■お日さまの光は、人によっては鋭利な刃にも思えてしまうのかもしれません
Contents
■オススメ度
ほっこり&じんわり系の映画が好きな人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2024.9.13(イオンシネマ京都桂川)
■映画情報
英題:My Sunshine
情報:2024年、日本、90分、G
ジャンル:フィギュアに打ち込む少女に恋をする吃音持ちの少年を描いた青春映画
監督&脚本:奥山大史
キャスト:
越山敬達(多田拓也/タクヤ:吃音気味の小学6年生)
中西希亜良(三上さくら:フィギュアスケーターを目指す中学1年生、東京出身)
池松壮亮(荒川永士:元フィギュアスケート選手、さくらのコーチ)
山田真歩(三上真歩:さくらの母)
若葉竜也(五十嵐海:荒川のパートナー、ガソスタ経営を継承)
潤浩(コウセイ:タクヤの親友)
篠原篤(ダンチョウ:ホッケーのコーチ)
田村健太郎(小学校の先生)
佐々木告(ナツコ:さくらの親友)
兵藤公美(タクヤの母)
大迫一平(タクヤの父)
坂本愛登(タクヤの兄)
もなか(多田家の犬)
森かなた(ガソスタの店員?)
山崎直樹(ガソスタの客?)
佐々木煌将(タクヤの同級生)
下永正虎(タクヤの同級生)
眞島煌芽(タクヤの同級生)
藤田稟城(タクヤの同級生)
五十嵐晴登(タクヤの同級生)
■映画の舞台
冬になると雪が積もる町
三ツ風町&二坂市
ロケ地:
北海道:赤井川村
https://maps.app.goo.gl/6tGS3VXkK1uMc5bp9?g_st=ic
北海道:余市町
余市運動公園野球場
https://maps.app.goo.gl/A3gYUNYVY2i2LQnC6?g_st=ic
岩手県:一関市
千厩アイスアリーナ
https://maps.app.goo.gl/BSLmWofFjvoFHdE46?g_st=ic
北海道:札幌市
真駒内セキスイハイムアイスアリーナ
https://maps.app.goo.gl/mhcUuTvZD9foChbY6?g_st=ic
■簡単なあらすじ
吃音が原因でクラスに馴染めないタクヤは、野球もアイスホッケーも苦手だった
ある日、スケートリンクにて、ドビュッシーの「月の光」にてフィギュアの練習をしていたさくらという中学生を見つける
彼は彼女の踊りに魅入られ、その様子をさくらのコーチ・荒川が見ていた
荒川は元フィギュアスケートの選手で、今では田舎に来てさくらを教えていて、彼にはパートナーの五十嵐という青年がいた
五十嵐は実家のガソリンスタンドを継ぐことになっていて、それについてきていた
荒川はさくらのようにクルクルと回りたいと練習するタクヤを見かねてアドバイスを始めてしまう
そして、さくらと一緒にアイスダンスの練習をしようと呼びかける
三人はアイスダンスのコンテストに向けて練習を重ねるものの、ある日、さくらは「あること」を目撃してしまうのである
テーマ:子どもの残酷さ
裏テーマ:それでも太陽は輝いている
■ひとこと感想
映画の注意喚起の予告編になっていた作品で、とても仲の良い子どもたちが描かれていました
キラキラ青春映画という感じで、フィギュアスケーターになりたい少女と、彼女に恋する少年が描かれています
どうやら少年の方が年下で、女の子はコーチを意識しているという関係性になっていました
アイスダンスでペアを組むことになり、そこから急接近するのですが、さくらの心は少しずつ遠ざかっていく感じになっているのが切なくもあります
そんな時、さくらはコーチが男の人と一緒にいるところを見てしまい、その関係性が普通じゃないことに気づきます
彼女がコーチに放った言葉は結構強烈ですが、それは自然な言葉のように思えました
映画は、言葉数が少ない作品になっていて、情景や動きなどで心情を表現しています
さくらの中である種の誤解が生まれ、それが確信へと変わっていくのですが、それが彼女の中だけで肥大化していくところも怖いなあと思います
タクヤの初恋は思わぬ理由で終わりを告げますが、ラストシーンの解釈によっては、その続きがあるようにも思えました
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
本作は、いわゆる三角関係になっていて、それがとある理由で自然消滅してしまうという流れになっています
主人公はタクヤですが、彼の知らないところで、全く関係のない理由で恋が終わってしまうというのは切なくもあります
さくらが抱えた想いも本物ではありますが、最後通牒のような母親の濁し言葉は彼が東京で受けた傷そのもののように思えました
大人の中で問題になったものが子どもの中で広がっていく世界になっていて、それがどんな影響を与えるかなどわからないものだと思います
ただ怖いとか、理解できないというだけの感情が、そのまま肥大化していく様子はホラーのようでしたね
まさかのLGBTQ+系の映画だったのですが、この何も語らない視点というのは、侵食する差別意識の広がり方というものを如実に示しているように思えます
映画のラストはタクヤとさくらの再会のシーンなのですが、そこで彼は何を言おうとしたのか?
これは観る人に委ねることになっていますが、個人的には明るい未来につながってほしいなあと感じました
■空気として浸透する意識
本作は、憧れのスケーターが同性愛者だったというもので、それをオブラートに包むこともなく「気持ち悪い」と言ってしまうさくらが描かれていました
LGBTQ+への配慮とか全くなく、子ども目線でズバッと言い切ってしまうところがすごいのですが、そこで生まれた空気が大人のフィルターを通じて、先生への通告になっているのはリアルに思えました
でも、クルマの中でふざけ合っているのを見ただけで気持ち悪いというのはさすがに飛躍しすぎのように思えますね
とは言え、さくらは荒川に気があったように描かれていたので、これまでに見たことのない笑顔というところに、何かしらを感じ取ったのかな、と思いました
人は話さなければ理解が深まらないと言われますが、話さなくても伝わってしまうものというのはあると思います
今回のケースでは、荒川と五十嵐の間にあるものというのは、さくらにちゃんと伝わっていたし、さくらの罵倒を否定しなかったことが肯定に繋がってしまっていたと思います
さくらは人一倍観察眼があるというタイプではなく、彼女の友人・ナツコのカミングアウトなどは言われるまで気づいていなかったりします
あくまでも、好意や興味を持つ相手のことだからわかることがあって、それらは恋愛を通じて発揮される特殊能力のように思えます
タクヤ自身はそう言ったものに疎いタイプのようですが、彼は無意識のうちに吃音を克服しているけど気づいていない、というシーンもありました
何かに夢中になって、そこに意識が集中すると吃音は出なくて、逆に声を出そうと意識すればするほどにそれが出てしまう
意識一つで変わるほど単純なものではありませんが、言葉は意識して出されるものと意識せずに出るものがあります
この意識せずに出てしまうものは「音=言葉」だけとは限らないのですね
それが人間の身体表現性であり、それを傍受する力が備わっているとも言えます
それゆえに、言葉以上に伝わってしまうものがあり、その連鎖によって、共感と誤解が生まれてしまうのかな、と感じました
■あなたとってのお日さまは誰?
本作のタイトルは「ぼくのお日さま」で、この「ぼく」というのはタクヤのことになると思います
彼から見えるお日さまはふたつあって、ひとつはさくらで、もう一人は荒川ということになります
さくらをじっと見つめていたことがきっかけで荒川から声が掛かり、それによってさくらに接近することができたので、タクヤからすれば神様のような存在だったと思います
それでも、自分の知らないところで自分の初恋が「荒川の行動によって起こった」というのは、何とも言えない物悲しさがあるように思えました
タクヤは自分の周りで起こったことを何も知らず、さくらは荒川から離れてしまったことで、さくらとの距離もできてしまいます
荒川がいたからこそ、さくらと接近できたのですが、その前提を超える行動を彼はできなかったのですね
でも、ラストでは、さくらに再会することができて、自分の力でさくらとの繋がりを保とうと考えるようになります
そして、その行動は、さくらにとっての新しいお日さまになれる可能性を秘めていたように思います
人は誰しも「自分を照らしてくれる太陽」というものを持っていて、それは本人の意思とは関係なく照らし続けてくれて、時には雲がかかって見えなくなってしまうものだと思います
この雲も自分ではコントロールできないもので、今回の場合だと、さくらの感情がそれに当たると言えます
雲を自分でどけることはできないのですが、日が照りつける場所に移動することは可能で、ずっと日の光を浴び続けるために走り続けることもできます
でも、人生はずっとは走れないので、やがては意図しない雲に覆われてしまうとも言えます
この雲の存在をどう捉えるかですが、「自分の立ち位置を再確認する時」であると考えると良いでしょう
自分に対する理不尽が起こっている時間ではありますが、それを他人のせいにするのか、自分が原因であると考えるかで、その後の行動というものが変わってくると言えます
雲はいつか晴れるかもしれないし、ずっと澱んでいるかもしれない
でも、その原因に目を向けることで対策というものができて、雲が動きそうだからじっとしていようとか、動きそうにないから自分が動いてみようなどの選択が生まれることになります
ただし、これらは普段「お日さまの恩恵を受けていると自覚しないとダメ」なので、常にそういった世界で生きているという実感を持つことが大切だと言えるのではないでしょうか
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
本作は、かなりほのぼのとした作風なのですが、劇中で起こっていることは結構激しい内容だったと思います
自分のコーチが同性愛者で気持ち悪がったりとか、吃音に関して辛くあたられたりなど、直接的な描写が多いように思います
それでも、そう言った価値観とは無関係で、それを自然と許容している存在が身近にいたりするので、本当に自分の周囲をきちんと見渡して理解している人ほど、身を守れたりするのかな、と思いました
タクヤの親友のコウセイは、彼が吃音であろうが気にしないし、さくらの友達は自分の性癖を肯定的に暴露したりしています
そうした純真さというものは、加護にまわると力強いものですが、そうでない場合は直接的で鋭い殴打になっていると言えます
それでも、周りくどく「子どもの教育に良くない」みたいな言い回しとか、「娘が嫌がっているので」という自分の意見を後ろ側に回して主張する大人の方が精神的には厳しいものがあるように思いました
映画は、牧歌的な側面があるがゆえに自然体である人々が描かれていて、都会の装飾のようなものがあまりなかったりします
それゆえに荒川は街を離れることでしか自分の居場所を保てないのですね
もし、同じことが都会で起こっていても、おそらく彼がその街を離れることはなかったと思います
荒川がこの街に流れ着いた理由は描かれませんが、おそらくは五十嵐とともに前の土地でのトラブルもしくは傷などによって新天地を求めることになったのでしょう
彼らの関係性を壊そうとする何かがあって、それによってたどり着いた場所ではありますが、そこは直射日光を避けられない場所でもあったのですね
太陽の日差しは強すぎれば毒になる部分があって、それが如実に現れているのが荒川が去るきっかけになった出来事のように思います
自由でいられると思ったけど、それ以上に透明性と透過性の凄さがあって、それを覆い隠してくれる壁はなかった
そのようなものが無くても、どこででも生きられるのが理想ではありますが、現実はそこまで追いついていない、というのは本当のところなのかなと感じました
■関連リンク
映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
https://eiga.com/movie/101337/review/04243960/
公式HP: