■誰かの英断を待っている時間ほど、無駄なものはないと思いませんか?


■オススメ度

 

コロナ禍を切り取ったヒューマンドラマが観たい人(★★★)

ほっこりする群像劇を観たい人(★★★)

 


■公式予告編

鑑賞日:2022.12.16(京都シネマ)


■映画情報

 

情報:2022年、日本、95分、G

ジャンルコロナ禍の直撃を食らった人々の20201117日を描いた群像劇

 

監督:戸田彬弘

脚本:ガク カワサキ

 

キャスト:

前原滉(恵紙亮介:コロナ禍が原因で結婚披露宴ができなかった夫)

大友花恋(恵紙ゆかり:亮介の妻)

 

柳ゆり菜(東雲真紀子:披露宴を企画する亮介の友人、元バイト仲間)

中島歩(稲田秀和:亮介の元バイト先の先輩)

篠田諒(武田圭吾:亮介の元バイト先の後輩)

めがね(田所ちひろ:真紀子の知り合いのインフルエンサー)

 

山時聡真(香取光輝:天体観測が趣味の中学3年生)

佐々木悠華(川村鈴:光輝の幼馴染)

菊池姫奈(鈴の親友)

晴野なち(鈴の親友)

 

アベラヒデノブ(片岡つむり:デリバリースタッフとして多忙な俳優の卵)

根矢涼香(コンドロイチン:深夜に練習する芸人ディオ)

辻凪子(コンドロイチン:深夜に練習する芸人ディオ)

 

ヤセル・ジャマル(つむりのウーバー仲間)

でぃばば(つむりのウーバー仲間)

フェルナンデス直行(つむりのウーバー仲間)

 

高橋努(淡路道彦:実家に帰れないタクシードライバー)

田山由起(淡路陽子:実家に帰っている道彦の妻)

のこ(道彦と陽子の子ども)

 

安倍乙(村野:淡路の同僚、配車受付)

大迫茂夫(淡路の先輩ドライバー)

 

池田良(淡路が乗せる酔っ払い)

つじかりん(コンビニ前で揉めるカップル)

野村啓介(コンビニ前で揉めるカップル)

 

竹下かおり(コンビニのおばちゃん)

大浦千佳(酒屋の店主)

 


■映画の舞台

 

都内のどこか

埼玉のどこか

 

ロケ地:

東京都日野市

日野市民プール

https://goo.gl/maps/jfhDYVNPc3f2cMv89

 

埼玉県飯能市

増田屋酒店

https://goo.gl/maps/YnCNz3M9ErU6UVe79

 


■簡単なあらすじ

 

コロナ禍で結婚披露宴ができずに地味婚になった亮介とゆかりは、引っ越しもできずに悶々とした日々を過ごしていた

そんな二人のために、亮介の元アルバイト仲間の真紀子は、自宅に招いての披露宴を企画する

そのパーティーには、バイト時代の先輩・稲田や後輩の圭吾も参加する予定だったが、ゆかりは会ったこともない人とこの時期に会うことにためらいと感じていた

 

ほどなく、稲田と圭吾が到着し、主役二人も辿り着く

真紀子はウーバーのデリバリーで頼んだオードブルをさも自分が作ったかのように演出していたが、肝心の手作りのロールケーキは高級店に存在を消されてしまっていた

 

一方その頃都内では、実家に帰った妻とスマホ越しで会話するタクシードライバー・淡路や、学校行事が軒並み中止になった光輝と鈴、役者を目指すもののウーバーで生計を立てるしかないつむりなどがコロナ禍の生きづらさにため息をついていた

 

ラジオは感染者数の報道で埋め尽くされるものの、その日は別の話題が独占しつつあった

それが「しし座流星群」の話題で、関東近郊では今日がピークを迎えると言うのである

 

テーマ:自己責任と言う名の責任回避

裏テーマ:感情の言語化の大切さ

 


■ひとこと感想

 

コロナ禍を扱った作品と言うことだけの情報を入れて参戦

ミニシアター系で初日に観ると言うタイミングは、いわゆる神様の導きと言うものかもしれません

大型映像コンテンツが大容量ゆえに時間が合わなかったのですが、その空いたスケジュールに何を入れるかを悩んでいました

 

映画はコロナ禍の影響を受けた人々を網羅する内容になっていて、芸能活動が止められた俳優、自粛で潰れた飲食店、学校の行事が中止になった中学生、そして結婚披露宴と新婚旅行ができなかった夫婦などが登場しています

 

何かにフォーカスすることもできたと思うのですが、本作では「日常化しつつある自己責任論と生活」と言うものが根底にあって、国民性と言うものが色濃く出ている内容になっています

「何かあったら困るから」と言うのが口癖になっているタクシードライバーの言葉が印象的で、その空気感と言うものが「強制なき自粛ムード」を作っていたことを思い出します

 

ラストが希望に満ちていてよかったなあと思う反面、コロナ禍をどう捉えたかと言うマインドが自分とは随分違うんだなと思い知らされましたね

 


↓ここからネタバレ↓

ネタバレしたくない人は読むのをやめてね


ネタバレ感想

 

コロナ禍の段階でどの職種に就いていたかとか、何歳だったかなどは運の要素しかなく、個人的には「たまたま病院に勤めていたので失職しなかった」と考えています

病院だと、それはそれで大変だったのですが、情報が近い分だけ、冷静に把握することができたとも言えます

 

幸い自分の親族には罹患者も死者も出ず、失職や行動に影響が出まくった人がいなかったのですが、そのあたりも含めて運が良かったとしか言いようがありません

もし、登場人物と同じ状況だったら、今のようなマインドになっていたかはわからないと思います

 

映画は、それぞれの悲喜交々を描きながら、コロナ禍で一旦中断になった「再交流」にスポットを当てていました

仲間内だけで披露宴をするとか、幼馴染だけで天体観測をするとか、同じ境遇の仲間同士で空を見上げるなどの「変化」が描かれていました

 

コロナに関しては「最初は何もわからないから」と言うものがあって、映画の時期だと「ちょうど1年目あたり」になりますね

この頃だと、ある程度の枠組みが見えてきた頃なのですが、医療機関の肌感覚と世間の認識のズレは大きかったと言えます

でも、そのズレを指摘しても、受け入れられるマインドにはなかったので、発信自体がマイノリティの戯言だったと言う時期であるように思えました

 


コロナ禍と日本人

 

日本は今、「絶賛、コロナ禍中」で、「世界一、コロナの患者が多い」のだそうです

この報道一つを取っても、知能の低さが滲み出ていて、「TVを見るとアホになる」とは秀逸な一撃であると言えます

連日の感染者数の報道も景色になっていて、東京で何万人になろうが誰も興味を示しません

1日に亡くなった数が3万人とかならインパクトありますが、ほとんどの人が何もせずに治る病気になった現在、これほどまでに検査をする必要があるのかはかなり疑問であると思います

 

私は救急病院の救急事務をしているので、一般人よりはコロナに詳しいのですが、同じ病院の事務員さん同士でも「知識の差は結構ある」のですね

それは、病院に降りてくる情報というものが一括されておらず、保健所や厚生労働省からの情報よりも、各種メディアの報道の方が早かったりします

また、コロナ罹患での療養時期は職場に行けないので、その間の情報がゴソっと抜けたりするのですね

これは過渡期だからという言い訳にもなっていますが、個人個人が得た知識をいかに共有できるかという職場の雰囲気なども大きかったりすると言えます

 

個人的には、今現在3つの病院を掛け持ちしているので、医療機関によって対応の違いを間近で見てきました

発熱対応できないような1.5次救急から、コロナ病床のある病院まで多岐にわたって仕事をしているので、おそらくは普通の医療機関の職員より詳しい可能性があったりします

また、自衛の意味も込めて、コロナとは何なのかというところは探究しますので、自慢になるかもしれませんが「コロナ始まってから1000回映画館に行ったけど、一回もコロナに罹っていない」のですね

このあたりは「実はかかっていたけど」という可能性はありますが、症状自体が出たことがないので、基礎疾患があるハイリスクであるのにも関わらず、コロナ関連で体調を崩したことはなかったりします

 

日本人の特徴の一つとして、「和を以て尊しとする」というのがあって、これがコロナ禍では「同調圧力」という言葉になり、政府広報には「大切な人のために」というプロパガンダに利用されてきました

現在では、「罹ると仕事を休んでしまって迷惑がかかる」というのが一番の理由で、「罹ると重症化する」とか、「家族にうつすかも」と言った理由は、当初よりは下がってきたように思います

自分自身が無症状感染者かもしれないなどと言い出したらキリがなくて、最終的には罹った人の免疫力と体力によって、発症するかどうかが決まるのですね

なので、過剰に反応し、過剰に心配することでストレスがかかり、それによってメンタルが体力に影響を及ぼしている、という人は少なからずいるように思えてしまいます

 

コロナ禍は日本人の特性を炙り出し、それは諸外国でも同じような感じになっています

経済活動を優先する国が健康をおざなりにしているわけではなく、何が1番のリスクなのかを考えて、国のトップが発信しています

日本では「専門家の意見を聞きながら」しか言わない首相が何も決めないまま3年間を無為無策で過ごしてきました

日本では「経済活動の停滞で若者が死ぬよりも、コロナ罹患で高齢者が死ぬことの方がプライオリティが高い」という状況になっていて、それが習慣化されています

諸外国のように経済活動を優先すると「老人の切り捨てか」などと声を荒げる人がいますが、社会福祉の基盤を担っている人たちの減少によって、自分たちの年金の開始時期の遅れや医療費負担増になっていることにまで考えが及ばない人が多すぎるのもどうかと思ってしまいますね

 


その日を「待つ人」「創る人」の違い

 

映画のサブタイトルは「その日を待ちながら」ということで、コロナ禍の初期が舞台になっているので、どうなるかわからないという情勢が大半を占めていました

報道で危機を煽り、フェイクニュースに踊らされる中で、緊急事態宣言が発令され、多くの国民が経済的な困窮に見舞われています

私個人は病院勤めなので、困窮はないけれど身体的リスクはあるという状況に置かれました

それでも、日常をほとんど変えることなく過ごし、緊急事態宣言下以外では、普通に映画館にも通っていました

 

個人的な話をすると、コロナの罹患ルートが当初は不明でしたが、重症率と重症度の目安、コロナの特性などを様々な角度から調べた結果、映画館にさほどリスクはないと考えました

むしろ、映画を見終わった後にロビーで談笑するとか、人の多いレストランで語り合いながら食事することの方がリスクが高いことは予測できました

なので、可能な限り「人の少ない時間帯」「人の座らない前方の座席」「ドアtoドアで公共機関はなるべく使わない」という指標を設定して、行動の可能性を広げていくことになりました

これらの行動は、受動的にならないことを念頭においていて、それこそが今求められている行動様式なのかなと考えていました

 

その日を待つというのは他力本願で、日本だと「首相が英断をしてウィズコロナに踏み切るまで何もしない」という意味になります

そんな中で「些細な幸せ」として、「仲間内で会って飲み会をしたりする」という、幸福論のマインドシフトの方向にばかり思考を巡らす人が多かったと思います

先の英断を日本の総理大臣がすると考える人はほとんどいないと思うので、日本ではコロナ禍は永久的に続く可能性があります

もともと、流行病は10年ごとに繰り返しているので、このままだと「次のコロナ以外の感染症が流行って継続される可能性」の方が高いかもしれません

 

こういった時は、諸外国からの圧力によって行動を変えるのが日本という国なのですが、諸外国における日本の魅力というものは以前ほどは低くなりつつあります

なので、諸外国から圧力がかかるという可能性も低くて、首相の外遊などを見ると、国内でコロナ禍の押し付けをして、海外で関係者と会うときはそこの慣習に合わせてマスクをしないというダブルスタンダードがまかり通っていたりします

 

どうしてこのようなことが起こるかというと、単純に首脳陣が無能ということではなく、この状況の方が様々な理由において、有益に働く層がいるから、というのが正解に近いのでしょう

なので、コロナ禍で利益を得てきた人たちの旨みがなくなれば、こう言ったものはあっさりと終わるのではないでしょうか

わかりやすく「使途不明金が数兆」なのに、防衛費問題で増税、防衛を理由に金融緩和というわかりやすい手を打ちまくっているので、こう言った背景をいかにして見ていくかということが鍵になるのではないでしょうか

 

それでも、同調圧力が強い国で、国民総監視社会でもあるので、外側には息をつく場所はありません

なので、○○警察の餌食にならないように、インテリジェンスで行動様式を見直していくことが求められています

ちなみに、私がコロナが大したことにはならないと感じたのは、「マスクがファッション化したから」でした

街角でウレタンマスクが流行りだし、それは予防には効果がないとわかっていながらも、誰もが「見た目重視」でマスクをしています

もし、コロナが空気感染で、透過率の高いウレタンマスクで罹患者を増やしまくっていたら、あの時点で相当な死者数が出ていたはずなのですね

なので、ほとんどノーガードに近いファッションマスクの流行でも、「コロナの活動周期の方が優先されているという感染状況」を鑑みると、「待つことの意味」というのはほとんど感じないのではないでしょうか

 


120分で人生を少しだけ良くするヒント

 

本作では、「結婚披露宴が流れた夫婦」「学校行事が流れた中学生カップル」「リモートで自宅業務になって拗れた夫婦」などが描かれていました

また、「舞台が無くなった芸人&俳優」というものもあり、「緊急事態宣言で閉鎖された飲食店」なども出てきます

この映画の良いところは、そんな理不尽な状況下なのに、誰も自殺に向かうことがない点ですね

経済苦で自殺者が急増というニュースなども走りますが、少なくとも「経済苦になったけど自殺を考えるまでに至らない若者」というものが描かれていました(店長は少しヤバかったけど)

 

コロナ禍の映画なのに、登場人物の家族周辺も誰も死なないのですが、このあたりの描写がほとんどないというのはファンタジーだからではなく、本当にそこまで影響を受けた人がものすごく少ないから、とも言えますね

この時代を切り取る映画はいろんな角度で作ることができて、コロナ禍の恐怖として「身近な人の死」をクローズアップさせることもできるし、そもそもがどの登場人物も「同じ境遇で死を選ぶ人がいる」という状況だったりします

でも、そこまで至る物語にしなかったことが、却ってよりリアルさを感じることに繋がっていました

 

現在でも東京都で3万人の人が毎日罹って、死者が30人くらい出ていますが、映画の登場人物の半径に限定しても、それに遭遇する方が稀という状況なのですね

森を見て木を見ずであるとか、実際に亡くなっている人がいるから配慮すべき(映画だと誰か死なせるべき?になるのかな)みたいなことを考える人はいたとしても、陰謀論よりも思慮の浅い言いがかりのように聞こえてきます

そう言った人がいるのは確かで、コロナ禍の犠牲者を映し出す映画は必要だと思います

でも、その役割を担うのが「若者向けの映画ではない」というのは明白でしょう

なので、一人も死なないというシナリオにしたことで、本来描きたいものの純度が上がったのではないかと感じました

 

タイトルが『散歩時間』ということで、とても優しい印象を受けるのと同時に、「コロナ禍の健全な行動範囲を示す言葉」としては秀逸な印象があります

自宅から少しだけ遠出をしてみて、でもあまり誰とも関わらずに個人の時間を大切にする

それが「散歩」という言葉が持つイメージで、「戻って来れる距離まで動いてみる」というのは、「待つ」よりも「創る」という意味合いに近いように思えます

披露宴ができなかったから、仲間内でやろうとか、夢が消えかけているけど、頑張っている人を見たらまた頑張れそうとか

挫けることが簡単な世界において、それぞれの行動を規定したり、否定したりせずに、「もう少し、続けてみようか」というスタンスは心地よいと思います

散歩というのも、そのマインドに近くて、同じコースを延々と回る人もいれば、いつもとは違う景色を感じたいというものまで様々だったりします

 

コロナ禍は確かに色んな波紋を呼びましたが、こんな理不尽な世の中だとしても「理を持つ人」はいるのですね

それが闇の馬鹿野郎とかではなく、半径10mから少しはみ出たところにいる、というのが、コロナ禍の距離感なのかなと思います

なので、違う景色をみるために、ひとつ手前のバス停で降りてみたとか、少し違い道を歩いてみた、という行動の延長線上に「創る」という行為が生まれるのかなと感じました

すでに2年経った時点で「思い出映画になっている」のですが、10年後だと「笑い話になっている」方がいいですね

コロナの一番の大敵は「心理」であると思うので、その抑圧を和らげるためにも、まずは一歩家の外に出て、朝日を浴びてみたら良いのではないかと思います

 


■関連リンク

Yahoo!映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)

https://movies.yahoo.co.jp/movie/384208/review/8d9b4a44-4ed3-4781-b5d6-42e60368b061/

 

公式HP:

https://sanpojikan.com/

アバター

投稿者 Hiroshi_Takata

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA