■境界線を作っているのは、あなた自身ではなく環境なのだと思います
Contents
■オススメ度
理由なく逝った人が身近にいる人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2024.3.25(アップリンク京都)
■映画情報
情報:2024年、日本、118分、G
ジャンル:破天荒なロックミュージシャンとの邂逅を描いた青春映画
監督&脚本:マヒトゥ・ザ・ピーポー
キャスト:(分かった分だけ)
富田健太郎(コウ:単調な日々を過ごす若者)
森山未來(ヒー兄:コウの憧れのバンドマン)
さとうほなみ(るり姉:ヒー兄の彼女)
堀家一希(キラ:ヒー兄の弟、コウとバンドを組むギタリスト)
イワナミユウキ(なみちゃん、コウのバンドのベース)
KIEN(エン:コウのバンドのドラマー)
K-BOMB(ウブ:黒づくめのホームレス)
コムアイ(絵本の読み手)
知久寿焼(絵本の読み手)
吹越満(若頭:地元のヤクザ)
大宮イチ(若頭の運転手)
永山瑛太(久我:若頭の息子)
小泉今日子(ライブハウスの店長)
マヒトゥ・ザ・ピーポー(ヒー兄のバンド「微々」のメンバー)
イーグル・タカ(ヒー兄のバンド「微々」のメンバー)
ヤクモア(ヒー兄のバンド「微々」のメンバー)
石原ロスカル(ヒー兄のバンド「微々」のメンバー)
朝日湖子(はうり:るり姉の娘)
八木橋絵都(久我の妻?)
上野航資(久我の息子)
石倉来輝(サラリーマン?)
結城市朗(漁港の将棋爺さん)
山西規喜(?)
秋田拓海(ライブに向かうスケーター)
湯田冬夢(歌を口ずさむ子ども)
湯田大夢(歌を口ずさむ子ども)
板倉チヒロ(警官?)
中尾聡(警官?)
真白るか(女子大生)
笠間優里(女子大生)
海道力也(ヤクザの構成員)
松見祐輝(ヤクザの構成員)
長谷尾道調(絡んでくる不良)
井上恒太朗(絡んでくる不良?)
藤原陽介(絡んでくる不良?)
■映画の舞台
兵庫県:明石市
ロケ地:
兵庫県:神戸市
クラブ月世界
https://maps.app.goo.gl/TeE3zfD5YAbAqUjJ8?g_st=ic
パルシネマしんこうえん
https://maps.app.goo.gl/gNQSyKJa1SrSZ7P29?g_st=ic
扇港湯
https://maps.app.goo.gl/Ew3uqcJuRNnvhTrD8?g_st=ic
お好み焼き ゆき
https://maps.app.goo.gl/pvmNLSFacmPqXDCr9?g_st=ic
■簡単なあらすじ
煮え切らない毎日を過ごしていたコウは、ある日、ヒー兄と呼ばれているバンドマンに出会った
破天荒で掴みどころのないヒー兄は、地元の子どもたちが歌を口ずさむほどで、ライブハウスでの人気も高かった
だが、あまりにも制御不能な行動は、日の目を見るためには障害でしかなかった
ある日、ヒー兄は「弟のキラとバンドを組め」と言い出し、愛用のギターをコウに渡した
それから、キラ、なみちゃん、エンの4人でバンドを組み、大空に向かって音を奏で始めた
だが、ある時を境にヒー兄の行動はエスカレートしていき、恋人のるり姉ですら抑えの効かないものになっていく
そして、事件は起きてしまうのである
テーマ:表現の先にある自由
裏テーマ:生き様と論理性
■ひとこと感想
憧れのミュージシャンが理解不能な死を遂げたという物語で、それに至るまでの意味のわからなさというものが描かれていました
音楽スタイルから危うさを感じる内容で、冒頭から「映画館で白いスクリーンを眺める」という観念的な映像が流れていきます
このシーンは後半に繋がっていくのですが、いわゆる走馬灯を第三者目線で見たものという感じになっていました
映画は、無機質に思える人生を送ってきた若者がパンチの効いた人間と出会うことで生き方を変えていくというもので、理屈ではない音楽が好きな人向けの内容となっています
個人的にはあまり聴かない系統の音楽でしたが、ライブハウスに全てを忘れに行く層にはハマりそうな予感があります
森山未來のカリスマ性が存分に発揮されていて、脇を固めるキャストも良かったですね
大人になっても、子どものまま青春をしているという感じで、何かのライヴを観に来たような感覚になり映画だったと思いました
ひと言で言えば「すげえの見た」って奴でしょうか
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
タイトルの意味は何なんだろうなあと思ってたら、最初は犬の名前で、次には境界線を越えるイマジナリーの名前になっていたように思います
自分の中にある「現実と虚構を行き来する魂」という印象で、自由に出入りできる人ほど、人生がうまいということになるのでしょう
でも、劇中の人を含めて、多くの人は不器用なので、どちらかの世界に依存しがちなのかな、と感じました
映画は、魂系ミュージシャンの巣窟を見たという感じになっていて、合う合わないははっきりする映画になっています
後半の第四の壁突破の語り掛けは集大成のようなもので、ストレートで熱い言葉を浴びたい人向けの映画になっていました
なんかこう、わかんねえんだけど、とにかく胸が熱いんだ、という感じの言葉にできない感情をそのままぶつける作品になっていましたね
わかりやすく言えば、俺は彼の生き様に火をつけられた、俺はお前に火をつけることができているかい?みたいな感じでしょうか
論理性を重んじるよりも感覚で接した方が良い映画なので、あれこれ細かいことは考えない方が良いのだと思います
■刹那的な人生
爆発力のある人生は、その放散力のせいなのか短命のような感じがあります
持続力のある爆発というものはあまりなく、それは自然界の摂理のように思えてきます
ヒー兄は掴みどころのない人間に見えますが、それは行動だけを追っていくからでしょう
彼の根幹はほぼブレがないのですが、それが周囲には理解しづらくなっています
客観的に見ていると、ヒー兄は成功することで社会の枠組みに入ることを恐れていたように思えます
この先に自由はないことを感じていて、それがあのような突発的な事件を起こしてしまう
それでも、自分だけの問題ではないので、行き場のない感情に支配されていたのかなと感じました
彼が自殺をするときに、ロープを色んなところに括り付けていくのですが、それは直線的な行動ではなく、ロープと戯れていた、みたいな印象を持ってしまうのですね
その延長線上として、しがらみから抜け出せなくなって、死に至ったのかな、と思いました
人生をどう生きるかというのは人それぞれですが、長くゆったりしたい人もいれば、実りのある瞬間的な人生を望んでいく人もいます
映画に登場する漁港の老人は「長くゆったりしている人生」を歩んでいるように見えるのですが、実際には「ヤクザの若頭の父」であり、激動の人生を歩んできた人物でした
今では、「見えない相手と将棋を指している」のですが、おそらくは長らく連れ添った友人が亡くなってしまい、あの場所に取り残されているのだと推測できます
若頭は父と向き合えなかったと言い、そこには親子の断絶の歴史が刻まれているのでしょう
それは、若頭と父との関係性の中でしかわからないもので、ヒー兄はその親子の歴史を知っているようにも思えました
人生というのは刹那的な瞬間の繰り返しのようなもので、そのひとつひとつで幕を閉じる人もいます
そこで幕を閉じる人生は、主観的だと絶頂ということになるのでしょう
それは自分自身が社会性を帯びたら終わるという強迫観念のようなもので、ヒー兄自身が大衆化することを恐れていたのかなと感じました
彼はコウの救世主ではありますが、ヒー兄がコウを自分の世界に連れて来たのも、かつての自分の断片をそこに見たからなのかな、と感じました
■人生の表現方法
本作は監督の実体験を元にしているとのことで、ヒー兄は監督の分身であり、彼の友人の分身であると思います
普段あまり聞かない音楽のジャンルなので、監督自身のライブ活動とかは知らないので恐縮ですが、この界隈のミュージシャンのイメージというものが重なってしまうような気がします
私がロックと関わるのはブラウン管を通してぐらいものですが、それでもテレビが作ってきたロックのイメージというものは強烈なものがあります
それが本当かはわからない部分が多いのですが、人生に対する時間の感覚が違うような感覚だけは感じたりします
人が自分の人生を表現することは稀なことで、多くの人の歴史は半径5メートルぐらいの人しか知らずに終えていくと思います
今ではSNSを通じて半径が広がったような錯覚がありますが、結局のところ、手のひらの世界の中で完結する上辺に過ぎないのは誰もが感じているでしょう
人に五感が与えられているのは、直に接することで感じるものが大切だからで、コロナ禍で代替されたコミュニケーションというものは、気がつけば過去のものになっています
人は人と会ってこそ人を理解できるものではありますが、全てを言語化することはできません
映画をはじめとしたクリエイティブなものは、作り手の一部を示していくものではありますが、その熱量は作り手を支える人たちに伝播していきます
映画は一人では作れないので、監督自身の感覚を重ねつつ、撮影監督の主観や思想が入ったり、演者の感覚が入り込んでいくことがあります
それらをすべてコントロールしようとする監督もいますが、総じて「コントロールできない」ので、それらを編集にて取捨選択するというのが現実的な落とし所になっています
本作でも、色んな要素が混じりながら、それらを形にする中で監督自身の言語化が進んでいるような感覚になるので、要素をうまく構成させることで、ある種の表現が生まれているのかな、と感じました
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
本作は、おそらくはファンムービーになると思うのですが、実際にはライブハウスに日常を忘れに来る人向けの映画だと思います
なので、その世界に身を委ねたことのない人には響きにくい部分があり、その為か客観視してしまうのだと思います
私個人もライブハウスには行ったことがなく、TVで流れる雰囲気ぐらいしか感じたことはないのですが、歌詞などを読んでいると、刹那的な感じがしてしまいます
でも、この「刹那」というのは悪い意味ではなく、その瞬間にしかできないことがある、ということなのですね
なので、今しかできないことをやろうぜ!というメッセージはとても大切なものだと思います
ロックに身を捧げることができるのは、人生では一瞬のことで、その時に周りの環境がどんなだったかで、接することができるかどうかが変わります
個人的な趣向というものもありますが、その時の自分の環境と感情がミスマッチしている時に、ロックの世界への入り口が開くような気がします
そのバイアスが大きければ大きいほどその世界にハマりやすいと思うのですが、それ一言で表現するなら「理想と現実の乖離率」のようなものなのかな、と感じました
個人的な話だと、青春期は両親の離婚騒動があり、極貧生活だったので、音楽というものにふれることができませんでした
テレビもほとんど見られない環境で、ひょうきん族が有害番組で見せてもらえない家庭でした
なんでドリフがOKでひょうきん族がダメなのかは分かりませんが、そういう価値観の家庭だったということになります
その後は、ファミコンはダメでMSXはOK、VHSはダメでβならOKという「流行の逆張り」のような人生だったので、振り返ると貴重な人生だったのかな、と感じました
そんな家庭で育ったので、尾崎豊すら知らない感じで育ち、中学生に入った頃にかなりジェネレーションギャップを感じました
周りで流行っているものは違うし、テレビで見てOKなのはアニメだけだしという感じで、最初に買ったテープ(当時はCDがなく、家にはレコードプレーヤーがなかった)が「ハイスクール奇面組のテーマ曲集」でしたね
その後、高校に入ってからはゲーム音楽に傾倒し、コナミ矩形波クラブのCDを買って、音楽をプログラミングするという方向に舵を切ることになりました
これが私の環境だったのですが、その時に「理想と現実の乖離」というものを感じることがなく、それゆえに「どこかに連れて行ってほしい」という感覚は芽生えることはありませんでした
映画では、コウがヒー兄からギターをもらって、「Eコードで全てが変わるんや」ということを言いますが、その感覚がわからないまま「Eコードを表現するには、E、G+、Bとプログラムに打ち込むんや」という世界で育ったのですね
パソコンは打ち込んだアルファベットをそのまま音で返してくるので、音色を変えるにはまた別のプログラムで変数みたいなものをイジって、そこで理想に近い音を見つけることになります
ギターをかき鳴らした時のように、その場の空気が音楽になるという世界は一種の憧れのようなもので、その世界を知るのは成人して普通に仕事に没頭している頃でした
なので、現実的な生活の中で着実に生きてきて、それなりに充実感があると、その世界には行きにくいのだと思います
ある種、映画は自分の生きている世界とは別世界で、でも存在は知っているという界隈で、でもそのリアルは知らないという不思議な場所でもあります
そう言った世界に生きている人たちが何を考えてどう生きてきたのかは興味があるものの、交わることがないのですね
なので、本作のような映画とか、ミュージシャンの伝記映画などはその人を知らなくても観るようにしています
そこには自分とは違う生き方があるのですが、だからこそ学べるものもたくさんあるし、自分の中にある想像と掛け合わせることで、新しいアイデアなり哲学が生まれるのかな、と感じています
■関連リンク
映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
https://eiga.com/movie/95415/review/03663536/
公式HP: