■スクロールする側とされる側を描き、視点を固定化することで、さらなる深みを描けたのではないだろうか?
Contents
■オススメ度
若者独特の閉塞感を描いた作品に興味がある人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2023.2.7(TOHOシネマズ二条)
■映画情報
情報:2023年、日本、117分、G
ジャンル:ある同級生の死によって再会した若者たちを描いた青春群像劇
監督:清水康彦
脚本:清水康彦&金沢知樹&木乃江祐希
原作:橋爪駿耀『スクロール(講談社、2017年)』
キャスト:
北村匠海(僕:希望を持てずSNSに「死にたい」投稿を繰り返している会社員)
中川大志(ユウスケ:僕の学生時代の友人、テレビ局勤務)
松岡茉優(菜穂:恋愛至上主義でユウスケに近づく「私」の友人、市役所職員)
古川琴音(私:「僕」の同僚、イラストを描くのが趣味)
三河悠冴(森:「僕」とユウスケの大学時代の同級生)
莉子(ハル:森が好きなアイドル)
相田翔子(彩子:森の母)
MEGUMI(モモ:ユウスケたちのいきつけバーのオーナー)
金子ノブアキ(生田:ユウスケが取材する大学教授)
水橋研二(加藤:ユウスケの上司)
忍成修吾(コダマ:「僕」と「私」のパワハラ上司)
國森桜(カコ:ユウスケに結婚を迫る女?)
五頭兵夫(「私」にイラストを依頼するクライアント)
■映画の舞台
都内のどこか
ロケ地:
神奈川県:横浜市
横浜 クリフサイド
https://maps.app.goo.gl/zKHKPszdQpzY4RbS6?g_st=ic
東京都:目黒区
Bar OKOZE.
https://maps.app.goo.gl/vv75g3k5qAnCGr8TA?g_st=ic
東京都:世田谷区
バワリーキッチン
https://maps.app.goo.gl/kF51SdMbaEAxGNb46?g_st=ic
東京都:大田区
明神湯
https://maps.app.goo.gl/5QxwGGz5UvD3dfer7?g_st=ic
東京都:狛江市
狛江市役所
https://maps.app.goo.gl/Hw92H2sJZWrEfVDA6?g_st=ic
■簡単なあらすじ
パワハラ上司に頭を抱えている「僕」は、SNSのアプリに「死にたい」と書き綴り、「上司が死んだらいい」と書き殴っている会社員だった
閉塞感に蝕まれる中、自殺を試みた「僕」だったが、大学時代の友人ユウスケの電話で思い留まることになった
ユウスケの電話は「大学時代の知り合いである森という男性が死んだ」というもので、「僕」はユウスケから「あること」を依頼された
「僕」の投稿にはフォロワーが一人だけいて、彼の投稿に「いいね」をつけていた
ある日、彼の職場にて、「僕」が書き込んだ一文を上司のコダマにぶつける社員がいた
彼女は同僚の社員で、その言葉のあと、会社を退職することになった
その後、行きつけのバーにて彼女と再会した「僕」は、彼女が会社を辞めてフリーのイラストレーターを始めると聞く
そして、彼女の友人である菜穂はユウスケに興味を示し、悩めるユウスケを惑わすのであった
テーマ:やりたいことみつからない症候群
裏テーマ:自分を愛せない人々
■ひとこと感想
Z世代が共感という、頭の悪そうな宣伝文句がありますが、世代で人をカテゴライズする知性は何を目指しているのでしょうか
本作は若者に共感性があると思いますが、それはZ世代に限らず、何となく学生時代を過ごして、答え合わせに強い人たちが社会に出て閉塞感を感じている様子を描いています
やりたいことが見つからないとか、自分探しというものが「甘え」であると言われるのと同時に、部下の自主性に甘えて明確な指示や指針を示せない世代も害悪なのかなと思えてしまいますね
本作は、社会人になって迷いが生じていると言えば聞こえはいいのですが、安定性を求めながら刺激のない毎日に退屈しているという贅沢を描いているとも言えます
受動的に見える人々が突如「答えのない世界に放り込まれる」という流れの中で、自分を愛せない人々が足元から掬われていっているような印象を受けました
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
若者の苦悩系の映画は好んで観るのですが、相変わらず共感だけはできない内容が多いですね
命に対する感覚が薄くて、想像力が足りないというテンプレのような描写があって、役者さんの力量で画になっている部分が多すぎる気がします
本作は「序章を含む8章構成」になっていて、そこで「僕」と「私」という一人称がぶつかるという意味のわからない脚本になっています
原作がおそらくオムニバスっぽくて、それぞれの章が違う人物の視点になっていて、それを俯瞰的につなぎわせるとこうなる、という感じに見えます
それがうまく機能していれば良いのですが、本作の場合は章立てを細かくしすぎて逆にわかり難くなっているような気がしました
自己紹介的な「僕」「ユウスケ」「菜穂」「私」と来て、その間に「僕とユウスケ」以下略みたいな感じで、再会をきっかけにして画面の中に収まっていきます
でも、オープニングの「絶望のモボ」という映像作品を考えると、視点は「僕」に固定する方が良いのですね
でも、そうなると「私」には名前がないために問題が生じています
それを解消するために「仮名」をつけることである種の誘導が始まってしまうので、それによって「共感性の高い一人称から別人格として距離感のある人物になってしまう」のですね
なので、本作は一人称がダブルでありながらも、「私=彼女」と置き換えることで問題は解消できたのではないかと思いました
■人称の重要性について
物語を語る上で「視点の固定」というものはとても大事で、特に本作のような「僕」「私」で語られる物語は、それが固定されていないとややこしくなってしまいます
「私」などのような「一人称代名詞」は、その視点が固定されていて、「私」が知り得ない情報というものは「基本的」には描かれません
固有名詞が登場する場合は「神様視点」になることが多く、それによって、それぞれの登場人物の目線、それらを傍観する目線などが混在していきます
単純に言えば、「私」の章において、いきなり「僕」が出てくるとややこしいのですね
一人称代名詞で描かれる作品は、「私は私の章」で完結し、別の章にて「僕」が登場します
この使い分けがなされる場合、「私」の章で登場する「僕」は「A」などのような固有名詞になるのが常であると思います
本作では、原作準拠だと思うのですが、「私」にも「僕」にも固有名詞はありません
なので、「私」と「僕」を同じ章で描く場合は「神様視点」となり、「彼」なり「彼女」なりの置き換えが起こります
本作は章立てになっていて、「僕」「ユウスケ」「僕とユウスケ」「菜穂」「私」「僕とユウスケと菜穂と私」のように続いていきます
構成としては、「僕」と「ユウスケ」は関係性があるため、「僕」の章も「ユウスケ」の章も「僕視点」で固定されます
同じように、「私」と「菜穂」も関係性があるために、「私」の章も「菜穂」の章も「私視点」になるのが通常でしょう
でも、本作は映画なので、「語り」がなくても物語は進んでいけます
ただし、固有名詞がない二人は、永遠に「名前では呼ばれない」神様視点という歪な状況に陥ってしまいます
これらの弊害は視点がブレることで、特に「僕と私が同居する空間」というものが、意味は通じるけど何かがおかしいという感じになってしまいます
「僕と私が同居する時間」を文字に起こすとわかりますが、それぞれの行動を文字化する際には「僕や私を固有名詞化」することになってしまうのですね
言い換えれば「僕=A」みたいな感じで、4人が揃う瞬間は「A、ユウスケ、B、菜穂」という名詞が並んでいることになります
Aは「エー」とは読まずに、「ボク」と読むみたいな感覚と言えば伝わりやすいかもしれません
一人称代名詞の特徴は、主人公の視点で世界を観ることであり、それによって感情移入がしやすくなります
異性の一人称代名詞は「=A」みたいなもので、「私=彼女」と置き換えられてしまいます
この置き換えがあるのが普通の感覚なので、この映画の章立てというのは実質的に「彼、ユウスケ、彼女、菜穂」という言い換えに近いイメージがあって、この状況になってはじめて、「神様視点」というものが導入されるのではないでしょうか
■勝手にスクリプトドクター
本作は「主体性のない若者」が主人公で、「僕」は「森の死」によって人生を動かされてしまいました
森が死んだことでユウスケと話す機会ができて、自殺を思い止まることになっていて、これは偶然の出来事だったと言えます
そこから「森の葬式」に参加したり、BARで「4人+@」が集うようになって、そして「絶望のモボ」という架空のキャラクターが生まれてきます
森は好きなアイドルの自殺によって絶望に苛まれて連鎖自殺をするのですが、彼の日常のささやかな清涼というものが奪われたことによって、解放を求めたと言えます
これは「僕」も同じような過程を経ていて、森にならなかったのは「森が先に死んだから」という偶然性に他なりません
もし、「僕」が先に死んでいたら、「ユウスケが電話をかけたのは森だったのかもしれない」のですが、ユウスケと森の関係性は「僕」とユウスケの距離感とは少し違うように見えます
それは、「僕」の章も「ユウスケの章」も、基本的には「僕視点だから」で、この章はひと括りにしようと思えばできるものでしょう
本作は細かい章立てになっていて、冒頭のモボを入れれば8つの章から成り立っています
でも、実際には「僕とユウスケ」「私と菜穂」「みんな」という三幕構成にすることも可能でした
冒頭の「モボ」のシーンは賛否はあれども必要なシーンですが、オープニングで延々と流して、回想録的な演出にする必要はなかったでしょう
三幕構成で物語を展開させるとして、「僕とユウスケの章」にて「森の死を知った瞬間」に「モボの一部分が生まれます」
森という存在を思い出す中で、僕は自分の過去を森に重ねながら、「もし森として生きていたら」という感覚を有します
そして、ユウスケと会話を重ねるごとに「モボ」が現実化して、僕の過去において、森と接触して生まれたものを思い起こすことになります
同じように、「私」も「菜穂」との関わりの中で、モボに匹敵するようなものが出来上がるはずですが、本作ではそれは登場していません
それは「私も菜穂」も「僕」の心の中にいる存在で、いわば「僕が作り上げたモボのような世界の住人である」という見方をすることもできます
僕にとっての「私」は「僕の理想」だと思うのですね
そう考えると、「僕」「僕とユウスケ」「僕と私(彼女)」「僕と菜穂」という流れになった方が良かったのかもしれません
具体的な話の流れだと、
【オープニングイメージ】
どこかの店の階段を上がっていく「モボ」
顔ははっきりと映さずに「口元のほくろ」を移し、「モボ」の視点で店内を映す
その先にいる「メイド服を着たハル」
【起】僕とユウスケ
僕の日常、パワハラの日々、それを見ている「私」
SNSへの投稿、それを見る「私」
僕の日常、プライベート
別の日、昼休み休憩から戻ると「私」が上司と揉めている
そのまま去る「私」、呆然とする「僕」
「私」の行動によって(この時点では何かわからず)、上司のパワハラがエスカレート
自殺を考えていると、ユウスケからの電話
森の死を知るも「顔を思い出せず」にスマホの写真を見る(ホクロの学生が写っている(オープニングシーンが少し動く)
【承】私(彼女)と菜穂
上司と一緒にBARに来ると、そこに「彼女と菜穂」がいた
上司の顔がこわばるも雰囲気を察して菜穂がフォロー
彼女と話す「僕」、彼女は上司とのことは何も言わず、辞めたことも言わない
そこにユウスケからのメール「近くに来た」
場所を教える「僕」、でき上がっている上司、そこに来るユウスケ
ユウスケを見て菜穂の態度が豹変、不貞腐れた上司帰る
ユウスケと飲み、頼み事をされる(森の写真を見て過去を思い出す=オープニングシーンさらに進む)
【転】森の葬式に来る「僕」とユウスケ
森の母と会う、森の遺影を見る(オープニングシーンさらに進む)
森の母にユウスケが言葉を浴びせて険悪なムードになる(オープニングシーンの最後まで、ここでモボの顔が映る=僕の顔)
日常の回想(上司からのパワハラの日々=顔は森)にて、森のパワハラを追体験する
逃げ出す「僕」、唖然とするユウスケ
【結】
日常回帰、蔚積した「僕」、上司に「マジで死んでほしい」と口走り殴られる
上司は反射的に手を出してしまい、それによってクビになる
BARで飲み会、4人で会う(その様子を見ている上司、森の話をする、自分に重なるという告白、それを聞いているユウスケ=ユウスケ自身のフラッシュバック、森と僕のパワハラと同じシーンで顔はユウスケ)
放火騒動、それを目撃する4人、ユウスケが上司を楽しそうに追う
釣られて僕も追い、それを見た彼女と菜穂が盛り上がる
【エンディングイメージ】
原稿を手にする「僕」、横には彼女がいる
それを読む彼女(脳内で再現映像、原稿はタブレットの画面上で、彼女はスクロールさせながら読んでいる)
オープニングの完全なるシーン(場面が切り替わるたびに「僕」「森」「ユウスケ」の顔に変わる)
