■アダの喪失は、かつての喪失回復に向かうための大切な儀式だったのかもしれません
Contents
■オススメ度
奇妙な物語に興味のある人(★★★)
喪失と略奪の物語に興味のある人(★★★)
出オチ系ネタ映画に身を委ねたい人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2022.9.24(MOVIX京都)
■映画情報
原題:Dýrið(「動物」という意味)、英題:Lamb
情報:2021年、アイスランド&スウェーデン&ポーランド、106分、R15+
ジャンル:子どもを失った夫婦の元に奇妙な半人半羊が授けられるヒューマンドラマ
監督:バンデミール・ヨハンソン
脚本:ショーン&バンデミール・ヨハンソン
キャスト:
ノオミ・ラパス/Noomi Rapace(マリア:羊飼いの妻、娘を幼い頃に亡くしている)
ヒナミル・スナイル・グブズナソン/Hilmir Snær Guðnason(イングヴァル:マリアの夫)
Lára Björk Hall(アダの声、夫婦の元に現れる半人半羊の子ども)
ビョルン・フリーヌル・ハラルドソン/Björn Hlynur Haraldsson(ペートゥル:イングヴァルの弟)
イングバール・E・シーグルズソン/Ingvar Eggert Sigurðsson(TVの男)
Ester Bibi(ペートゥルを置き去りにする女)
Arnþruður Dögg Sigurðardóttir(ペートゥルを置き去りにする女)
Theodór Ingi Ólafsson(ペートゥルを置き去りにする男)
Sigurður Elvar Viðarson(トラックの運転手)
Gunnar Þor Karlsson(バスの運転手)
■映画の舞台
アイスランド
ロケ地:
アイスランド:
フラガ(地図は「Víðidalstunga」でこの場所の少し東側)
https://maps.app.goo.gl/mPyjb5DffJHX9ury7?g_st=ic
■簡単なあらすじ
アイスランド北東部の平原地帯に住むマリアとイングヴァルの夫婦は、幼い娘を亡くしていて、今では会話も少なく、日々の糧を得るために生活を続けていた
ある日、雌羊の出産に立ち会った二人は、そこで「頭は羊、体は人間」の赤ん坊を取り上げることになった
二人は「それ」にアダという亡き娘の名前をつけて、我が子を育てるように接していく
アダはスクスクと育ち、二人の言葉を理解しているが、人語を喋ることはできなかった
そんな折、イングヴァルの弟ペートゥルが転がり込んできた
ペートゥルは状況に驚くものの、イングマールは「我々に深く立ち入るな」と忠告する
気味の悪い生活に紛れ込んだペートゥルは、とうとうアダを殺そうと、二人が寝静まった頃合いを見計らって、外に連れ出すことになったのである
テーマ:因果応報
裏テーマ:動物的とは何か
■ひとこと感想
予告編でガッツリと「羊少女」がガッツリと映っているので、第一段階のネタバレに来るまで随分と長く待たされる印象があります
映画は三幕構成なのですが、一幕の日常パートの前半がやたら長く、でも二人がどうやって糧を得ているのかほとんどわかりません
テレビはあるけどVHSだし、ハンドボール?に熱を入れる様子なども描かれていて、一応は一般的なアイスランドの生活なのかなと思ってしまいます
二人がどこでどうやって出会ったのかなどのバックボーンは完全無視で、親族はペートゥル以外には出てきません
神話とか宗教が絡んでいそうに思いますが、彼らが何かを信仰しているシーンも皆無でしたね
おそらくは北欧神話がベースなのだと思いますが、人間に置き換えた方が彼らの罪に関してはわかりやすいかもしれません
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
羊飼いが自分の飼っている羊の子どもを奪って育てるという構図は、マリアたちの日常のそのままのように見えます
でも、アダを人間に置き換えると、自分の子どもが死んだので、他人の赤ん坊を奪って、さらに取りに返しにきた母親を殺すという展開に見えて、救いようのない話になってしまいます
そりゃあ、父親激おこですよね案件なので、マリアが殺されなかったのは奇跡的なことだと言えます
なぜ、ラムマン(パンフではこの名前になっている)がマリアを殺さなかったのが謎ではありますが、それ以外にも謎すぎることが多すぎるので、どこをどう整理したら良いのか悩んでしまいます
神話とか宗教とは後々調べるとして、映画単体から感じるのは「因果応報」というものと、アダを人間的(羊人間)に育てるために時を与えたのかなと感じました
もし、マリアは母羊を殺さなければ、イングヴァルは殺されなかったかはわかりませんが、ラムマンにとってみれば「人間の女性は必要だけど、男性は不要」というマインドがあったりするのかなと勘繰ってしまいますね
■アダの両手が違う意味
ラムマンのパッと見は「ミノタウロス」なのですが、ミノタウロスはギリシャ神話に登場する牛頭人なので、微妙に違うんだろうなあと思っていました
主人公夫妻は羊飼いで、羊飼いといえばキリスト教のことを思い出します
キリスト教では、良い羊飼いへの信仰と信頼を重視していて、「神の子羊」はイエス・キリストのことを意味します
キリストは生贄の役割を果たすことで、人々の罪に対する贖罪をするというものが一般的な理解になると思います
映画に登場するアダは「左手が人間の手で、右手が羊の手になっている」のですが、このデザインになったのは監督のイメージだったそうです
先のキリスト教の話と絡めると、左手は「悪魔が宿る」とされていて、病気が左手から来るなんて言われたりもします
キリスト教圏で描かれる悪魔は左利きで、かつては「娼婦は左手の女房」なんて言われ方もしていました
これがもし関連付いているとしたら、アダに対する災いは人間がもたらすという意味になります
実際にアダの母親を殺したのは人間であるマリアですし、その対極になるのはラムマンですね
ちなみにラムマンは両方の手が人間っぽくなっていて、銃を取り扱えるほど自由に動かせます
この手が悪魔でも人でもないとしたら、いわゆる神様の手ということになるのかなと思いました
■アダが女性である理由
アダは羊の子として生まれ、人間の子として育てられ、ラムマンの元に連れ去られます
ラムマンの正体がはっきりとわかりませんが、おそらくは羊と人間のハイブリッドの進化系で、ひょっとしたら「雄しかいない」のかなと思ってしまいました
それは、ラムマンが普通の雌羊に種付けをするからで、ラムマン族に雌がいるならば、わざわざ雌羊に種付けする必要はないからですね
でも、羊に育てさせると羊になってしまうので、そこで人間の登場が不可欠なのかなと考えていました
映画ではアダが人間のように育ち、リモコンを手で消すという動作ができるまで成長します
アダの種族の成人の規定はわかりませんが、ラムマンが迎えにきた時期を考えると、「言語を認識できる」という段階と、人間の手を使えるという運動能力は必要なのかなと思いました
ちなみにアダは雌で、彼女がラムマンのようになるとしたら、ラムマン族の雌の成人になりますね
実際にアダが雌なのかははっきりしないのですが、パンフなどの説明だと「少女」と書かれているので、設定としては「女性」ということになります
ラムマンにとって女性が生まれるということの意味合いは強く、近親配合をするかどうかは別として、ラムマン同士での交配すなわち出産が行えることになります
アダはラムマン族のマリア的な存在でもあり、今後「純粋なラムマンを産む」のかもしれません
映画はそれ自体が神話的かつ寓話的でしたので、ある意味においては、ラムマン族の本当の始まりを描いているのかなとも思えてしまいます
人間はラムマン族を正当な種族に押し上げるための従者のようなもので、禁忌(羊を殺す)を犯したことで神様の怒りを買ってしまったと解釈できるのではないでしょうか
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
映画はダークホラーなのかファンタジーなのか分類が難しい感じに仕上がっていますが、個人的な感覚では「ラムマン族の神話」であると思います
ここで描かれているのは「ラムマンの純血種族の誕生」と、ラムマンとしての生き方の提示のようなものになります
本編で登場する禁忌は、母殺しの他にも配偶者ではない異性との交配などもあり、母性と父性の役割、因果応報などの多くの教訓めいたものが含まれていると思います
人間目線で映画を見ると確かにホラーなのですが、神話映画である側面も感じ取れる内容になっています
人間の愚かの寓話でもあり、古典的な「子どもを授かれない夫婦」が「他者の子どもを奪い育てる」というテンプレートに近似します
マリアとイングヴァルは、子どもが死んでしまった故に羊人間であるアダを無条件で受け入れていて、喪失を癒すものの正体に踏み込んでいきます
それはマリアたちにとってみればギフトだったのですが、同時にこの関係性のおかしさというものをペートゥルの視点で突っ込んでいるのはシュールでした
後半になって、アダは自分の姿を鏡で見ることによってアイデンティティに目覚め始め、同時に「羊の群れの絵画」を見ることによって、自分の属性というものに疑問を持ちます
飼われるものではないという肯定感と、人間との従属的な関係の示唆はアダを不安定にさせるには十分だったのかなと思います
マリアたちは潜在的に羊とは劣等なものであると感じていて、それがアダの母羊への扱いに現れています
また、絵画をしまうことなく飾っているのも、そういった思考が根底から剥がれ落ちていないということを意味しているのでしょう
アダがその絵画を見たら何を思うのかとか、鏡を見て「マリアとの違い」を感じることであるとかには無頓着だったりします
これはそのままマリアの子どもに対する関係性の露出なのかまではわかりません
でも、マリア自身が身勝手な人間であることは疑いようもなく、その人間性はやがて子どもに対する攻撃性に向かう可能性は否定できません
アダは反抗期に入る前にラムマンによって連れ去られているのですが(反抗期があるかもわからないけど)、もし人間とのハイブリッドであるならば、そういった性質を兼ね備えている可能性は非常に高いと言えるでしょう
映画は奇妙な物語として帰結を迎え、何かを悟ったようなマリアの表情で幕を閉じます
彼女が何を思ったのかは観客の想像に委ねるという感じですが、この一連の出来事によって、マリア自身も過去の喪失から立ち直れた可能性はありますね
そうなると、彼女の身勝手さというものを加味すれば、ペートゥルとの関係を再開させるというのはアリなのでしょう
ペートゥルにイングヴァルほどの経済的な自立を望めるのかはわかりませんが、彼は意外とマリアに従順なように見えるので、二人の間に子どもが生まれたりしたら、もっと自立した人間になれるのかなと感じました
ちなみに劇中では一度だけイングヴァルとマリアがセックスしているシーンがあったので、新たな命が誕生するかもしれません
そうなった時、マリアが一人で育てられるかはわからないので、代理父としてペートゥルが必要とされる未来があるかもしれません
そう考えると、「代理」というものが本作を貫いているテーマのようにも思えてきますね
何が正解かはわかりませんが、色々と考えることができて、そういうのが好きな人にはウケが良いかもしれません
■関連リンク
Yahoo!映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
https://movies.yahoo.co.jp/movie/382470/review/222dce4b-5c12-4f6d-b12c-ad0ce93b05dc/
公式HP:
https://klockworx-v.com/lamb/