■世界を憂うよりも先に、自分の未来に悶えるのが人類という存在


■オススメ度

 

モノクロ映画に興味がある人(★★★)

チャンバラのない時代劇に興味がある人(★★★)

汚物の映像が大丈夫な人(★★)

 


■公式予告編

鑑賞日:2023.5.2(アップリンク京都)


■映画情報

 

情報:2023年、日本、90分、G

ジャンル:安政の世にて、武家落ちの娘と下肥買いの青年たちを描いた青春映画

 

監督&脚本:阪本順治

 

キャスト:

黒木華(松村きく/おきく:ある事件で声を失う武家育ちの娘)

貫一郎(中次:紙屑拾いから下肥買いに鞍替えする青年)

池松壮亮(矢亮:下肥買いの青年)

 

眞木蔵人(孝順:きくが読み書きを教えている寺の住職)

佐藤浩市(松村源兵衛:きくの父、元勘定方)

石橋蓮司(孫七:元早桶屋の長屋の住人)

 

峰蘭太郎(木挽町の長屋の大家)

山口幸晴(長屋に住む賃金払わないやくざもの)

杉山幸晴(長屋に住む按摩の座頭)

本山力(長屋に住む傘職人)

まつむら眞弓(長屋に住む女)

當島未来(長屋に住む女)

大石彩未(長屋に住む女)

 

柴田善行(半兵衛:矢亮がクソを売る農家)

 

東山龍平(信二郎:源兵衛の元部下)

 

杉山晴(寺の小坊主)

福田心太郎(おきくの生徒)

音野高徳(おきくの生徒)

高橋彩(おきくの生徒)

 


■映画の舞台

 

日本:江戸時代

安政5年〜文久元年

東京の片隅、木挽町(現在の江戸川区南部)と江戸・葛西(現在の中央区南部)

 

ロケ地:

京都府:京丹後市

五十河桃源郷

https://maps.app.goo.gl/1ejNwpcWETkD2FAw7?g_st=ic

 

京都市:右京区

大覚寺

https://maps.app.goo.gl/QAVyXK9Mip9bCTbg6?g_st=ic

 


■簡単なあらすじ

 

江戸のはずれにある木挽町では、下肥買いの矢亮が相棒が逃げて困っていた

雨の日、偶然川屋の前で紙屑拾いの中次と出会った矢亮は、彼を相棒にしようと誘う

その気がなかった中次だったが、いつしか行動を共にするようになり、下肥買いになってしまう

 

その町には武家から落ちてきた松村源兵衛とその娘・おきくも住んでいて、その雨の日に二人に出会っていた

矢亮が「おきくさん」と呼ぶと怒り、中次が呼ぶと微笑むおきく

だが、身分の違いから、二人の距離が近づくことはなかった

 

ある秋の日のこと、大雨のせいで長屋一体が下肥まみれになってしまう

矢亮と中次が呼ばれて始末をするものの、そこでもおきくとの関係性は進まない

 

そんな折、源兵衛と因縁を持つ侍が町を訪れる

源兵衛は偶然その場で仕事をしていた中次に対して、「惚れた女ができたら、『世界で一番好きだ』と言ってみな」と言い残して去っていく

父の異変を察知したおきくは彼を追うものの、父の戦いに巻き込まれたおきくは首を切りつけられ、声が出せなくなってしまったのである

 

テーマ:惚れたばか者たち

裏テーマ:世界の正体

 


■ひとこと感想

 

モノクロ予告編を観ていて、どっかでカラーになるんだろうなあと思っていましたが、やめてほしい映像でカラーになったりしていましたね

扱っている職業ゆえに必要な映像ではあるものの、モノクロだと耐えられても、カラーになるとさすがにキツいものがありました

 

映画は「循環社会だった江戸」を描いていて、糞尿が堆肥になる流れを描いていきます

そんな中で出会った身分の違う若者の恋を描いていますが、時代性もあって、思った以上にスローテンポで物語が展開していきます

 

ジャンルとしては、社会の変容の中で生き方を見つめ直す若者を描いた青春映画ではありますが、章立てが細かく、テーマがわかりづらい内容になっていました

短編を繋ぎ合わせたようなシナリオになっていますが、撮影方法も独特で、一本の映画になる過程も、従来の制作方法とは異なるように思えました

 


↓ここからネタバレ↓

ネタバレしたくない人は読むのをやめてね


ネタバレ感想

 

SDGsが叫ばれて幾星霜と言う感じですが、元々循環社会だった日本では、さほど大きな潮流は起こっていません

パフォーマンスだけで指揮を振る人々に振り回されている格好になっていて、世間知らずが陣頭に立つと無意味な縛りが増えるだけのようになっています

 

映画は、誰もがやりたがらない仕事を描き、なかなかキツい映像がずっと続いていきます

この内容をカラーで上映すると「開始5分で9割は逃げ出す」でしょうし、そもそも予告編を流せなかったと思います

 

身分の違う恋を描いているものの、うぶな世界で悶えているだけなので、微笑ましくも思う一方で、物足りなさがあるように思えました

序章を含めて全9章になっていますが、さすがに細分化しすぎで、章の終わりだけカラーになっている意味はあまりわかりませんでした

 


循環社会とは何か

 

映画で描かれる「循環社会」とは、人々の生活で出たものがそのまま自然のサイクルに溶け込むことを示していて、わかりやすく「糞尿が肥料になる」というものを描いていました

現在ではもっと高度化していますが、糞尿を肥料にするということよりも、無機物に属するものの環境への配慮を軽減させることに力を注いでいます

ペットボトルや紙などの再利用、古着などもあって、これらを「3R」と言います

Reduce(資源の使用量を減らす)、Reuse(そのまま使う)、Recycle(再利用する)の頭文字を取ったもので、SDGsよりもはるか昔から浸透している概念のようなものですね

 

循環社会(Sound Material-Cycle Society)は、1990年台から議論されてきて、2000年に基本法(循環型社会形成基本法)が制定されています

環境省は「循環型社会白書」というものを毎年発行していて、政府としては「基本法15条に基づき、2003年から5年ごとに基本計画を策定している」のですね

最新の2018年の第4計画では、経団連も自主的な行動計画を提唱しています

定義として、「廃棄物の発生の防止」「天然資源の消費の保全」「環境負荷を限りなく軽減する社会」というものがあります

 

現在では、より高度かつ総括的な環境負荷軽減を求められているので、自治体によってはゴミの分別に差が大きく出ていますね

私の知る地域だと「プラと可燃ごみが一緒」という地域もあれば、「プラとペットは一緒」もありますし、「プラとペットは違う」なんてところもあります

可燃ごみの中に「プラが一切入ってはだめ」というところもありますが、可燃ごみを燃やすための燃料になるからOKという考え方もあったりします

可燃ごみを効率よく燃焼させるために別のものを使うよりは、プラ製品を利用するという方法で、排出するガスの方を抑止&浄化するという方法もあります

このあたりは考え方によって異なりますが、大型クリーンセンターに行ったことがある人ならば、ゴミの分別に利権があるんだんなあと感じると思います

 


「世界」とは何を指す言葉なのか

 

映画の中で、おきくの父・源兵衛が「なあ、世界って言葉を知っているか?」と中次に聞くシーンがありました

世界という概念が日本に入ってきたのは、インドから中国を経て、漢語として伝来されたと言われています

源流となるサンスクリットは「ローカトゥ(loka-dhaatu)」というもので、「空間」「林の木のない場所」「空き地」のような意味がありました

この言葉は仏教用語として使われていて、「命あるものが生存し、そこにおいて一仏が教えを広める空間」という意味があるそうです

 

このサンスクリットが漢語になったときに「世界」という言葉が使われました

「世」は時間、「界」は空間という意味があって、いわゆる3次元と4次元をひとつで表す言葉になると言えます

ちなみに諸外国、とりわけ古代ギリシアでは「Kosmos」と呼ばれていて、これは「カオス」の逆の概念として、「美しい飾り」「秩序」という意味を持ちます

また、キリスト教の『ヨハネによる福音書』では、「言葉は世(コスモス)」にあった。世は言葉によって成ったが、世は言葉を認めなかった」という一文があります

キリスト教の概念では「世を作ったのは神様」なので、神によって与えられた秩序という意味合いがあるとされています

 

源兵衛は仏教徒ですが、彼が「世界」という言葉を使ったのは、もっと俗物的なことなのですね

彼は政府の勘定方(政府の経理)として働き、その不正を内部告発したことで追い出されています

安政5年は江戸でコレラの流行がありましたが、映画ではスルーされていましたね

この年には日米修好通商条約の調印があった年で、ペリーが来日したのが安政元年のことでした

 

なので、源兵衛は「諸外国の力」というものを間近で見た人物でもあり、日本の小ささというものを痛感していると言えるでしょう

ある意味、仏教などで聞いた「世界」という概念がリアルになっているのですが、それらの概念と源兵衛が中次に伝えた意味は少しだけ違っていると言えます

 


120分で人生を少しだけ良くするヒント

 

映画は序章を含めた全9章で、章の終わりにカラーになるという演出がありました

モノクロでごまかしてきたものがカラーになることで、美しく見えたものは実は違ったという印象を与えていきます

もし、全編カラーだったら最後まで鑑賞できるかどうか自信のない内容なのですが、現場ではガッツリとカラーだったりするのですね

このあたりの感覚の差を瞬間的なカラーで埋め合わせているように思いました

 

映画は青春時代劇という感じで、親を亡くし、声を失くしたおきくが同年代の友人たちと絆を深めていく物語になっていました

ラストシーンでは「おきくと中次だけ」ではなく、そこに矢亮もいて、恋愛としての結末というふうには描いていませんでしたね

てっきり、中次とおきくがそのような仲になったことを示すのかなと思いましたが、そこまでの進展はしていないという解釈なのかもしれません

 

「惚れた女ができたら」という源兵衛ですが、同時に「おきくはやめとけ」と続けているのは面白かったですね

その理由が中次の職業とか、出身とかではなく、「扱いにくい女だ」というところが、往年の苦労が垣間見えてしまいます

おきくの家庭では母親が早逝しているようで、二人暮らしになってからはおきくが主体として生活が成り立っていたように見受けられます

それが父親がだらしないからなのかはわかりませんが、おきく惚れた男には態度が変わるという特性があるので、ある程度の関係性の間は猫を被るのかなと思います

 

彼らの恋愛&青春が循環社会とどう結びつくのかはわかりませんが、そもそもが「循環を強制する必要がある社会」に動いて行った歴史の方を細かく見ていく必要があります

循環社会だった江戸の変貌と、循環社会の中で置いて行かれているように見える日本はどうして出来上がったのか

循環社会のバランスが崩れるのは、何かしら「過度なことが起きたから」なのですね

人口が爆発的に増えてモノが必要になった時代から、便利を追求して利害だけを優先した工業化などもありますが、今では「幸福追求のために無駄になるもの」というものが生まれています

その最たるものが「SNS映え」のために購入されて捨てられるモノだったり、「動画再生のために無駄に購入されるモノ」だったりと、消費がエンタメになった時代からおかしな方向に動いているように思えます

 

また、増えすぎた人口が経済的な活動を享受する背景で、必要以上のモノを作ることや、必要以上の雇用を作ることも問題視されていたりしますね

経済的に永続的に発展するためには、常に価値を創造する必要があり、そのために「いらないものまで作る」というものがあり、「必要なものでも比較のために多くのものが作られる」ということもあります

人間の幸福追求とそれに付随する経済活動が循環社会の最大の敵ではありますが、どちらを優先するかで極端な思想がぶつかっている風潮はあります

 

このような問題は人口が減っていくことで解決したりするのですが、今はその過渡期のように思えます

これまでに多くの文明が消えていったように、その終焉というものは自然的なサイクルの中で起こるのでしょう

そうしたものが数年先なのか、数百年先なのかはわかりませんが、100年後のことを考えて行動できる人の方が少ないので現状を変えることは無理だと思います

多くの人は「それを何とかしよう」と考えるよりも、「そんな社会に生きていく子どもがかわいそう」というふうにマインドシフトしていくので、さらに悪化の速度は増してしまうのではないでしょうか

 


■関連リンク

Yahoo!映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)

https://movies.yahoo.co.jp/movie/385982/review/e1187515-b66e-4888-be5b-cf6cce5405d8/

 

公式HP:

http://sekainookiku.jp/

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投稿者 Hiroshi_Takata

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