■事実と整理の先にある、人としての完結


■オススメ度

 

終末医療の現実を考えたい人(★★★★)

医療のあり方について学びたい人(★★★★)

哲学的な映画が好きな人(★★★★)

 


■公式予告編

鑑賞日2022.10.11MOVIX京都)


■映画情報

 

原題De son vivant、英題:Peaceful

情報2021年、フランス、122分、G

ジャンル:余命宣告を受けた男性が医師、看護師、療法士との交流を経て自身の終末に向き合っていくヒューマンドラマ

 

監督エマニュエル・ベルコ

脚本エマニュエル・ベルコ&マルシア・ロマノ

 

キャスト:

ブノワ・マジメル/Benoît Magimel(バンジャマン・ボルランスキー:40歳手前でステージ4の膵臓癌を患う売れない俳優、講師)

カトリーヌ・ドヌーヴ/Catherine Deneuve(クリスタル:バンジャマンの母)

セシル・ドゥ・フランス/Cécile de France(ユージェニー:バンジャマンを担当するがん治療専門のアシスタント、看護師)

ガブリエル・サラ/Gabriel Sara(エデ:がん治療の専門医、バンジャマンの主治医)

 

オスカー・モーガン/Oscar Morgan(レアンドル:バンジャマンの認知されていない息子、ミュージシャン)

メリッサ・ジョージ/Melissa George(アンナ:バンジャマンの元恋人、レアンドルの母)

 

ルー・ランプロス/Lou Lampros(ローラ:バンジャマンの俳優教室の生徒)

 

Clément Ducol(ウィリアム:音楽療法士

Olga Mouak(グラディス:エデ医師に報告をする看護師)

 

Babetida Sadjo(看護師)

Izabella Maya(看護師)

Marushka Jury(看護師)

Julie Arnold(音楽療法でキーボードを弾く女性医師)

Gérard Gaudron(マルセル:バンジャマンの隣のベッドの老人)

Nada Sara(エデ医師の妻)

Marie Courroy(赤ん坊を抱えた若い母親)

 

Ariane Liautaud(化学療法室のタンゴダンサー)

Karim El Toukhi(化学療法室のタンゴダンサー)

 

Baptiste Carrion-Weiss(バンジャマンの生徒)

Chloé Zufferey(バンジャマンの生徒:一人芝居をする生徒)

Clémence Coullon(バンジャマンの生徒)

Lomane de Dietrichバンジャマンの生徒)

Anna Stanic(バンジャマンの生徒)

Jordan Sajousバンジャマンの生徒、最後のレッスンを受ける生徒)

Marine Gesbertバンジャマンの生徒)

Paul Flouret(バンジャマンの生徒)

Louis Seillé(バンジャマンの生徒)

Bénicia Makengele(バンジャマンの生徒)

Nicolas Jacquens(バンジャマンの生徒)

Nina Azouzi(バンジャマンの生徒)

Jonathan Buaron(バンジャマンの生徒)

 

Jean-Marc Lebrasバンジャマンの代役の先生)

 

Marc Fauveau(バンジャマンの「デスクの整理」を手伝う法定管理人)

 


■映画の舞台

 

フランス:パリ

コルベイユ・エソンヌ

CHSF(Centre Hospitalier Sud Francilien)

https://maps.app.goo.gl/YoVCh8eRuSpokM7w6?g_st=ic

 

ロケ地:

フランスのどこか

 


■簡単なあらすじ

 

俳優として売れず、俳優教室で試験対策を教えているバンジャマンは、40歳を前にしてステージ4の膵臓癌を患っていた

いくつかの病院、いくつかのケアの果てにたどり着いた場所は、CHSFの専門医エデのところだった

 

エデは「事実を話す」と言い、言葉を濁さずに病状と対策を伝える

彼は「いずれ癌が勝利する」と言い、「それまでの時間の生活の質を上げるために化学療法をやってみないか」と提案を投げかけた

 

バンジャマンは悩み抜いた末、再びエデの元を訪れる

そして、化学療法を行いながら、俳優教室も続けていくことになった

 

エデは院内で患者と接触するスタッフを集めてはミーティングを繰り返し、バンジャマンは生徒たちに「優秀な俳優ではなく、自分であれ」と説く

そうした時間は情勢され、夏から秋、そして運命の冬へと向かっていく

 

