■震災10年後に描かれる本音の物語で、誰もが口にしたいけどできない禁忌だったように思えました


■オススメ度

 

震災の記憶について考えたい人(★★★)

 


■公式予告編

鑑賞日:2024.10.22(アップリンク京都)


■映画情報

 

情報:2024年、日本、55分、G

ジャンル:震災から10年経過した現地のタクシー運転手の奇妙な夜を描いたヒューマンドラマ

 

監督&脚本:堀江貴

 

キャスト:

岩田華怜(みずき:タクシーを利用する女性客)

冨家ノリマサ(遠藤:タクシー運転手)

 

畠山心(こころ:深夜の利用客)

長尾純子(こころの母)

大日琳太郎(じいじ:こころの祖父)

 

谷田真吾(竹ちゃん:同僚の運転手)

 

得家羊子(ラジオDJ)

 


■映画の舞台

 

宮城県:仙台市

 

ロケ地:

宮城県:仙台市

荒井駅

https://maps.app.goo.gl/yrEtnhwHB9N1yp8K7?g_st=ic

 

自然派ビュッフェレストラン六丁目農園

https://maps.app.goo.gl/H41cfQw6MVRE6VQA9?g_st=ic

 

荒浜里海ロッジ

https://maps.app.goo.gl/zLgw4Jg6ugwzST3m6?g_st=ic

 

荒浜慈聖観音

https://maps.app.goo.gl/EyKqXmA5wBGE12vw5?g_st=ic

 

仙台市立荒浜小学校

https://maps.app.goo.gl/MuNoBifRKTAEDhuHA?g_st=ic

 

震災遺構 仙台市荒浜地区住宅基礎

https://maps.app.goo.gl/LBPnGykdZDHPvAcw8?g_st=ic

 


■簡単なあらすじ

 

震災から10年、タクシードライバーの遠藤は、同僚のドライバー竹ちゃんから奇妙な噂を耳にする

それは駅に出没する若い女客のことで、いつも同じ場所に向かわせるというもので、幽霊ではないかと噂されていた

 

ある日のこと、遠藤は目深帽とサングラスにマスクという完全防備の客を乗せることになり、この女が例の幽霊かと戦慄する

行き先は「浜町」で、出発しようとした矢先に何者かが道に飛び出してきてしまった

 

そこに居たのは母親と娘で、二人も浜町を目指しているという

そこで彼女たちも一緒に乗せて向かおうとするものの、今度はエンジントラブルが起こってしまい、立ち往生してしまうのである

 

テーマ:憶え続ける意味

裏テーマ:解放の先にある未来

 


■ひとこと感想

 

ポスタービジュアルに世界各国の賞を受賞しまくったと書かれている話題作ということで何も知らずに鑑賞

まさか55分の短編とは思わず、ちょっとびっくりしてしまいました

 

映画館のある場所は時代祭の近くともあって、地上に人は溢れていましたが、映画館内も結構人がいましたね

ミニシアターの半分ぐらいが埋まるという状況で、いつもとは違う雰囲気の中で鑑賞することになりました

 

映画は、震災から10年経った宮城県を舞台にしていて、ロケ地も被災地ということになります

メディアで取り上げるにも節目の時くらいになりつつあったので、今どうなっているのかなと思いながら鑑賞

タクシー運転手が客を乗せる話の割にはほとんど立ち話になっていたのはびっくりしてしまいましたね

 


↓ここからネタバレ↓

ネタバレしたくない人は読むのをやめてね


ネタバレ感想

 

映画は、ネタバレなし推奨の作品なので、あえてキャスト欄でも関係性がわからない方にぼやかしています

冒頭から「女幽霊」の話で、その正体がわからないのにフルネームで記載している映画情報サイトはアホなんじゃないかなと思いました

とは言え、それがミステリーになるほどでもないのですが、素性を隠して乗るタクシーなので、普通ならあのタクシーだけは避けようとするのかなと思いました

 

物語は、遠藤以外全員知っているというネタバレがあるのですが、逆に遠藤だけが知らないという方が驚きではありました

言われないと思い出せない母娘は可哀想で、完全防備の娘はわからなくても仕方ないと思います

 

映画は、駅を出発してすぐに停車していたので、ほぼ数メートルも進んでいないくらいの距離感でずっと立ち話をしている印象がありました

その場所に向かう理由なども徐々に仄めかされるのですが、想像の範囲を超えることはないように思います

 

本作は、現地民及び被災者家族の目線の物語になっていて、それ以外の人がその視点に気づくための映画であるように思います

何かあるたびに「忘れない」と言ってしまうのは、無関係な人のエゴのようにも思えてしまいますね

 


いまだに特別視される理由

 

東日本大震災から13年が過ぎた今でも、震災を映画の中に落とし込むことは至難の業となっていて、それはいまだに根強い「空気感」というものがあるように思います

東日本以降にも多くの地震があり、被災された方はたくさんいるのですが、あの地震だけが特別視されるのは違和感が強いですね

本作も、当初は震災映画ということを全面には押し出していないのですが、いざ「震災から10年後」ということがわかると「震災映画なんだ」と思ってしまう自分がいるのですね

なので、このような「空気感」は世間も出しているけど、個人の思惑が積み重なっているもののように思えます

 

毎年のように「その日になったら特別番組が組まれる」というのは思った以上にたくさんあるのですが、あまりテレビを見ないと気づかないことかもしれません

「震災から何年目」というのをどこまでするのかは分かりませんが、区切りとしては10年目ということになるのでしょう

人が亡くなった場合でも、7回忌ぐらいまでは意識していても、10回忌となるとさすがに親族全員揃って大々的ということは稀のように思います

 

その日を思い出すことが次なる震災への備えになるのかは分かりませんが、「忘れた頃に来る」と言われるように、気に留めている間は意外と起きないものだったりします

それゆえに、それを思い出させるためにも必要に思うのですが、その都度、悲しみに暮れなければならないのかというのは別問題のように思います

十数年前に起きた震災のことを死ぬまで覚えておきたい人もいれば、忘れたい人もいるでしょう

個人の想いは個人が昇華させると思うし、それをとやかく言う必要もないと思います

なので、それぞれが胸に秘めて行動に起こすことが必要なので、それを拡散してもあまり意味がないように思えてしまいます

 

それでも東日本大震災が特別視されるのは、地震そのものよりも原発の爆発、人災的な側面が多いこと、いまだにその処理が終わっていないところに尽きます

なので、粛々と日々処理が行われているのですが、放射能に対する過敏さと言うのは日本では抜きようがないので、ある意味仕方ないのかもしれません

でも、震災関連の報道を見ていると、国民が知るべき肝心なことよりも、そこから目を逸らすためにヒューマニズムの方を押し出しているように見えてしまいます

現在、どのような処理が行われていて、今後どのようになるのかを定期的に報道する必要があると思いますが、1年に1回だけ思い出したかのように取り上げて、全く別のことを強調しまくる風潮と言うのはやめたほうが良いように思えます

 


アイコン化することの傲慢さ

 

震災を取り扱うと「震災映画」というカテゴリーに入れられてしまい、そこには「感動」「後悔」「安堵」などのワードが自然に組み込まれてしまいます

愛する人を亡くした家族を描く目線になって、そこで派生するそれぞれの悩みや悲しみと言ったものが、まるでテンプレートのように描かれ、同じような感情を持つことを強いられてしまいます

これが、震災直後ということならそこまで何も言われないのですが、10年も経つと「まだ同じ内容を描くのか」という感じになってしまいます

人の法要でも区切りはあって、それが日本を揺るがしたものだと永遠に悲しみ続けられないという風潮にあって、その空気はどうなのかという声が上がるのも普通のことのように思えます

 

かつて、関東大震災もあったし、太平洋戦争も経験した日本では、同じカテゴリーのものが「より一層強いもので上書きされないと永遠に言われ続ける風潮」があります

地震は毎年のように起こっていて、東日本大震災の後にも熊本、新潟、能登で大規模な地震というものが起こっています

それでも、いまだに東日本大震災が取り上げられるのは、原発事故と津波被害者の多さなのだと思います

この事象を超える地震がいまだに起こっていないことで、その後の地震の規模とは別方向で取り上げられてしまっているように感じます

 

この流れは「震災を忘れない」というスローガンの元に行われるのですが、この言葉には二つの意味があります

それが「教訓忘れない」というものと、「故人を忘れない」というものなのですね

本作では、後者である「震災被害者が生きている人に対するメッセージを放つ」という意味合いがあって、いつまでも縛られずに生きてほしいというものがありました

誰しもが故人を偲び、それを胸に抱いているし、毎日のように仏壇に手を合わせたり、命日にはお墓参りをしたりします

でも、この行為を全国的に報道して、みんなで同じことをしようというのはどこか違うように思います

 

故人との関係性は人それぞれだし、その亡くなり方や、家族に残したものは様々だと思います

この縁が切れることを望んでいた人もいれば、ずっと一緒に居たかった人もいるでしょう

そう言った個々のことは個人の感情に任せれば良いだけで、それをクローズアップして全国放送する意味はほとんどないと思えます

こう言った番組が視聴者に何を印象づけるかというところが大事で、それがきちんと為されていない故に不要に思えてしまうという現実があります

 

震災報道に至っては、科学的にどのような成果が得られたのかを国民に周知する意味とか、今度起こった時に何をするべきかを先人の行動から学ぶという意味合いがあります

この際に「犠牲者の行動は間違っていた」と断ずるのもナンセンスで、統計としてこのような行動を起こした人はどうなったかというものを客観的に知らせる意味はあると思います

また、現在進行形で処理中の問題であるとか、現在の被災地がどのようになっているとかをきちんと報道すべきであって、そこにいる人たちに過去に戻ってもらう意味はほとんどありません

そのたびに悲しみを蒸し返す意味もなく、かと言ってメディアを通じての発信に気を配らないと炎上案件になったりもします

このようなことが現地のストレスになっていると思うので、淡々と「現地ではこのような供養が行われました」という報告と、現在の取り組みについての提案を徹底するということに終始すれば、継続報道の意味があるのかな、と感じました

 


120分で人生を少しだけ良くするヒント

 

本作は、55分というとても短い映画で、内容も「タクシー運転手が謎の女を乗せる」というところから始まります

その女はいつも同じ行き先を指定するというもので、運転手仲間では「幽霊だ」と思われているというものでした

そして、主人公の遠藤もその女を乗せることになり、さらに同じ場所をしている親子を乗せるという流れになっていました

その後、実はという展開があるのが面白いところで、この女性の素性というのは映画のネタバレに直結するものになっていました

 

このブログの記事でも核心に当たるネタバレは本記事以外では避けるようにしていて、それはこの女性を「遠藤みずき」と評することを避けるというところに行き着きます

でも、多くの映画紹介のサイトでは「みずき」ではなくフルネームで書かれているところが多く、その瞬間に「乗せるのは娘か妻」だとわかってしまいます

震災から10年ということを考えれば、若い頃の妻という可能性もありますが、遠藤自身がそこそこの年齢なので、娘一択になってしまうのですね

なので、それがわからないように配慮する必要性はあるように思えました

 

日本に限らず、多くの映画では「その本名で関係性がわかる」というものがあって、あえてファーストネームだけで表記する場合もあります

また、フルネームを使ったり、あだ名を引用したり、ヒーロー映画だと「ヒーローに変身した後の名前」が併記されていたりします

記事を執筆しているのは12月中盤あたりなのですが、この時期に公開されたヒーロー映画のWikiでは、「映画の最後に得る名前」がガッツリと載っていたりします

間違ってはいないけど、一次情報でそれを載せてしまうのはどうかな、と思ったりもしていました

 

映画は、娘を乗せるタクシードライバーということがわかると冒頭数分の演出が無意味になっていて、彼女が顔を隠してタクシーに乗り込む意味も薄れてしまいます

結果として、それは大したネタバレではないのかもしれませんが、プロットとしての「謎の女を乗せる」を崩してはダメなのですね

なので、物語の中で描かれているとしても、あらすじなどと同じように扱われるキャラクター紹介欄というのは、配慮させるべきものかなと感じました

 

映画は、そう言ったところを無視しても面白い作品で、震災被害者と遺族の本音というものが見える良作だったと思います

後半にまさかのネタバレがあるのですが、これもネタバレレビューとしても隠しておいた方が良いことのように思います

完全ネタバレが必要なのは、その結末が考察の対象になっている場合で、本作にはそう言ったものがありません

なので、それを考慮しつつ、慎重に記事を書かないとダメなんじゃないかな、と感じました

 


■関連リンク

映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)

https://eiga.com/movie/102310/review/04395589/

 

公式HP:

https://gaga.ne.jp/lastpassenger/

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投稿者 Hiroshi_Takata

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