&脚本:フリーヌル・パルマソン

 

キャスト:

エリオット・クロセット・ホープ/Elliott Crosset Hove(ルーカス:デンマークからアイスランドに布教に来る牧師)

 

イングバール・E・シーグルズソン/Ingvar Sigurðsson(ラグナル:現地を案内する同行人)

ヒルマン・グズヨウンソン/Hilmar Guðjónsson(通訳)

 

ヤコブ・ローマン/Jacob Lohmann(カール:ルーカスの教会を手伝う男、農夫)

ヴィクトリア・カルメン・ソンネ/Vic Carmen Sonne(アンナ:カールの娘、長女)

イーダ・メッキン・フリンスドッティル/Ída Mekkín Hlynsdóttir(イーダ:カールの娘、次女)

 

ワーゲ・サンド/Waage Sandø(ヴィンセント:ルーカスをアイスランドに向かわせる司祭)

 

Snæbjörg Guðmundsdóttir(スナイサ:ラグナルの家族、女性)

Friðrik Hrafn Reynisson(フリッキ:ラグナルの家族、少年)

Friðrik Friðriksson(フリオリク:ラグナルの家族、男性)

Gunnar Bragi Þorsteinsson(グンナー:ラグナルの家族、男性)

 

Ingvar Þórðarson(ウール:馬の餌代を徴収する男)

Ingimundur Grétarsson(郵便局員)

Birta Gunnarsdóttir(若い花嫁)

Ísar Svan Gautason(若い花婿)

Kristinn Guðmundsson(レスリングをする現地民)

Guðmundur Samúelsson(アコーディオン奏者)

 

Svanavatns Jökull Darri(ラグナルの犬)

 


■映画の舞台

 

アイスランド(当時はデンマーク領)

 

ロケ地:

アイスランド:

 


■簡単なあらすじ

 

19世紀後半、キリスト教ルーテル派の牧師ルーカスは、司祭ヴィンセントの計らいにて、植民地のアイスランドへの布教活動を命じられる

現地にはラグナルというガイドがいて、アイスランド語を話せる通訳も同行すると言う

ルーカスは支持通りに海を渡り、陸路を行きながら、その通過地点で写真を撮って回っていた

 

ある日、ルーカスの指示で無理やり増水した川を渡ろうとしたところ、通訳が川に流されて溺れ死んでしまう

通訳がいなくなり、言葉がわからないまま旅を続けるルーカスだったが、疲労が蓄積し、とうとう倒れてしまった

ラグナルは彼を何とか目的地に連れて行き、そこにいるデンマーク出身の農夫カールに彼を託した

 

程なくして目を覚ましたルーカスは、そこでカールの娘アンナとイーダと交流を果たす

近くの納屋に部屋を用意してもらって教会づくりを見守るルーカスは、ラグナルからある頼み事をされる

だが、言葉がわからないルーカスは、彼の頼みを拒絶してしまうのである

 

テーマ:宗教とは何か

裏テーマ:自然と神と人と宗教

 


■ひとこと感想

 

キリスト教の根付いていない土地に行って教会を建てて布教活動に励むと言う物語ですが、実質的にはアイスランドを旅する冒険ロードムービーのようになっていました

淡々とした語り口で、多くを視覚情報で訴える内容になっていて、自然の摂理と宗教の関係を色濃く紐解いて行きます

 

一応は布教活動を描いているのですが、ルーカスがそれに足る人物かどうかを見極める旅だったように思えます

映画を見ると、彼にこそ宗教が必要に思えますが、人を救うのが宗教でないこともわかってしまいます

彼は「聖職者になるためにはどうしたら良いか?と」と聞かれますが、ほぼ言葉遊びのように聞こえました

 

映画は、壮絶な旅の終着点に、さらに過酷な運命を用意していますが、これを神が遣わしたものと考えるか、必然的に起こったことだと考えるかで宗教観というものが見えてくるのかもしれません

確かにあの場所はゴッドランドではありましたが、神様が意地悪なのではなく、身勝手な人間が単なる獣だったということなのだと感じました

 


↓ここからネタバレ↓

ネタバレしたくない人は読むのをやめてね


ネタバレ感想

 

宗教には全く興味がなく、勧誘活動は秒で断るタイプの人間ですが、宗教というのは人から勧められて入るものではないと考えています

自分自身を助けてくれる者がいるかもしれないと縋ること自体にあまり意味を感じていなくて、冷静に目の前で起きていることを理解できるかどうかが鍵であるように思えます

 

映画は、実に中途半端で身勝手な聖職者もどきが教会を建てるという内容になっていて、彼自身の強欲さと傲慢さが身の破滅を呼んでいるように思えてきます

結局のところ、宗教は言葉が通じないと伝わらないとも言え、しかも積極的に相手の言葉を覚えようとしなければ何も始まりません

船の中で言葉を教わる際にも「雨に対する言葉」を真剣に覚えようともしませんでした

 

現地に着くまでに相手のことを知ろうと思えばいくらでも時間があったわけで、それをせずに「自分の言葉をわかる者だけを助ける」という傲慢な姿勢が悲劇を生んでいます

物語としてはかなり淡々としているので観る人を選びますが、退屈に感じる瞬間はそこまでなかったように思えます

とは言え、デンマークとアイスランドの関係性ぐらいは知っておいた方が良いのかもしれません

 


当時の時代背景

 

1900年代前半のデンマーク領アイスランド王国(Konungsríkið Ísland )は、1918年12月1日にデンマークの連合法に署名したことによって、立憲世襲君主制に基づく主権独立国という立場になっていました

この王国は1944年まで続き、国民投票によって、1944年6月「アイスランド共和国」となっています

アイスランドは1380年以来デンマーク王室の統治下にありましたが、正式には1814年まではノルウェーの領土となっていました

1874年にアイスランドの国内規則が制定され、1904年いはアイスランドの自治範囲が拡大されています

 

そして、1918年12月1日、デンマークとの協定である連合法において、アイスランドが完全な主権国家として認められるようになります

アイスランドとデンマークの連合法(Danish-Icelandic Act of Union)によって、アイスランドは独自の国旗を制定し、中立を宣言するようになります

 

映画は、この連合法が生まれる少し前の時代だと考えられ、パンフレットのあらすじによれば「19世紀後半」となっています

植民地に布教活動に行くというものですが、アイスランド自体に独立の機運が高まっている頃なので、デンマーク人への当たりが強くなっているように思えます

広大な土地で、シンボルとなる教会を作る物語ではありますが、ルーカスには「知らない奴に教えてやる」という上から目線の部分がありました

冒頭の通訳との会話でも「植民地の言葉をなぜ覚えないといけないのか」というニュアンスの発言があったので、その傲慢さというものが神様の試練に晒されるという感じになっていたように思います

 


ルーテル派とは何か

 

ルーカスはキリスト教のルーテル派に属する牧師で、これは16世紀にドイツのルター(ルーテル)の宗教改革によって成立したキリスト教の一宗派となります

1517年、ローマ・カトリックの修道司祭だったマルティン・ルターMartin Luther)は、教会内部の改革を目指していました

彼はカトリック教会から破門されていて、明確な信仰基準や組織が必要だと考え始めます

北欧にもルターの教義が広まっていき、スウェーデンではグスタフ1世が、デンマーク=ノルウェーではクリスチャン3世が「ルター派を国教とする」ことによって、権力強化に利用するという流れが起きました

 

1555年、アウクスブルクの和議によって、ルター派はドイツ国内での法的な権利が認められるようになります

その後、ヨーロッパに広まり、移民とともにアメリカに勢力が拡大していきます

また、19世紀以降、ドイツから北欧にルター派が移住し、定住することになりました

映画は、この時期の北欧が舞台なので、デンマークに移住したルター派がアイスランドにも布教活動を広めている最中ということになります

ルーカスが礼拝儀式を重んじ、教会が建っていないので結婚式を挙げないというのは、この宗派のこだわりであり、彼自身が形式にこだわるタイプであるという意味合いになるのだと思います