テーマ:緩和ケア

裏テーマ:診療の哲学

 


■ひとこと感想

 

ポスタービジュアルからはほぼ何も伝わらず、主人公はカトリーヌ・ドヌーヴさんで「母親が死ぬ話かな」なんて思っていました

実際には息子に先立たれる母が描かれていて、死を待つ家族にどう対応すべきかというものが描かれています

 

主治医のエデ先生役をしたのが現役の癌のスペシャリストで、映画で行われているさまざまなセラピーなどは、彼の勤めている病院で実際に行われているものでした

監督自身がガブリエル・サラ医師に「現場を見においで」と言われて訪ねた病院で生まれたインスピレーションは、サラ医師に本人役をオファーすることになるほど綿密で繊細な作品になっています

 

この完成度なら、看護師・医師の学校で全員が観ても良い題材だと思うし、それ以外の医療従事者にも関わってくる問題だと思います

 

個人的には、妻が癌で早逝した経験があって、その時に自分が感じていたことをエデ医師が語ってくれていました

まるで自分の人生を肯定された気分になって、改めて妻の人生は早逝ではあるものの有意義な人生だったのだなと思い知らされます

 


↓ここからネタバレ↓

ネタバレしたくない人は読むのをやめてね


ネタバレ感想

 

39歳でステージ4の膵臓癌という、もうこれ以上な何もできないというタイミングでエデはバンジャマンに向かうことになります

彼の治療方針は「事実」を話すことで、混じり気のない言葉でストレートに話していきました

 

「薬が効けば治るかもしれない」などという希望的な言葉は使わずに、「いずれは癌が勝利する日が来る」と言い、「癌になったことを恥じているのか?」と問います

 

また、バンジャマンの教室でも「瞬間を大切にし、自分自身を曝け出す」という授業を行い、そこで描かれていることはこの時点のバンジャマンだから教えることができるという内容になっていました

 

ともかく、「ステージ4の癌患者が寿命を終える」というただそれだけの話なのに、映画から伝わるメッセージは計り知れないものがあります

物語は誰かの人生をなぞったノンフィクションではなく、完全なるフィクションになっています

 

でも、御涙頂戴系のドラマで見るような陳腐なシーン、演出などは皆無に等しいと言えます

まるで、エデ医師の患者になったような気分にもなれるので、自分がもし同じ状況なら、医療従事者は嫌がるかもしれませんが、命ある限りこの映画を見続けるんじゃないかと思ってしまいました

 


終末医療に対する哲学

 

本作では39歳で末期癌ということになっていて、化学療法の意味合いも「生活の質を上げる(QOL)」という目的になっています

通常のがん治療では、腫瘍の摘出を目的として、化学療法や放射線治療などでがん細胞を小さくするという流れを汲みます

高度先進医療ではベース以外の治療もありますが、通常なら切除が可能なら切除、無理ならがん細胞を叩くという治療法がなされます

 

個人的なことだと、妻が35歳で乳癌に罹り、そこでは切除可能だったこともあって、乳頭残存の切除手術を行いました

その後、残っているかもしれないがん細胞を叩くために放射線治療を行なっていました

それから定期的に診察を受けて、3年目のある日に腰痛を発症、この時は立ち仕事ができるまで復活していたので、仕事による疲れかと思っていたそうです

最後の定期診察の際に痛みを訴え、そこで念のために検査をしたところ、転移が認められました

 

定期診察は3ヶ月に1回程度だったのですが、3ヶ月前は特に問題がなかったのですね

そこで見つかった転移はほぼ全身で、肺や肝臓などにも転移が認められました

そこから化学療法をすることになり、ホルモン治療も適用だったので可能な限りの治療を行いました

それから3年ほどの間に脳転移が2回、化学療法の副作用で間質性肺炎になったりと様々な状況を経て、これ以上の治療は難しいという判断に至りました

 

この時点でホスピスへいくことも考えたのですが、本人が在宅診療を希望し、様々なツテを頼りながら、自宅のリビングに医療用のベッドを置き、遠隔で通話ができる無線なども完備しました

私自身も仕事をしなくてはならなかったのと、本人が親族に頼ることを拒んだのですね

それで訪問看護師に自宅の鍵を預けて、私が仕事をしながらモニター監視をし、何かあれば駆けつけてもらうという方法を取りました

何度か訪問看護を呼ぶ事態になりましたが、トイレに動くのがやっただったこともあって、枕元で会話をするという毎日が続きます

ほとんど寝ている状態で、帰宅後にベット脇で一緒に寝るという毎日を繰り返していました

 

この経験があったこともあり、エデ医師のいう「事実を伝える」という哲学が自分達の状況にものすごく重なったのですね

それは本人が「今、自分に起こっていること」と、「これからどのような経過で死んでいくのか」の両方を知りたがっていたことにつながります

なので、主治医と相談しながら、また個人的に付き合いのある医師たちのお話を聞いて、妻に今この症状が出ている理由、これから起こることなどをひとつずつ教えていきました

 

その後、内視鏡を要する閉塞なども起こりましたが、適応ではなかったためにできず、黄疸が出て全身の痒みなどが出ました

意識が朦朧としてくることはわかっていたので、それを本人に伝えました

本人の強い希望で親族には最後まで伝えず、意識が無くなってから連絡をし、事の経緯を知らせることになりました

親族は本人の性格をよく知っているので特段驚かれることもなく、すんなりと受け入れていただけたのは助かりました

 

本人が病状に対して正しく理解し、そして経過を知ることはとても重要なのですが、本人が癌の進行状態を体感したのは言葉だけでは足りませんでした

全身転移を踏まえ、動ける時間が少ないと悟った私は、妻が行きたいと言っていた温泉旅行に連れて行きました

その時は本人もまだ動けると思っていたようでしたが、ホテルの玄関先からロビーに行くまでで息が上がってしまい、そこからは車椅子で移動することになったのですね

温泉も部屋にあるタイプを選んで入れてあげましたが、一度入っただけでかなり疲れてしまったようで、この一件で自分の予後を理解したと言っていました

事実を知ることだけではわからない部分がありますが、事実を知っているからこそ、理解が早いとも言えます

最終的にはDNRを選択し、呼吸が止まった段階で蘇生はせずに旅立つことになりました

 


終末医療の現場について

 

映画ではバンジャマンは病院での治療と緩和を選びましたが、それは母親との関係によるものだと思います

病院だと46時中一緒にはいられませんので、一人になれる時間というものが作れました

緩和治療はいかに痛みを和らげるかというところに行き着きますので、そこでできることは限られています

患者の症状に応じての点滴加療がメインで、あとは身の回りの世話などになっていきます

 

私の妻の場合は在宅医療を選択し、ほぼ毎日のように数時間看護師さんにきていただいて、医師は週に一度か二度だったと記憶しています

看護師さんの不在の時には喀痰吸引などを機械を借りて行い、食事の介助などもしていました

在宅に入った頃には何も食べられない状態だったので、看護師さんのいる時に点滴をして、水分だけを唇に含ませる程度で与えるという感じになっていました

排泄に関しては出るものが出ないので、看護師さんのいる間に行ったりしていましたし、動ける間は自分でトイレまで行っていました

 

一度、ベッドの上にいなくて、玄関先(トイレの前)のカメラに映っていた時には看護師さんに行ってもらい、その時はトイレに行った際にバランスを崩して転倒して立てなかったようでした

看護師さんとも遠隔モニターで話をしながら状況を聞いたり伝えたりしましたね

ちなみにこの時の通信費が死ぬほど高くて、ほぼ遠隔モニターでノートPCと繋ぎっぱなしで、今のような40Gで定額とかなかったのでヤバかったですね

でも、この状況が長く続くとは考えていなかったので、当時はいくら金がかかっても良いから、望み通りにしてあげようと思っていました

 

映画では主治医が不在で、母親がトイレに行っている間にバンジャマンは旅立つのですが、基本的に主治医が病院にいる間に臨終を迎える方が稀なことだと思います

病院の当直をしていると、患者さんの容体が急変するのはなぜか深夜帯のことが多く、もちろん病院には当直医しかいません

その当直医が主治医である可能性は極めて低いので、当直医が看取った後に主治医に連絡を入れるというのが通例になっています

本作でも別の医師が死亡確認をして、エデ医師に報告するというシーンがありました

 

