■異なる端にあっても、メビウスの輪の接続部分のように思えてくる不思議がありました
Contents
■オススメ度
極めて異常な愛情を受け止めたい人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2023.6.15(アップリンク京都)
■映画情報
情報:2023年、日本、98分、PG12
ジャンル:奇妙に見える性愛を描くオムニバス
監督&脚本:井口昇
キャスト:
【第一話:うずく影】
山本愛莉(由美:パワハラを受ける女性)
大野大輔(哲也:由美にパワハラする上司)
【第二話:片腕の花】
八代みなせ(アミ:片腕の女性)
岡田佳大(小出祐輔:アミに恋する高校生)
山本愛莉(ミツコ:祐輔の姉)
中村優一(ユウジ:ミツコの恋人)
井上智春(カオリ:祐輔をいじめる女子高生)
まお(ジュン:祐輔をいじめる女子高生)
石川雄也(カフェの常連客)
大野大輔(カフェの常連客)
中村有沙(珠子:カフェの店員)
【第三話:バタイユの食卓】
中村有沙(珠子:カフェの店員)
九羽紅緒(二瓶烈:女性恐怖症の男性)
(幼少期:井口昇)
春園幸広(珠子の父)
■映画の舞台
日本のどこかの街
ロケ地:
埼玉県:志木市
https://maps.app.goo.gl/Huz7B9LxTbbjXxUd7?g_st=ic
■簡単なあらすじ
【うずく影】
ある部屋で二人きりで仕事をしている由美と哲也だったが、哲也は由美に対する配慮がなく、それに嫌悪感を持っていた
ある時、哲也に謎の男の影が見えるようになり、立場は逆転していく
【片腕の花】
クラスメイトにいじめられている祐輔は、姉と一緒に訪れたカフェにて、片腕の女性に心を奪われてしまう
姉は「見ちゃだめ」というものの、祐輔は彼女に見惚れてしまい、彼女を追うようになる
ある日、彼女の部屋に招かれた祐輔は、彼女の言葉を心に受けて、とある妄想をし始めてしまう
【バタイユの食卓】
幼少期から幻想と思い込みに苦しめられてきた烈は、食事と排泄に悩んでいて、それを自分特有の異常なものだと思い込んでいた
ある日、カフェで食べ物の写真を撮ろうと店員の珠子に許可を取ったところ、勘違いされてしまう
烈は彼女に嘘をついて話を合わせ、彼女をモデルにして写真を撮ることになった
テーマ:愛と集中
裏テーマ:フェチの向こう側
■ひとこと感想
オムニバス形式のヤバそうな空気の予告編だけで鑑賞を決めたのですが、どう形容して良いか悩むほどに「異端」で「純潔」な物語でした
同じような悩みや苦しみは、その程度こそあれ誰にでもあるものでしょう
本作は、そこに愛の正体を追いかけていて、その姿勢が異常に見えて普通という感じになっていました
「うずく影」では、男女のパワーバランスが逆転するのですが、SとMの関係が固定でないことを知っていれば理解しやすい物語でした
「片腕の花」では、見てはいけないと思うと見てしまうというもので、なぜ見たくなるのか、というところにフォーカスを当てています
「バタイユの食卓」では、あるきっかけから相手の深いところに手を突っ込んでしまった二人が描かれ、そこにある愛をブラッシュアップさせていきます
これらの物語は単独で成り立つものではありますが、キャストがうまく連鎖していて、立場というものがズレた時に起こることを描いているように思えます
常にそばにいる(ある)ものが視点を変えたり、関わりを持ったりすることで、それまでに認知していなかった相手(自分)を深掘りする、というテーマが込められていましたね
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
率直な感想は、「よく、この内容を映像にしようと思ったなあ」でした
フェチの一点突破型の作品ではありますが、思ってても誰もやらないことをやったという印象がありますね
青春期に起こる様々な葛藤がメインになっていて、大人ならあるある、同世代なら「俺の物語」という感じに思えるのではないでしょうか
女性に対する理想的な思考とか、自分の体は特殊なんじゃないかと思う恐怖心とか、それぞれを理解するには個体差があって、それは精神の未熟さとはどこか違う感覚があるのだと思います
あえて言うなら、自分の体の変化をどのように捉えるかと言う理解と、世界と自分との距離感というものが大事なのかもしれません
映画では、様々な愛が描かれていて、それらはきめ細やかにブラッシュアップされた純なるものとして描かれています
これらの愛はどこにでもあるものですが、それらは見せようとしないし、見たいとも思わないものが多いと思います
あまりにも純すぎるゆえに、それを曝け出せない自分が気恥ずかしくも思いますが、それが普通の感覚なのかもしれません
■純なるものが穢れるとき
3つの物語で共通するのは、「純なる愛」というもので、社会的な立場が溝になって、明言できない感情がそれを埋めていきます
「うずく影」では、SとMの逆転が起こり、それは元からあった欲望を顕在化させるに至っています
当初は由美がMで、哲也がSのように進行していくのですが、哲也のS的行動は「関係性の逆転」を目論んだ過剰に演出されたSだったのですね
社会的な立場としての「上司と部下」という間柄は「SとM」の構造になりがちですが、この二人の本質は真逆で、社会的な立場によって抑圧されていたことがわかります
「片腕の花」は、障害者と少年という構図になっていて、祐輔はアミの失われた腕に性的なものを感じています
腕から花が咲くイメージショットがあったように、祐輔の中にあった喪失願望のようなものが顕在化し、理解不能な領域に精神を追いやることで快感を貪っています
彼がアミの腕をさわりたがるのは、あの穴に自分を入れたいという衝動が働いていて、それは社会的にも人道的にも倫理的にも許されるものではありません
「バタイユの食卓」では、生命の秘匿の部分が露わになり、摂食と排泄についての関係性が描かれていきます
女性を神秘化する烈は、珠子の秘匿にふれることになり、そこで羞恥的な快楽というものを貪ります
烈の理想が壊れていくのと同時に、新たな神秘性を感じていく
その純度を上げていくことで、歪な行動が正当化されていきます
これらの男女の秘匿は、それぞれに対して持つ理想が「穢されたもの」になっているのですが、同時に深層心理が望んでいたものを顕在化させていきます
穢れてしまったことで、さらに浮き立つ美というものがあって、「穢れ」単体では良くないと思っていても、それによって「本来の美」が強調されていくのですね
そうして、純なるものはさらに純度を増して、輝くことになったのではないでしょうか
■純なるものが愛されるとき
映画では、元からあった「純なるもの」が穢れによって純度を増していく様子が描かれています
「うずく影」の服従願望は、その行為に準じている双方の欲望を満たし、自然と逆転現象へと向かいました
そのきっかけを積み上げていくのが哲也の役割で、これを古典的な言葉で言い換えると「好きな娘との関わりを深めたいために、相手の嫌なことをわざと行う」ということになります
これを社会人バージョンに昇華させたものが、「うずく影」の関係性だったといえます
「片腕の花」では、祐輔の弱さを鼓舞するアミが描かれ、アミとの関わりの中で、自分の中にあった支配願望というものが目覚めていきます
欠損を愛するという行為は、自分の中にある優生的な価値観の顕在化でもあり、それは祐輔の弱さと直結しているように思えます
祐輔から見たアミはとても強い女性として描かれていて、その存在はさらに自分を弱めていくように思えます
でも、そんな自分を彼は愛していて、愛する人に自由にされることを望んでいたりもします
「バタイユの食卓」では、烈も珠子も排泄に問題を抱えていて、それによって摂食障害のようなことになっています
排泄するものを少なくするために摂食を控えていますが、苦痛を伴っていても、それが快楽に変わりつつあるように思えてきます
最終的には、珠子の内なるものを目撃することになり、それによって愛の純度を高めるために感覚を奪っていく行為につながっていきます
「片腕の花」で人を殺傷するためのナイフが、「バタイユの食卓」では愛を深める道具になる
この辺りの仕掛けが深くて面白いと感じました
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
全3章から成るストーリーにはタイトルがあって、それぞれには意味深なものになっていました
個人的な見解も含めて、タイトルの所以や物語の並び順についての考察をしていきたいと思います
「うずく影」は、「深層心理にあった本質」が表層へと向かおうとしていることを示唆していると考えられます
うずくというのは、耐えていることを意味し、影も自分の後ろ側に追いやっているもう一人の自分であると言えます
影が光に取り変わろうとしている焦燥を描き、それによって光と影が反転を迎えるのですが、実は「影だと思っていたものは光だった」ということが暴かれているのだと思います
「片腕の花」は、そのままのビジュアルが登場しましたが、傷口から花が咲くというのは、内面に潜んでいたものが露出するという意味合いを持ちます
これも「うずく影」と同様に、内面を「花」と置き換えていて、それが潜んでいる場所を特定しているのですね
「花」と表現しているのは、祐輔自身がアミに抱えている感情を表していて、好意的に捉えているということになります
でも、「花の美しさは永遠ではない」ので、祐輔が「花」から卒業する日が来るという意味も含まれていると考えられます
「バタイユの食卓」は、ジョルジュ・バタイユ(Geroges Bataille)の引用で、彼はフランスの哲学者でした
彼の思想では、基本的唯物論の発展があり、哲学的な対立を不安定化させる狙いを持っていました
ニーチェの影響を受けて無神論者となり、「死とエロスを根源的なテーマ」として掲げていました
一見すると関係なさそうに思えるのですが、この引用は彼が偽名で出版した『眼球譚』に依るものだと思われます
『眼球譚』を1928年に発表したバタイユは、ロード・オーシュ(Lord Auch)というペンネームを使っていました
この「Lord Auch」は「排便する神」という意味があるとされています
『眼球譚』では、語り手とシモーヌという少女が登場し、シモーヌの友人マルセルが精神病院に入ることになってしまいます
その病院に語り手とシモーヌが侵入することになる、というお話です
自伝的な部分が多いのとのことで、ウィキのあらすじでは何の話かわかりません
興味のある方は読んだ方が早いと思うのですが、ハードルが高そうな書籍ですね
Amazonのリンクだけ貼っておきます
3つのタイトルに共通するのは「解放したい秘密がある」というところでしょうか
もしくは「秘密の解放によってもたらされる快感」というものが主題なのかもしれません
かなり異質な物語ではあるものの、どの主人公も「主人公的にはハッピーエンド」に思えるものばかりですね
共感性はかなり低かったのですが、理解できないことはないという印象があります
率直な感想としては、映画制作という行為そのものが、監督にとっての「秘密の解放」であり、「快楽」なのかなと思ってしまいました
■関連リンク
Yahoo!映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
https://movies.yahoo.co.jp/movie/387334/review/415f28c4-2777-4187-b5d9-fb24f1462563/
公式HP:
https://itannojunai.wixsite.com/official