ハルとキスをするシーンにて顔が「僕」から「彼女」の顔に変わる
原作のことは完全に無視していますが、要は「森の死によって触発されたのは僕だけではない」というところで、会社員としてパワハラを受けたことのある人物が「全員モボ」と重なっていくということを示唆します
個人的には、キスをした「彼女」のシーンのあとに「ハルの顔が菜穂に変わる」というシーンを入れたいですね
それによって、菜穂の内面の闇がハルと同化し、ユウスケたちに見せていない裏の顔が暴かれていきます
これらの「モボと同化する」というものを「冒頭で示唆」「劇中で進行」「ラストで完成」という流れにして、ラストショットで菜穂を組み込む
これによって、モボに共感する側とハルに共感する側のどちらの心も抉る、という構図を生みます
菜穂はパワハラには無縁ですが、彼女の恋愛体質とか結婚願望に関して「ハル側の苦悩(=人格を演じることによる乖離と破滅)」を埋め込むことで、主要6人の背景が全部描かれることになるのではないでしょうか
以上、素人が考えた「さいつよ脚本」でした
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
映画は「若者の苦悩」を描いている今風の映画なのですが、一人称を固定して描きながら、少しだけ群像劇っぽさを演出した方が良いかなと思いました
「僕」の視点で描かれるものなので、基本的には「僕の知っているユウスケたち」を描き、彼らの単独の背景は描きません
でも、「森」という共通認識によって、そこに瞬間的に「ユウスケたちの顔をオーバラップさせること」によって、「僕」も森もその他の人々も「実は森だった」ということが判明します
僕、彼女、ユウスケは、それぞれ違う人生を送っていますが、そこで感じていることは違う
そんな日常は「描かなくてもモボを想像する段階で自分を同化させる」ことによって明確になっていきます
モボは「森と僕」がオーバーラップした架空ですが、森を見てユウスケが自分を重ね、モボを見て「辞めなかった世界線の彼女」が登場する
ここに菜穂まで載せると過剰になるので、菜穂はハル側の人間であることを仄めかす方が良いでしょう
森もハルもどちらも死を選んだ人間で、「人格を失って死んだ」という根幹は同じです
なので、主要人物6人はそれぞれ「死を意識していること」を見せていくのですが、本作の作風を考えると「ワンショットで見せる」というのが合っていたように思いました
会話を必要以上に削り、視点を固定させることで、それらは十分に可能だったように思えました
世代的には上司世代の私ですが、若者特有の浮遊感というものはかなり過去のことにように思います
映画の鑑賞年齢層はいわゆるZ世代とその少し上ぐらいになると思うのですが、そこに響かせるメッセージ性は「森との同化」であり、全く違う職種や性別の違いがあっても「同化する」というのを描く必要があったでしょう
そして、「僕」とは違う感覚で死を感じる人々がいて、それが「ハルと菜穂の視点」であると思います
これを物語上で延々と書くとブレるので、そこも控えめに「感覚的にはワンショットで描く」ことで、一気に視点の広がりを見せることができると考えました
この広がりを映画で描くことによって、固定されがちな若者のイメージは多角的である、という印象をつける
これが上司世代に訴えかけるメッセージとなり、同時に「失われているもの(若者だった頃の自分の苦悩)」を呼び起こすことに繋がります
この映画で若者の全てが理解できるとは思いませんが、このアプローチをすることで映画としての質は高まったのではないかと考えています
ちなみに個人的なこだわりとして、「誰かが作った創作物を見る」というのが「スクロール」という言葉に繋がっていると感じているので、最後に「モボを生み出したこと」によって、「僕がスクロールされるものを作る側になる」というのを入れ込みたいですね
蛇足を承知で考えるなら、彼女が読む原稿は「PC上」で、それをスクロールしながら読むというのが良いかなと思いました
■関連リンク
Yahoo!映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
https://movies.yahoo.co.jp/movie/384251/review/1d215e9d-a12b-4f80-884b-a80dcb555a23/
公式HP: