■やさしい人は、知らず知らずのうちに自分を苦しめていってしまうもの
Contents
■オススメ度
ぬいぐるみに話しかけたことがある人(★★★)
正体のわからない恐怖に怯えている若者(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2023.4.19(京都みなみ会館)
■映画情報
情報:2023年、日本、109分、G
ジャンル:ぬいぐるみと話すサークルに入った青年を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本:金子由里奈
原作:大前粟生『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい(河出書房新社)』
キャスト:(わかった分だけ)
細田佳央太(七森剛志:アセクシャルを悩む大学生)
駒井蓮(麦戸美海子:七森と波長が合う大学生)
新谷ゆづみ(白城ゆい:ぬいぐるみと話さない「ぬいサー」の新入部員)
細川岳(鱈山:知らない人の不幸に悩む「ぬいサー」の先輩)
真魚(光咲:部長的な存在の「ぬいサー」の先輩)
上大迫祐希(藤尾:眼鏡っ子の「ぬいサー」の先輩)
若杉凩(西村:ショートカットの「ぬいサー」の先輩)
天野はな(佐々木:西村のパートナー)
小日向星一(糸下:喫茶店のオーナー、藤尾の彼氏)
宮崎優(青川:高校時代の七森に告る女子高生)
門田宗大(ヤナ:七森の高校時代の友人)
石本径代(七森の母)
安光隆太郎(新入生)
佐々木伶(イベサーの大学生)
蒔野まりん(イベサーの大学生)
■映画の舞台
京都のどこか
ロケ地:
京都市:北区
立命館大学・衣笠キャンパス
https://goo.gl/maps/yTM8BLHWfoitzxok8
京都市:左京区
出町柳・鴨川デルタ
https://goo.gl/maps/EKMrheSFZs4NHDUd6
栃木県:栃木市
蔵の街ダイニング 蒼
https://goo.gl/maps/PCQShprznmY9MP7r5
アルマンド・コーポ
https://goo.gl/maps/PCQShprznmY9MP7r5
■簡単なあらすじ
京都の大学に進学した七森は恋愛のことがよくわからず、高校時代には告白されても付き合うことができなかった
その時に拾ったぬいぐるみを今でも大事に抱えていて、一人暮らしの部屋に飾られている
コミュニケーションがさほどうまくない七森だったが、ある日校庭にて、同じ新入生の麦戸と仲良くなることができた
彼女は「ぬいぐるみサークル」に興味を持っていて、2人で説明会に行くことを決めた
サークル棟に行くと、部屋いっぱいのぬいぐるみがあって、そこには先輩たちが4人いた
髭面の棚山、部長っぽい光咲、メガネっ娘の藤尾、クールなショートカット・西村は、「ぬいぐるみを作るんですか?」という質問に窮してしまう
そこは、ぬいぐるみを作るサークルではなく、「ぬいぐるみと話すサークル」で、人の会話は聞かないというルールがあった
各々はヘッドホンやイヤホンをしてぬいぐるみに話しかける
七森も麦戸もそこを気に入り、さらに白城という新入生も一緒に入ることになったのである
テーマ:繊細さと想像力
裏テーマ:逃避を避ける方法
■ひとこと感想
てっきり「ぬいぐるみを愛でるサークル」だと思っていましたが、まさかの「ぬいぐるみとトーク」という内容で、少しばかりドン引きしてしまいました
とは言え、ぬいぐるみに語りかけたことがないわけではなく、その時代は幼少期の頃に卒業しているのですね
なので、ここにいる人たちは大学生にもなって、それを続けているのかとびっくりしました
実際には幼少期のそれとは違っていて、繊細で想像力が豊かすぎる故に、自分の心のバランスを取るために行なっているセルフセラピーみたいなものなのですね
発信の影響を極端に恐れるあまり、それをぬいぐるみに求めてしまう
そこで起こる会話はすべて自己完結的なものなので、会話をしているふりをしながら「気持ちを言語化して理解を深めていく」という過程を踏みます
このあたりを目的を持って行っていないのがこのサークルの特徴で、その中でも異質なのが「みんなのぬいぐるみになろうとする白城」の存在だったと思います
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
映画は「ぬいぐるみとしゃべること」がネタバレのような感じですが、タイトルでバラしているので、しゃべっている内容がネタバレになるのかなと思います
遠くの国の出来事に悲しみを感じたり、電車で痴漢に遭っている人を助けられなかったり、などのような「無力」を心の枷にしている人もいれば、自分の正しさを追い求めていたり、幸福論について自問したりする人もいます
それぞれは繊細で想像力が豊かですが、思考は自己完結してしまうので、そこに危うさというものを感じてしまいます
何かしらの発言が相手を傷つけてしまうことを恐れているのですが、裏を返せば「話してもらえない距離感」を与えることにも繋がります
相手の心情が理解できる「ぬいサー」の中では理解し合えても、社会に出るとそれはそのまま「相手を断絶している人」に見えるのですね
なので、「この人たち将来大丈夫か?」と心配になってしまいます