これがホスピスとかになると少し状況が変わるかもしれません

ホスピスの在中医が主治医となれば、主治医に看取られることになりますが、一緒に戦ってきた医師というのは特別な関係なのですね

在宅でも在宅医に代わることが多いので、看取りに関してもバンジャマンの状況とは違います

主治医と最後まで戦うというのも一種の哲学のように思えますが、それが叶う場面というのは限られていると言えます

 


120分で人生を少しだけ良くするヒント

 

本作では「旅立つ許可を与える」という見送る側の心構えが描かれています

クリスタルは「最後まで戦いたい」と思っていましたが、それがヒロイズムにつながり、患者をより苦しめることにもつながってしまいます

治癒を見込んでいる場合は徹底抗戦で良いと思いますが、それが叶わないとなったとき、そこから先の治療にどんな意味があるのかを考える必要があるでしょう

ここでもエデ医師はきちんと「癌が勝利するときが近づいてきた」と言いました

 

私の妻の場合は余命に関しては消極的な医師だったので、最後まで残された期間は分かりませんでした

エデ医師も「統計上は」という言い方になっていて、「半年の人もいれば一年の人もいる」と言います

実際問題として、死期というものはざっくりとしか分かりません

 

私たちの場合は「在宅に入ってから生活の質が落ちること」が目に見えていましたが、それは「住んでいた場所で死ぬ」ということを優先したからですね

在宅は結局2ヶ月ぐらいで終わり、普通に動けたのが1ヶ月半、最後の2週間はベッドの上から動けませんでした

命日の2日前に貯留便を抜いた際に意識消失が起こり、そのまま下顎呼吸に陥りました

看護師さんから「近いです」と言われ、両親と妹を呼ぶことになりました

 

このまま呼吸が停止するのかと思っていたのですが、両親が駆けつけた段階で意識を取り戻して会話ができ、再び昏睡へ、そして妹が来たときに再度覚醒して会話が出来ました

それが深夜のことで、息を引き取ったのはその朝方になります

交代でそばについていて、私が仮眠しているときに呼ばれました

「どうやら、息が止まったようだ」と義父から言われ、それを確認し、在宅医と訪問看護師を呼ぶことになりました

延命治療はしない方針だったので救急を頼ることはせず、そのまま自然な形で看取りを終えました

最後はほとんど苦しむことがなかったようで、それが彼女の徳というものだったのかもしれません

 

このエピソードがあったので、エデ医師のいう「患者は死期を選べる」というものに妙な説得力を感じることになりました

私も彼女が旅立ったのは、自分自身の解放であるのと同時に、私の解放でもあったのですね

なので、再発からの3年間に終止符を打ったのは彼女自身だったと思っています

 

エデ医師のいう「デスクの整理」に関しても、全身転移が認められ、化学療法に入った段階で本人が全て行いました

最後の方は少し手伝いましたが、残っていた書類関係はほとんど捨て、彼女の部屋にはコレクションのDVDと本ぐらいしか残っていません

どこでこの考えに至ったのかまでは分かりませんが、遺すもの以外のほとんどを処分していましたね

 

本作はプライベートで重なる部分が多くて、その当時に自分達が考えてきたこと、行ってきたことが肯定されたような気分になります

すべての人が同じような体験ができるとは思いませんが、いつかは終末は来るわけで、その「許可を与えられる状況」というのは幸運なことかもしれません

本作は「ある男の生と死」を描いていて、それに関わった家族、生徒、医療従事者などの葛藤と取り組みが描かれていました

何かの病気になった時は、悪い想像を働かせるためではなく、自分の残された時間を正確に知るために病気について知ることは重要でしょう

また、本人がどうしたいかというものが最優先されるので、それを明確に伝えられると、なお良いと思います

事実の共有に勝る穏やかな臨終というものはないと思うので、他人にそれを強いることは難しいと思いますが、自分自身のその時のために少しぐらいは考えておいたほうが良いのだと思います

 


■関連リンク

Yahoo!映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)

https://movies.yahoo.co.jp/movie/383140/review/68507727-c47e-40f6-9c4f-fe876e74de2d/

 

公式HP:

https://hark3.com/aisuruhito/

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投稿者 Hiroshi_Takata

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