■失くしていないと思っている人ほど、大切なものを失くしている感じがしますね
Contents
■オススメ度
心を抉る物語に興味がある人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2024.5.18(イオンシネマ京都桂川)
■映画情報
英題:Missing
情報:2024年、日本、119分、G
ジャンル:娘を失った両親の葛藤を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本:吉田恵輔
キャスト:
石原さとみ(森下沙織里:失踪した娘を探す母)
青木崇高(森下豊:沙織里の夫)
有田麗未(森下美羽:失踪する娘)
森優作(土居圭吾:沙織里の弟、最後の目撃者)
美保純(土居真知子:沙織里の母、みかん農園)
中村倫也(砂田:地元のテレビ局の記者)
小野花梨(三谷:新人記者)
細川岳(不破:カメラマン)
小倉聖矢(新しいカメラマン)
柳憂怜(村岡康二:事件の担当刑事)
粕谷吉洋(キレてる男の相手する警官)
中澤功(キレてる男)
小松和重(目黒和寿:砂田の上司)
山本直寛(駒井力:砂田の後輩)
矢野竜司(水谷:砂田の上司)
難波圭一(テレビ局の局長)
佐藤友佳子(女性のデスク)
阿岐之将一(ニュースアンカー)
高田衿奈(ニュースアンカー)
大須みづほ(宇野久美:類似事件の被害者)
橋本羽仁衣(宇野さくら:類似事件の失踪少女)
水野直(井形:久美の元交際相手)
カトウシンスケ(木村宗介:圭吾の同僚)
齋藤英文(コンクリ会社の社長)
矢野昌幸(バキューム作業員)
岩本賢一(漁業組合の組長)
久松龍一(漁業組合の幹部)
三島ゆたか(漁業組合の組員)
佐倉孝治(印刷工場の社長)
鉾田智子(印刷工場の社長の妻)
岡本篤(誹謗中傷を担当する弁護士)
徳留歌織(ホテルの従業員)
和気龍太郎(スーパーの店員)
岩見美映(スーパーのクレーマー)
植吉(スクールボランティア)
藤原絵里(スクールボランティア担当者)
内藤トモヤ(仲本洋平:捜索ボランティア)
宮咲久美子(捜索ボランティアのおばちゃん)
今井柊斗(ゲーセンの不良)
伊藤凌太郎(ゲーセンの不良)
木下紗菜(ゲーセンの不良)
入沢光陽(ゲーセンの不良)
福田温子(ホテルの母親)
和田葵(ホテルの少女)
恵田侑典(路上の父、ホテルの母娘の夫)
三村伸子(路上のビラ受けるおばさん)
持田加奈子(路上の口論女)
平塚真介(路上の口論男)
石崎竜史(水難事故の父)
長田涼子(水難事故の母)
廻飛呂男(坂口市長)
玉置優允(市長の息子)
氏家恵(みかん農園のパートのおばちゃん)
仁科咲姫(みかん園の新人)
日高ボブ美(片山千絵:沙織里の知り合い)
伊藤杏(片山サキ:千絵の娘、ピアノ教室)
浅見史歩(路上で聞き込みされる少女)
入江龍樹(信号渡る少年)
志水心音(団地の娘)
中條サエ子(団地の娘の母)
旺輝(タカシ:団地の男)
佐久間あゆみ(路上の不良女)
黒川大聖(路上の不良男)
井上蓮(路上の不良男)
宮田龍樹(路上の不良男)
杏奈メロディー(路上の不良女)
安楽将士(圭吾が団地で見かける男)
由井さくら(敬語が団地で見かける女の子)
松原正隆(蒲郡の警察官)
吉澤憲(タバコ男)
■映画の舞台
静岡県:沼津市&蒲郡市
ロケ地:
静岡県:沼津市
スーパーカドイケ
https://maps.app.goo.gl/U3dLBSf4VKkkQ5hE7?g_st=ic
静岡県:伊東市
古屋園(みかん園)
https://maps.app.goo.gl/vkvZSHjVxrQeJTh86?g_st=ic
コーヒー専門店あずみ野
https://maps.app.goo.gl/J1MSq5WVfGx8NmVb7?g_st=ic
■簡単なあらすじ
静岡の沼津に住む森下沙織里は、ある日、娘の美羽を弟・圭吾に預けてライブ観戦に出かけた
その日、公園で遊んだ美羽は自宅に戻らず、それに気づいた夫・豊からの電話にも気づかなかった
幼女失踪事件として取り上げられ、大規模な捜査が行われるものの、有力な手がかりはなく、時間だけが過ぎていった
地元のテレビ局の砂田は、沙織里らに密着取材をしていて、逐次情報を流すものの、その反応は日々薄くなり、局長たちもこれ以上の報道に意味がないと感じ始めていた
それでも砂田に縋るしかない沙織里は、最後に美羽と会っていた圭吾をカメラの前に引きずり出し、インタビューを受けさせる
だが、人見知りの圭吾は犯人のようにも見え、却って世間の反応は悪くなるばかりだった
沙織里はSNSなどの非情な書き込みに心を痛め、徐々に病んでいってしまうのである
テーマ:人の温かみとは
裏テーマ:表面的と深層的
■ひとこと感想
娘が失踪して、母親がバッシングを受けるという内容で、夫婦の間にも温度差があるという印象を植え付ける内容でした
このあたりは男女で感じ方が違うとは思いますが、男性の倫理的な思考と女性の感覚的な思考が噛み合わない様子が延々と描かれていました
娘が失踪して個人で何ができるのかとは思うものの、彼らは使えるものはなんでも使うという感じになっていました
でも、世間が興味を失っていくのと同時に、協力者も日常に還ってしまいます
映画では、モブっぽい人々が背景で怒っているシーンが多く、おそらく意図的なものだと思います
沙織里の日常は誰かにとっては無関係のもので、それゆえに関わる人たちは経験値で温度が変わります
ラストである人物が捜索に参加することになりますが、我がごとと思えるかどうかを想像で補うのは難しいのかな、と感じました
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
とにかく石原さとみの演技が凄いというふれこみですが、世間の反感を喰らいそうな母親という見事なポジションを演じ切ったと思います
それに対して、常に冷静で、沙織里が思いつきもしない行動を夫が起こしていて、自暴自棄になっている沙織里を冷静にさせる場面がありました
ラストの協力者の登場によって、ようやく夫が感情的になるのですが、このシーンはとても人間味を感じさせるものになっていました
対称的に子どもは残酷で、ピアノ教室をあっさりと辞めた美羽を「知らない」と言ってしまったりします
細かなところだと、交通安全のボランティアに参加する沙織里が少年から「おばさん」呼びされて、即「お姉さんね」と言い返していたのは笑ってしまいました
あとは、笑ってはいけないんだけど「虎舞竜」は反則だと思います
あのシーンは何回リテイクしたんだろうか、と思ってしまいましたね
■失踪事件にどう向き合うか
本作は、弟に預けた娘が失踪したというもので、この手の「少し目を離しただけ」という油断が生んだ事件と言うのは数多くあります
失踪が分かった段階で警察を頼るのは第一歩ではありますが、それ以上に地域住民への発信と言うものが必要になってきます
その最たるものがビラ配りなのですが、不特定多数に対して闇雲に行うと言うのは得策ではないように思います
効果が高いと思われるのは、同じリスクを背負っている者で、他人事とは思わない人への訴求であると思います
街頭の人々と言うのは実に無関心で、ビラ配り(=勧誘)に対する拒否反応というものがあります
個人的にも、街頭での勧誘及び声掛けには拒否反応が出るタイプで、それは対象がなんであれ関係ないのですね
自分のリズムを崩されるのが嫌で、それゆえに100mぐらい前から話しかけられない位置を探して歩いてしまいます
街頭に貼られているビラなどを見ることはあっても、そこまで周囲の人間を見ていないところもあって、その写真を見てもピンと来ることはなかったりします
それらを考えると、常に子どもに目線を配る人物をターゲットにする方が効果的だと思います
子どもを見ているのは子どもということもあり、子ども目線にビラを貼るなども効果的でしょう
また、子どもをよく見る親への訴求効果も高く、同世代の子どもを持つ親たちのコミュニティを頼るのも良いと思います
いかに我が事かを考えてもらうことが必要で、無関心の人に無作為に配るよりは効果があるように思えます
映画では、街頭でビラ配りをしている様子を「画」としてテレビ局が使用しているのですが、このシーンを何度も撮っているところに制作サイドの意図を感じます
無視する人、受け取って読まずに何度も聞いてくる人など、ビラ自体に関心を持たず、相手を可哀想に思っているアピールをする人たちが登場します
同情を買うことにほとんど意味はないと思っているのですが、この視点になるのは私が男性で、夫側の視点に近いからだと思います
感情に訴求する効果もあると思いますが、その効果が限定的であると感じるのは、世の中の人が欲するのが「事実」だからなのかな、と感じました
■感情の落とし所とは
本作の特徴は、妻が感情的で夫が冷静を装っているという夫婦のバランス関係だと思います
激情型の妻は常に錯乱に近い状態で、それを支える夫は同じように感情的にはなれません
妻のなりふりを見て冷静になっている部分があって、かつ論理的な思考を全面に出すキャラクターとなっていました
この関係性になるのは、今回の失踪に対して妻に落ち度があるように思えることで、夫の「事件から距離」が遠かったこともあります
もし、預かったのが父親で、パチンコに行っていた間に行方不明とかになっていたら、このような関係になっていなかったと思います
これらの感情は時を経て薄くなる反面、何かのきっかけで再燃するものとなっていました
新しい事件が起こったとき、路上の安全員を見た時など、自分の過去と未来を想起し思いを馳せる時に一気に沸き起こってくるものだと思います
このような感情は時が風化させるものである一方、根底に押し込めていくものだとも言えます
落とし所を見つけるのは難しく、事実を許容することで納得ができるものではありません
後半になって、溜まりに溜まったヘイトに対して裁判を起こすのですが、これも感情のガス抜きに近い印象がありました
でも、圭吾が直接、姉に謝ることで、彼女なりの落とし所というものが生まれることになりました
結局のところ、事件を起こした犯人、もしくは事故に遭った当人に問題があるのですが、そこに至るまでに「至らなかった大人」というものがあって、その行き場のなさというものがあるのでしょう
それは事件が解決するまで落ち着かないものではありますが、不意に訪れたものである種の到達点が訪れることになります
映画だと、弟の謝罪の後に流れる事件の起点となったバンドの楽曲、虹によって輝いた娘の絵、そして、真の協力者の登場(別の事件の被害者の母娘)というものになっていました
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
本作は、石原さとみの快演が評価の軸になっていますが、実際には彼女の脇を固める俳優の凄さによって、演技の濃淡が生まれるようになっていました
夫役の青木崇高の抑えた演技と時折昂る感情、弟役の森優作の当事者として抱えている負の感情と帯びせられるヘイトへの耐久、そして、記者として家族に関わることになった砂田役の中村倫也は、報道局にいながら事実を報道する功罪について悩んでいく様子が描かれていました
これらの助演によって、感情的であり続ける沙織里との対比になっていて、それらが飽和する瞬間が訪れます
押さえつけられてきたからこそ、それらが爆発する瞬間が心苦しくもあり、沙織里から一歩引いた感情にある観客も、脇役たちの飽和によって、感情が揺さぶられるようになっていきました
映画は、事件としては着地点はないのですが、それぞれのキャラクターの感情には落とし所が用意されていました
夫は協力者の出現によって、自分と妻のやってきたことが間違いないと感じられるし、罪悪感を抱え続けてきた弟も姉との和解に至ります
砂田は出世の道から逸れますが、真実を報道することに意味に直面し、報道のあり方というものを学んでいくことになりました
理想的な帰結とは言いませんが、どこかで折り合いがついてしまうのも人生というものかもしれません
映画のタイトルは『ミッシング』で、いわゆる「失くしたもの」という意味になります
娘の失踪というものを示す一方で、それぞれがいつの間にかどこかに置き忘れていたものを取り戻す旅であったように思います
沙織里は平常心を失い、夫は愛する妻を失い、弟は最愛の姉を失っていました
砂田も報道に携わることになった初心を取り戻すきっかけを得ることになりました
映画を観ている側も、この映画のような事件というものを報道で見かけたと思いますし、時にはビラを受け取ったり、スルーしたり、事件の掲示板などであらぬことを書いたり、見た人もいるかもしれません
人は当事者にならないとその感情に到達できない生き物で、想像と現実というものはとても乖離しているものだと言えます
ワイドショーなどでは自称・探偵気取りの人々が事件についてあれこれ掘り下げていますが、事件解決には無意味な時間であると思います
報道局の部長は「事実が面白い」と言いますが、報道で流される事実というのは、ある種のエフェクトがかかった状態なのですね
なので、そこには事実というものはほとんどなく、視聴率を取るためのバイアスがかかっているものだと言えます
そういった意味において、報道を見る側は、エフェクトを剥がした事実を見る目を養い、その先にあるものを感じ取れる感性を育てることが必要な時代に入っていると言えるのかもしれません
■関連リンク
映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
https://eiga.com/movie/99212/review/03832294/
公式HP:
https://wwws.warnerbros.co.jp/missing/