「ぬいサー」は居心地の良い場所ですが、それは「このままでいい」という肯定感と同時に、未来について考えないというところにも繋がります
そんな中で、「ぬいサーのぬいぐるみ的存在になろうとする」のが白城なんだと思います
彼女はぬいぐるみにしゃべりかけないのですが、受け止めて傷つくことで存在価値を見出すタイプの人間なので、彼女自身も結構ヤバめのタイプのように思えてしまいますね
■ぬいぐるみとは何か
「ぬいぐるみ(縫い包み)」とは、「型紙に合わせて裁断された布を縫合し、綿やプラスチック片、蕎麦殻などを内部に詰め、動物やある特定のキャラクター等に似せて成形したもの(By Wiki)」のことを言います
これを大きくして、中に人が入れるものを「着ぐるみ」というふうに言います
1880年に発売されたテディ・ベアが元祖と言われていて、癒し効果をもたらす代表的なものとされています
映画における「ぬいぐるみ」とは、特撮などの映画で使用される全身を覆う衣装小道具のことを指し、日本の東宝が1954年に作ったゴジラが元祖とも言われています
心理学の世界では「移行対象(Comfort object)=安心毛布」に登場し、乳幼児が愛着を寄せるものとして登場します
1950年に出版されたアメリカのアニメーション『ピーナッツ(Peanuts)』のキャラクター「ライナス・ヴァン・ペルト」がいつも肌身離さずに持っている毛布というものがあり、「安心毛布(Security Blanket)」とか「ライナスの毛布」と呼ばれることがあります
この『ピーナッツ』という作品は、日本では「スヌーピー」として知られているもので、主人公チャーリー・ブラウンの親友として登場するキャラクターですね
これらは「どんなぬいぐるみでも良い」というものではなく、ある特定のぬいぐるみに固執するという特徴があります
映画の中のキャラだと、七森のぬいぐるみがそれになる可能性が秘めていますね
そこまでの移行対象ではありませんが、捨てられたぬいぐるみに愛着が湧くという感情は、七森の幼少期に「同じような移行対象があったこと」を想像させてくれます
■ぬいぐるみと一生過ごせるか
ぬいぐるみは「ライナスの毛布」の中では特徴的なもので、いわゆる「擬人化されたもの」として特化しています
ライナスの場合は「布」で、これは幼少期の心の拠り所をそのまま成長しても持っているもので、それに話しかけるというよりはそばに置いている安心感というものがあります
ぬいぐるみの場合は「ものではなく人」という感覚に近いので、しばしば「話しかける子ども」というものが存在します
抱きつくという程度なら「ライナスの毛布」に近いのですが、話しかけるとなると、そこには「ある特定の誰か」が投影されている場合があります
多くの場合、そこにいるのはもうひとりの自分で、そこでは擬似的な会話(=自問自答)というものが登場します
この映画に登場する多くのキャラクターは、誰かを念頭に置いているとか、ぬいぐるみを擬人化しているというよりは、自問自答を繰り返しているように見えます
対話という形式を持っていても、ぬいぐるみから帰ってくる答えのようなものは、話し手の概念に囚われるので、自分以外の思考にはなり得ないのですね
なので、そばで観ていると「大丈夫か?」という感じに見えますし、そもそも「ぬいぐるみを自分に見立てて、大いなる力的な存在に自分がなって、それを癒している」というふうに見えなくもありません
移行対象としてのぬいぐるみは幼少期で卒業するのが常で、それは予測不可能な対話というものに付随する「恐怖」があって、その「克服」の段階を経て手放していくようになります
ぬいぐるみとの対話は自問自答で、そこには欲しい言葉しか返ってきません
でも、現実社会は「不測な反応の宝庫」なので、それを楽しめるかどうかというのが鍵になってきます
誰もが、自分自身の優位性を保って会話の主導を握るので、そこで衝突が起こることはしばしばあります
ぬいぐるみとの対話に依存しているというのは、対人関係における対話に対して不得意(=端的に表すと恐怖)というものがあって、それによってうまくいかない日常があるからだと言えます
この場合、得てして「対話は成り立つものだ」と思い込んでいる人が多く、それが「瞬時に成り立つ」と考えている人もいます
実際の対話というのは「共通言語を探し出す」ところから始まり、そこから「言語化された概念の理解」というふうに進んでいくので、その過程で「いつまで経っても共通言語が見つからない」とか、「概念の背景が違いすぎて理解が追いつかない」ということが起こってしまいます
それらの繰り返しによって、それを楽しめる人もいれば苦痛に感じる人もいて、後者の場合にコミュニケーション障害が起こる可能性が高まってしまいます
これらの払拭に何が必要かというのは色々と研究されていますが、詰まるところ「対話の絶対性を盲信しない」ということになるかなと思います
対話というのは、結局のところ「相反する種類の違う概念のすり合わせ」のようなもので、「対話においてお互いが完全に理解し合える」ということの方が稀なのですね
なので、人は人を理解できるものだという前提で相手と接すると、なぜ理解できないのか、と思い悩むことがあります
でも、人は理解できないけど、何となく察することができるものだ、ぐらいに捉えておくと、そこまで深刻なことにはならないのではないかと考えています