 

ルター派は、宗教改革の三原則である「聖書のみ(形式原理)」「信仰のみ(内容原理)」「恵みのみ」に基づき、信仰義認の立場を取っています

ルターは、16世紀におけるカトリックの腐敗を行為義認(善行によって神は人を義とする)説に由来するものと考えていて、彼は「信仰によってのみ義とされるパウロ書簡」を根拠として教義を展開していきました

ルーカスはこの教義を前提として行動しているのですが、彼自身は半人前のような存在だと思われます

司祭のヴィンセントは彼に布教活動を授けますが、自治権を主張するアイスランドという背景を知っているので、より逆風が吹くことは想定していたと思います

でも、この苦難を乗り越えてこそ、彼は聖職者になると言えるので、必要な通過儀式であったことは否めないのかな、と感じました

 


120分で人生を少しだけ良くするヒント

 

本作は、試される牧師を描き、過酷な自然に倒れ、自分自身を生かしたものへの感謝を忘れた蛮行を働くことになりました

彼を生かしたのは神の思し召しだと思いますが、信仰の本質を理解していないためか、聖職者の立場を忘れている場面が多いように思えます

彼が牧師たるのは礼拝堂の中だけではなく、その一挙手一投足というものが人々に見られている存在でもありました

そんな彼を「始末」することになったのが、デンマークから移住して、彼とともに教会を建てることになったカールというのが皮肉にも思えます

 

ルーカスの行動を見ていると、材料は人に運ばせるし、食料も人に調達させるし、自分が背負っているのは趣味の写真道具だけで、それを誰かがさわるとキレるというのを繰り返していました

船で行けば困難な山を登ることもなく、自分が倒れこむこともなかったし、増水した川を無理やり渡って通訳まで殺してしまっているのですね

こんな身勝手な彼に「聖職者になるにはどうしたらいいんだい?」というのは「煽り」のようにも思えます

そこで彼は「言ってもわからないだろう」と考えて、「自分にはわかるけど、相手にはわからない言葉」で濁すという手段に出ていました

 

映画のタイトルは、原題だと「変形した(歪な)」という意味になり、アイスランド語だと「悲惨な」というような意味になります

これが英題になると「神の」となるところが最大の皮肉のように思います

歪に見え、悲惨に見える土地は、外部からすれば「神の国」に見えるのですが、それはルーカスが信仰している神とは違うものを意味しているのだと言えます

 

ちなみに、冒頭にて「7枚の写真の発見」というエピソードが綴られるのですが、これはフィクションだそうです

ルーカスが撮った写真は7枚以上あって、記憶が正しければ「船上の集合写真」「雪原のラグナル一家」「教会前の集合写真」「馬に乗ったイーダ」「白塗りのアンナ」「椅子に座るラグナル」「船上の通訳」「滝の通訳」などがあったと思います

その中から「歴史を超えて残ったのが7枚」ということになっていて、そのほとんどに笑顔がないのですね

被写体を笑顔にすることすらできないのは、ルーカスが何をしているのかを相手がわかっていないからだと思います

 

前提条件として、アイスランドで初めて撮られた写真なので、現地にいるアイスランドの人々は写真というものを知らないことになります

妙な小箱があって、布を被って何かをしているけど、何をされているか説明されない

とにかく箱の前で静止しろと言われるだけで、その状況で笑顔が出るはずもありません

カメラの前でリラックスできたのが、通訳、アンナ、イーダというルーカスと同じ言語を操ることができる人物だけ、というのが本質を表しているのでしょう

映画は布教活動を描いていますが、自分の行動を伝えて、相手に理解させるということすらできないのでは、神の言葉を語るということに到達できるはずがないと言えるのではないでしょうか

 


■関連リンク

映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)

https://eiga.com/movie/100977/review/03695489/

 

公式HP:

https://godland-jp.com/

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投稿者 Hiroshi_Takata

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