■川っぺりのお葬式は48分で終わったのだろうか
Contents
■オススメ度
死生観を紐解くヒューマンドラマが好きな人(★★★)
映画の後にご飯を食べる予定の人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2022.9.21(MOVIX京都)
■映画情報
情報:2021年、日本、120、G
ジャンル:地方に流れ着いた青年が再起を図る中で疎遠だった父の死に向き合うヒューマンドラマ
監督&脚本&原作:荻上直子(2019年、講談社)
キャスト:
松山ケンイチ(山田たけし:訳ありで北陸の食品加工工場「沢田水産工業」に就職する青年)
ムロツヨシ(島田幸三:食事のたびに現れる山田の隣人)
満島ひかり(南詩織:山田の住むアパート「ハイツ・ムコリッタ」の大家さん)
松島羽那(南カヨ子:詩織の娘)
吉岡秀隆(溝口健一:ムコリッタに住む墓石売り男)
北村光授(溝口洋一:健一の一人息子)
田根楽子(岡本:死んだはずの隣人)
緒方直人(沢田:「沢田水産工業」の社長)
江口のりこ(中島:山田の先輩)
柄本佑(堤下靖男:山田に父の死を告げる福祉課の職員)
薬師丸ひろ子(いのちの相談所の相談員)
黒田大輔(ガンちゃん/岩田:島田の幼馴染、岩晴寺の僧侶)
知久寿焼(楽器を奏でるホームレス)
山野海(墓石販売を断る女?)
田中美佐子(大橋:犬の墓のために高額な墓石を飼う裕福な女性)
笹野高史(元花火師のタクシー運転手)
■映画の舞台
富山県:富山市
ロケ地:
富山県:富山市
蛯米水産加工(沢田水産工業)
https://maps.app.goo.gl/5uDnR35cUp8o122g9?g_st=ic
富山県:小矢部市
宝性寺
https://maps.app.goo.gl/FTRn5KHRASGNWeuF7?g_st=ic
富山県:射水市
薬勝寺
https://maps.app.goo.gl/Sfx9Md2RYwDYP137A?g_st=ic
富山県:中新川群
グリーンパーク吉峰(水産工場の直売所)
https://maps.app.goo.gl/SU1Xt7WUXUzYLtH49?g_st=ic
■簡単なあらすじ
北陸の水産加工工場に勤めることになった山田は、脛に傷を持つ寡黙な男で、工場の社長から紹介された「ハイツ・ムコリッタ」に住むことになった
大家の南は未亡人で幼い娘がいて、隣人には図々しい島田と、親子で墓石販売のセールスをしている溝口がいた
島田は「風呂が壊れたから貸して欲しい」と強引に部屋に上がり込む
その見返りに畑で育てた野菜を持ってくるが、いつの間にか「一人で食事をするのは寂しいよね」と言いながら、夕食を共にする仲になっていた
静かに順調に過ごそうとしていた矢先、山田の元に「父親が孤独死として発見された」との一報が入る
遺骨の引き受けを依頼されたものの、幼少期に疎遠になっていたため父親という実感がなかった
仕方なく遺骨を引き受けたものの、その日から夜になるとうなされるようになっていた
捨てようにも手段がなく、島田から「そのまま捨てると犯罪だけど、粉にしたら大丈夫らしいよ」と聞かされる
遺骨にふれることすら拒否反応を示していた山田にそんなことができるはずもなかった
テーマ:近しい人の死との向き合い方
裏テーマ:再出発
■ひとこと感想
ポスターだけを見るとどう見てもコメディなのですが、冒頭から「ムコリッタ」の説明字幕が入り、宗教観の強い作品であることが窺えました
仏教用語の「牟呼栗多」は「1日の30分の1」を表し、「約48分」のことを意味するそうです
映画は山田のテリトリーに土足で入りこむ島田との関係が徐々に出来上がる過程を描いていて、そこに住む人にはそれぞれ「近しい人の死に曝された」という経験がありました
不器用に生きる彼らがなかなか乗り越えられない「死」に囚われている様子を描いていて、少し特殊な環境のように見えますが、誰にでも訪れる可能性のあるものだったと言えます
コメディ色が強めですが、メッセージは重めの内容になっていて、父の最後の発信履歴の相手が「いのちの相談所」というダークなところに踏み込んでいきます
ちょっと疲れるかもしれませんが、うまい具合にユーモアが挿入されているので、緩和しながら緊張を保てるのではないでしょうか
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
「ムコリッタ」は仏教用語で「約48分」を指す言葉ですが、それは隣人の幽霊・岡本が生前に唱えていた言葉であることがわかります
意味は「わずかな時間」で、映画的には「ささやかな幸せ」につながっている言葉であると思います
映画では「ささやかな幸せを見つけるのが得意」とされる島田が登場し、彼はどちらかというと単なる隣人ではないように思います
島田は山田を導く存在で、押し付けがましくはなく、最終的には山田の選択を尊重します
幸福論を体現していて、わずかな幸せを見つけるのが得意で、家庭菜園で育てた野菜をいろんな人に配っていますね
どことなく無下に扱うと不幸を呼ぶ妖怪か何かのように思えました
一癖も二癖もあって、過去に何かしらの傷があって囚われている人たちの中で、山田が少しずつ人間関係を築いていきます
象徴的な「僕、お金がありません」宣言に見られるように、声を上げることの重要性も説いていきます
坊主がいるのに説教をすることはなく、彼はただ見守っているだけ、というところに深みを感じてしまいました
■仏教時間について
牟呼栗多(『摩訶僧祇律』では須臾(しゅゆ)と表記される)とは、「少しの間」などの意味があって、仏教時間の単位にひとつとなっています
『阿毘逹磨倶舎論(作者は世親、4世紀から5世紀頃)』の第十二巻に登場し、諸説ありますが、「1昼夜=30牟呼栗多」で、「1昼夜=24時間=1440分」なので、「1牟呼栗多=約48分」となります
この他にも「仏教時間」というのはたくさんあって、
刹那(せつな)=1/75秒
怛刹那(たんせつな)=120刹那=1.6秒
臘縛(ろうばく)=60怛刹那=96秒
須臾(しゅゆ=牟呼栗多)=30臘縛=2880秒(約48分)
羅予(らよ)=1/20須臾= 144秒
弾指(たんじ)=1/20羅予=7.2秒
瞬(しゅん)=1/20弾指=0.36秒
念(ねん)=1/20瞬=0.018秒
代表的なのはこんな感じでしょうか
ちなみに仏教時間で一番長い単位は「劫(こう)」とのこと
「劫=ひとつの宇宙の誕生から消滅まで」とされていて、この単位を「一大劫」と言います
一大劫は、
世界が生成される「成劫(じょうこう、vivartakalpa)」
世界が存続する「住劫(じゅうこう、vivartasiddhakalpa)」
世界が破壊される「壊劫(えこう、saṃvartakalpa)」
世界が存在しない「空劫(くうこう、saṃvartasiddhakalpa)」
の4つの期間に分かれるとのこと
ちなみに宇宙の寿命は「約1400億年」で、現在は「ビッグバンから138億年」になります
1400億年を単純に4で割ると、350億年なので、まだ「成劫」ということになるのでしょうか
宇宙の寿命の単位で考えると、地球の誕生ですら刹那に満たないのかもしれませんね
■死の受容について
本作では、疎遠だった父の死と向き合うというメインテーマがあり、終着点は「葬式を挙げる」ということになっていました
4歳の時に失踪した父について、当初は記憶がないと思っていましたが、「父の部屋に飲みかけの牛乳があったこと」で、その遺体を父だと確信しています
実際には「飲みかけの牛乳」は堤下の先入観が入っていましたが、山田としては「父であることを裏付ける何か」を欲していたのでしょう
実際にその場を見たわけでもなく、堤下も「ひょっとしたら」と言っていたように、遺体の行動は「堤下の生活から想起されるものだった」ということになります
山田が「それは父だった」と思えるのは、彼の牛乳を飲む習慣が「プラスの習慣」だったからでしょう
「プラスの習慣」とは、それをやっていると気持ちが良いというもので、「マイナスの習慣」とは「やっていることに後ろめたさを感じたり、したくないのについやっている」ということですね
山田が風呂上がりに牛乳を飲む習慣は、一連の習慣によって山田の一日をリフレッシュする儀式のようなものでした
他にも「炊けるまで炊飯器の前で待つ」とか、「風呂桶に入る時にはザバーっと湯を溢れさせる」とか、他人が見ていても気持ちが良かったり、つい真似したくなるというものも多かったですね
米を研ぐとき、水の量を測るとき、炊けたご飯を切る動作など、本作では随所に「人物の癖」というものが具体的に描かれていました
これらの習慣というものは、家庭環境であったり、幼児教育であったり、最終的には人物の特質によって取捨選択されていきます
本作の場合でも、山田の父が「風呂上がりに牛乳を飲む」という習慣があって、それを真似した山田少年が「やってみて良い」と思ったために継続されたものでしょう
この習慣の遺伝というものが山田の中で「遺体(遺骨)の識別のための落とし所」のようになっていて、それまでの「遺骨」は「恐怖」の対象でした
でも、そこに「プラスの習慣」がリンクすることで、何も無かった父という存在に命が宿ったようにも思えます
「死」というものは、「生きていた時間」を認識できないと、それを「死である」と考えるのは難しいように思います
何かしら「生きていた時期を想起できるもの」があってはじめて、その個体を「命だった」と感じることができるのかも知れません
山田にとって、得体の知れない何かに命が宿ったことで、彼はその死を受け入れ、そして区切りをつけるために「葬式」を行うことになったのではないでしょうか
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
映画のラストではホームレスも混じって「ちんどん屋」のような遺骨散布の儀式が行われました
「葬式をしよう」と言い出したのは南で、それは故人のためというよりは、「山田の父の死の情報を共有した人たち」のために儀式のように思えます
南は葬式はしたけれど、遺骨は自宅に置いていて、それで自慰行為に耽るという性質を見せます
葬式は儀式ではありますが、繋がりを断ち切るものではありません
お骨は基本的にお墓に入るものですが、私の妻の場合は「合同葬」みたいな墓地だったので、いくつかの遺骨を密かに瓶に残して仏前に飾ってあります
墓地が遠方ということもありますが、個人的には「自宅の庭にあったらいいのに」という考えを持っています
でも、庭に墓石がある民家というのは基本的にはないのと、やればできるでしょうが「費用が無駄に高い」のでやめました
妻方の家族があまり宗教色が濃く無かったので、葬式他を最低限の費用でやれたのは幸運だったのかも知れません
今では「家族葬」というものが主流で、しかもコロナによって「集団で集まるのはやめて」という風潮がさらに拍車をかけています
病院だと、入院患者がお亡くなりになった際に葬儀社がきますが、昔は大手ばかりだったのが、最近は家族葬ブランドが多くなっていますね
とは言っても、実質「セ○マ」の子会社か「家族葬部門」だったりすることが多くて、意外とフットワーク軽いなと思っていました
個人的には葬式にこだわるのはよくわからず、故人がそれを望んでいる場合を除けば「やらなくていい」くらいに思っています
親戚一同が介して、笑顔でお見送りをしようという建前と遺産相続のパワーゲームが水面化で始まっているのはとても醜く思います
中にはCPA(心肺停止)などで運ばれた家族同士が病院で開戦するなんてこともあって、どういう育ち方をしてきたのだろうと不思議に思ってしまう時があります
葬式は残された側の区切りと言えば聞こえは良いのですが、実際には「リセット」に近い印象がありますね
そこで起こる新たな火種というのは、故人の生き様が残したものもあれば、そうでないものもあると思います
それを故人がコントロールできるわけではないので、もし何かを残せる人がいるならば、きちんと生前に遺言を残しておいた方がいいかも知れません
■関連リンク
Yahoo!映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
https://movies.yahoo.co.jp/movie/375902/review/c113c4e9-fa9d-4189-a8ba-8ecdd72d773a/
公式HP:
https://kawa-movie.jp/