■窓辺から差し込む光は、何を透過して、何を映し出していくのだろうか
Contents
■オススメ度
今泉力哉作品のファンの人(★★★)
「好きとは何か」を考えてみたい人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2022.11.4(アップリンク京都)
■映画情報
情報:2022年、日本、143分、G
ジャンル:妻の浮気を知った夫の内面を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本:今泉力哉
キャスト:
稲垣吾郎(市川茂己:フリーライター、かつて1冊だけ小説を書いた男)
中村ゆり(市川紗衣:茂己の妻、小説家・荒川円の担当編集者)
玉城ティナ(久保留亜:高校生作家、文学賞・吉田十三賞受賞作「ラ・フランス」執筆)
佐々木詩音(荒川円:紗衣の担当作家、ベストセラー作家、「シーサイド」「永遠に手をかける」執筆)
若葉竜也(有坂正嗣:茂己の友人、スポーツ選手)
志田未来(有坂ゆきの:正嗣の妻)
松本紗瑛(有坂景:正嗣とゆきの娘)
倉悠貴(水木優二:久保留亜の彼氏)
斉藤陽一郎(カワナベ:留亜の伯父)
穂志もえか(藤沢なつ:正嗣の不倫相手、人気モデル)
松金よね子(三輪ハル:紗衣の母)
大河内健太郎(正嗣のリハビリコーチ)
中尾有伽(パチ屋の姉ちゃん)
木村友貴(清田みずうみ:タクシーの運転手)
岡部成司(文学賞のインタビュアー)
■映画の舞台
東京都心
ロケ地:
東京都:大田区
珈琲亭ルアン(留亜にサインする喫茶店)
https://maps.app.goo.gl/8ftDNvVJqtMKSLTi8?g_st=ic
東京都:新宿区
コトカフェ(パフェを食べる喫茶店)
https://maps.google.com?g_st=ic
東京都:世田谷区
Propaganda(茂己と荒川が会う店)
https://maps.app.goo.gl/pRmyFKYn25CNUvGo7?g_st=ic
神奈川県:横浜市
ローズホテル横浜
https://maps.app.goo.gl/u8LZ8piHMZY4Rsuk9?g_st=ic
東京都:豊島区
HOTEL APERTO 大塚
https://maps.app.goo.gl/TnbRvFgHETkZCLqz7?g_st=ic
東京都:渋谷区
Atelier De Mar
https://maps.app.goo.gl/CGK6iTjC5U86eSQJA?g_st=ic
■簡単なあらすじ
フリーライターとして文筆業をしている茂己は、ある喫茶店で「ラ・フランス」と言う高校生作家・久保留亜の小説を読んでいた
「ラ・フランス」は来る文学賞「吉田十三賞」の候補作であり、個人的に気に入っている作家だった
その賞には、妻・紗衣が担当する作家・荒川円の小説「シーサイド」もノミネートされていて、茂己は候補作を全てちゃんと読んでいた
賞レースは「ラ・フランス」に軍配が上がり、その授賞式のインタビュアーとして、茂己は列席をする
そこで茂己は作品の感想を聞かれ、「何でも手に入れる人がすぐにそれを捨てる」と言う小説のエピソードについて言及をした
留亜に気に入られた茂己は控室に呼ばれ、それから頻繁に二人きりでカフェで会うようになる
そこで茂己が「モデルとなる人はいるのか?」と尋ねると、留亜は「会いたい?」と聞き返した
茂己にはある悩みがあって、それは親友のスポーツ選手の正嗣にも話せず、その不確かな感情の答えを探し求めている
彼は「ラ・フランス」の中にそのヒントを見たような気がして、そして、その世界に深入りしていく
テーマ:好きとは何か
裏テーマ:執筆の意味
■ひとこと感想
クリエイターあるある系の哲学が満載の作品で、何かしらの個人的な内面をかたちにしたことがある人ならグサリとくる内容でしたね
基本的に会話劇で、大それたことも起こらず、物語は淡々と進んでいきます
そのため、前半は結構な確率で寝てしまうかもしれない感じになっていました
中盤で留亜の彼氏と会ったり、山奥のコテージで伯父と会ったりするあたりから面白くなるのですが、前置きが随分と長いような気がしました
また、登場人物すべての感情を整理しようとしていたので、最後の方は「時間的な長さ」と言うものを感じてしまいます
映画は「妻の浮気を知ったけど、何の感情も湧かなかった茂己」が、その理由を探していくと言うものですね
「怒りが湧いてこないのは好きではないからなのか?」など、自分の内面を抉っていくことで、その答えに近づこうとしていました
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
恋愛哲学が凝縮されたような作品で、ハッとさせられる台詞が多かったように思います
それぞれに刺さるものは違うのでしょうが、私としては荒川が茂己に言う「書くと過去になる」と言うシークエンスでしょうか
作家同士だからわかる「書き下ろされた物語への感覚」と言うものがあって、これまで様々な反応を見せてきた茂己が唯一言葉を詰まらせたシーンでもあります
紗衣の物語を書かなかった理由は、その恋愛が現在進行形で変化するものだったからで、過去の恋愛はすでに変化を終えたから書けたとも言えますね
過去の恋愛に「STANDARD」とタイトルをつける茂己は、その恋愛が「自分の観念を作りながら、関係を支配してきた「型(普遍性)」のようなものだった」と定義しているのだと思います
■作家が作品に落とし込む自分
作家に限らず、何かしらのクリエイターというものは、自分が作るものの中に自分を落とし込みます
モノを作っている人でも、そのモノを使う自分が投影されるし、身近な人がモノを使って喜ぶ姿というのを念頭に置きます
こうした自分の投影が極度に研ぎ澄まされているのが小説ではないかと考えています
小説にはノンフィクション、フィクションを問わずに多くの人物が登場し、そのキャラクターの肉付けは「作家の知り得るもの」以外にはリアリティを持ちません
このブログにしても、私個人の過去の体験などを引用できるものはリアルに感じられるでしょうし、そうでないものは「想像の範囲だな」と読んでいてもわかると思います
全てを体験できる訳ではないので、投影は無限にはできません
でも、体験量=投影量ではないという真髄があったりします
人は多くの過去を持ち、選択と行動の末に今があります
この映画のキャラクターにもそれはあって、妻の浮気に無感動なキャラというのは作家の中に存在する何かであると思います
実際にモデルがいるケースもあれば、モデルと自分が混在するなどの場合もあり、虚構で装飾しつつ自分は本質の中に落とし込むという場合もあります
映画のラストでは、荒川が書いた「永遠に手をかける」を読んだ優二は、そこに登場する「茂己がモデルと思われる人物」について「SFだ」と表現していました
これは荒川が茂己をモデルとして登場させたけど、茂己の中にある深淵までは辿り着けなかったという意味合いもあるでしょう
また、優二自身の自分の中にない価値観でもあったので、それを表するときに「フィクションではなくサイエンス・フィクション」という物言いになっていました
この語彙に関しては、優二のキャラは小説を読まないタイプで、さまざまな事象に対する言語化に優れていないからだと思います
そんな優二がどのような比喩表現をするかと考えた末に、「いるとは思えないモノ=宇宙人」という彼なりの観念で表現されることになりました
この「宇宙人」という感覚は茂己にも思うところがあって、それで妙に納得感を伴っていました
茂己自身が自分を言語化できなかったのですが、それを優二はやってのけたのですね
それが映画を観ている観客と同じような言葉選びになっているところがうまいなあと思いました
■「永遠に手をかける」には何が書かれていたか
劇中では「ラ・フランス」に関しては朗読劇になっていて詳細がわかるのですが、それ以外の作品はあまり劇中に登場しません
それでも、「永遠に手をかける」が茂己と紗衣&荒川の物語であるように、「STANDARD」も茂己と元カノの物語であったことは言及されていました
優二の感想から想像すると、「荒川目線の一人称で、その中に紗衣と茂己が登場する」のだと思います
そして、妻と不倫をする中で夫・茂己と出会い、彼が自分が不倫相手だとは知らずに相談をしてきたというような物語になるのでしょう
映画では茂己の相談相手は留亜の叔父になっていましたが、小説の中では荒川自身だったのではないかと思います
荒川は茂己の苦悩を知り、不倫関係の中で妻から見た夫というものを知っています
それによって、茂己という人物の輪郭が帯びてくるのですが、茂己の感性の全てを荒川は表現できていません
それは実際に彼が結婚をして、妻が不倫をしたときに感じるリアルというものがないからだと言えます
なので、荒川としては、夫婦生活の末に至る不倫に関して、不倫された夫の立場を想像で書くしかありません
それがフワッとした感覚になって、フィクションではないという優二の表現につながっています
フィクションに出てくる人物は虚実を交えても、どこかにいると思わせたり、読者側のリアルの中にいる仮の姿になっています
でも、宇宙人レベルになってくると、それはもう取り止めのないもので、想像力が豊かと言っても、きちんとした実像には近づきようがありません
これが創作の限界でありますが、同時に「面白さ」というものは、いかにして「いそうにない人にリアルを持たせるか」という技術が必要であると言い換えることもできます
「永遠に手をかける」というのは、「ずっと続いていて、これからも続いていくであろうこと」に対して、自分の手を差し出して、これまでの循環に変化をもたらすことだと言えます
対する茂己の書いた「STANDARD」も同じように、過去の恋愛を普遍的なものとして描いてきたと言えるでしょう
この作品が紗衣を傷つけるのは、茂己の心がまだそこに残っていると感じるからでしょう
自分の行動に対して反応のない夫を見て、紗衣は不安を感じています
このあたりは男女の感覚の違いになると思いますが、反応を求めて波風を起こすというのは誰にでもある感情でしょう
だが、そういったものがあっても茂己は無感動で、それが「自分が愛されていないのでは?」という疑問へとつながったと思えてなりません
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
映画のタイトルは「窓辺にて」になっていて、シーンとしては「喫茶店の窓際の席」というニュアンスになると思います
そこでキャラクターが取る行動は「窓から差し込む光を手にかざす」というものでした
指に光を当てて指輪に見立てるのですが、後半で茂己がそれを行うシーンではもう指輪はなかったように思います
窓辺よりも外の方が明るいことが多くて、そこから差し込む光は「部屋の一部分」を照らしていきます
光が遮蔽物のない場所まで到達するさまは、まるで人が相手を見据える時の視線のようにすら思えてきます
映画ではこの光の効果がたくさん使われていて、光と人物の間には柔らかなカーテンがありました
このカーテンは外界と自分を隔てる心の壁のようにも思え、それでもなお、外側の光はそれらを透過して訪れてきます
光は常に対象物の一部分を照らして浮かび上がらせますが、その全体像というものを見ることはできません
何かの裏側に光が当たっても、その物体の裏側を直接見ることはできないと同じことです
映画は体験を文章に落とし込んでいく人々が描かれ、それらの「生」というものが表層であることを示していました
自分自身の全てを見るには内側に光を持たなくてはいけません
そして、その中心から自分自身を見なければ、見えるものは断片的なものになると言えるでしょう
全体を俯瞰するには「物理的に見る」のではなく、感覚的に捉えるということが必要となります
その視点が持てたとき、人は「面白い話」というものが書けるようになるのかもしれませんね
■関連リンク
Yahoo!映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
https://movies.yahoo.co.jp/movie/383213/review/55f78d18-1fb5-49f2-a8fc-5c294c6dad7c/
公式HP:
https://www.madobenite.com/