人は人を理解しないと生きていけないということはなく、相手の言っていることとこっちが理解していることが合致することの方が稀なのですね
なので、通じればラッキーぐらいの感覚でいるとか、お互いに共通言語を探し合うことを厭わなければ、そのうち「何となくわかってくる」のだと思います
このブログを構成する言語ひとつでも、共通概念に達していることは少ないと思うし、その真意がどこまで伝わっているかはわかりません
それぐらい、自分の内なるものの言語化は難しく、それを共通言語に落とし込むことはさらなる時間を要します
ある作家の小説を読んでいると、小説家の独特の言い回しに気付き、それを理解できてくると、他の作品でも多用される言い回しに気付けると思います
このブログを読んでいる人も、私自身の独特な言い回しを好む人もいれば、そうでない人もいると思います
そんな時、いろんな発言(この場合は執筆)とふれていく中で、相手に興味を持てる(=対話に興味を持てる)だと、その双方向は少しづつ真意に近づきます
でも、真逆の場合は「この人の文章は読みたくない(=話したくない)」ということになり、これが対話の世界で頻繁に起こると苦しくなってしまいます
これを解消するには「瞬間的に察しないと不快に思う人」との関係を避け、「瞬間的に察しなくても大丈夫な人」との関係を多くすることでしょう
ざっくり言うと「フィーリングを大事にして、対話を楽しめる相手とだけ深掘りする」ということになりますが、社会では「それが許されない相手がいる」というところが一番のネックなのかもしれません
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
本作は「ぬいぐるみと喋るサークル」を舞台にしていますが、部員同士は普通に会話をすることができます
彼らは「自分の中にある思考が言葉になった時、それが相手を傷つけるのではないか」と考えています
それは「悩み事の中に相手を巻き込むこと」を恐れているとも言え、それぞれには「相手に理解して欲しいけど、理解されたくない悩み」というものがあるのですね
この相反する感情というものが熱くて、それによって精神が溶け出している「繊細すぎる人々が集まっている」とも言えるかもしれません
映画の中で、唯一ぬいぐるみと喋らない白城は、彼女自身が現実世界の不条理と真正面から戦うことを決めていて、どちらかといえば「わざわざ不条理にぶつかっていくタイプ」なのですね
避ければ良いことも避けず、その根幹となる考え方が「社会に出たらもっと恐ろしいことの連続だ」と考えていて、その原因を「男社会だから」と結論づけています
彼女の中では、世の中で起こるほとんどの不条理は「男社会だから起こっている」となっていて、実際にどうかということは問題ではありません
「世界は男社会で、これからも変わらない」という、ある種の達観と諦めがあって、それに対応できる自分を作ろうとして、あえて傷つく方向へと舵を切っていきます
そのマインドがあるので、白城は「ぬいサー」のぬいぐるみになろうとしているのですね
仲間たちの鋭利な言葉を受け止める側になって、それで自分が傷ついたとしても、その傷が力や経験になると考えている
そうした自傷を繰り返すことで、少しでも強くなって、来るべき「男社会の不条理」に対する防御力を上げようと考えていました
この一環として、「相手が自分のことを好きではないかもしれない恋愛」という、普通に考えるとしない恋愛というものに身を投じていきます
彼女に自殺願望があるのかはわかりませんが、そうして「恋愛の傷つくパターン」を学習することで、今後の「男との関係性で起きる不条理の予行演習」をしているのですね
言い換えれば、「好き同士だったけど、相手に突然他に好きな人ができて、自分には見向きもしないけど、ダラダラと都合の良い女になっている」という状況に身を投じているように見えます
そうして体験学習の末に何かを得ようとしているのが白城で、映画の中では「ぬいぐるみ視点」というものが多用されていました
これは「ぬいぐるみの視点」ではなく、「ぬいぐるみになっている白城の視点」であり、それが本作の骨子にもなっています
映画では、ぬいぐるみと喋る人はやさしいと紡いでいますが、実際には「殴り返してこない相手を殴り続けている」ことを描いているので、ある意味ホラーに近いところがあります
彼らが「やさしい」のは「自分自身にやさしい」のであって、殴る相手に殴り返してこないぬいぐるみを指定しています
でも、その内にその歪さに気付き、自分自身が自分自身を殴り続けていることに気づく瞬間が訪れます
映画のキャラはどこかそれに気づいていながらも殴り続けている人たちなので、それを続けていくと「本当に不測の事態」を起こし兼ねないのですね
そう言った意味において、白城が彼らのぬいぐるみになるということは、これから起こり得る不足の事態への対処となっていて、本当の意味で白城は七森のことが好きなのかな、と感じました
■関連リンク
Yahoo!映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
https://movies.yahoo.co.jp/movie/384095/review/2f1e6d25-13df-4fea-bd4a-38069b1031a8/
公式HP: