■人物以上に挿入歌が語ってしまうことの弊害は意外と大きいかもしれません
Contents
■オススメ度
水墨画に興味のある人(★★★)
立ち直ろうとする人を応援したい人(★★★)
清原果耶さんの美しさを堪能したい人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2022.10.21(イオンシネマ京都桂川)
■映画情報
情報:2022年、日本、106分、G
ジャンル:水墨画との出会いによって、人生を切り開いていく若者を描いた青春映画
監督:小泉徳宏
脚本:片岡翔&小泉徳宏
原作:砥上裕將(『線は、僕を描く(2019年、講談社』)
キャスト:
横浜流星(青山霜介:水墨画と出会い、自分を見つめ直すことになった大学生)
(幼少期:中須翔真)
清原果耶(篠田千瑛:湖山の孫、水墨画家、霜介が内弟子になったことが気に入らない大学生)
三浦友和(篠田湖山:水墨画の巨匠、霜介を強引に内弟子にする)
江口洋介(西濱湖峰:湖山の弟子、水墨画家)
細田佳央太(古前巧:霜介の親友)
河合優実(川岸美嘉:霜介と同じゼミの学生、霜介の影響で水墨画を始めサークルを作る)
矢島健一(国枝豊:美術館の館長)
凪川アトム(滝柳康博:大手広告代理店の営業マン)
井上想良(笹久保隆:大手広告代理店の営・業マン)
富田靖子(藤堂翠山:水墨画の評論家)
篠原真衣(藤堂茜:翠山の孫娘)
丸山真亜奈(青山椿:霜介の妹)
山本直匡(霜介の父)
藤堂海(霜介の母)
リカルド・バルツァリニ(外国から来た大臣)
エステヴェ・メツ(大臣の秘書)
小池まり(司会者)
■映画の舞台
日本のどこか
ロケ地:
滋賀県:大津市&湖南市&東近江市
三重県:木曽岬町
滋賀県:大津市
成安造形大学
https://maps.app.goo.gl/gxtGitLFP1BnPXWf9?g_st=ic
滋賀県:多賀町(湖山と霜介が出会う場所)
多賀大社
https://maps.app.goo.gl/4cNEXYDbAoHZDpcJ8?g_st=ic
五個荘近江商人屋敷 外村繁邸(湖山の家)
https://maps.app.goo.gl/kfjsZJdb5PS5ZN94A?g_st=ic
弘誓寺(湖山が襖絵を描く寺)
https://maps.app.goo.gl/cHjXEvbWM7gMfKzw5?g_st=ic
■簡単なあらすじ
親友の古前に頼まれて絵画展の設営に来た霜介は、そこで「椿の水墨画」に心を奪われてしまう
設営の準備を終えた霜介はスタッフルームに出向き、そこで仕出し弁当を食べようとしていると、そこに湖山が現れて、関係者用の高級弁当を霜介に手渡した
「千瑛ちゃんがゴネている」と言う湖峰、悩んだ挙句に湖峰と湖山は霜介に水墨画の展覧会の手伝いに巻き込んだ
霜介はそこで、湖山の圧倒的なパフォーマンスに魅了され、白と黒の世界に取り憑かれていく
そんな彼を見て、湖山は「どうだ? 内弟子にならないか?」と尋ねた
突然の誘いに戸惑うものの、霜介は自分には無理だと湖山に告げる
だが、湖山は「水墨画教室の生徒なら?」と食い下がり、霜介はそれを受けることになった
霜介が生徒になったことを聞いた千瑛は、自分への当てつけだと激昂するものの、霜介に対しては親身になって水墨画の基礎を教えていく
やがて、水墨画の世界にのめり込み始めた霜介は、さらなる深淵へと足を踏み入れていくのであった
テーマ:命と向き合う
裏テーマ:線の芸術
■ひとこと感想
水墨画がテーマとなっていて、そこに好きなキャストが満載だったこともあって迷わず鑑賞
水墨画をスポ根のように仕立て上げながら、霜介の内面にふれていくドラマ性、水墨画の深淵に近づいていく芸術性など、とても素晴らしい作品であったと思います
霜介の家族に何があったかを知らない状態で見ていたので、まさか一家惨殺とかそっち系なのかと思っていましたが、そういったショッキングなことよりも、あまり語られない悲劇と言うところに深みを感じてしまいました
水墨画の展覧のシーンでは、すべてのキャラクターがイキイキとしていて、湖山のシーンも圧巻ですが、湖峰のシーンはものすごい説得力がありました
あのシーンを間近で大きなスクリーンで体感できたことは感無量だったと言えます
個人的に大好きな清原果耶さんの淡麗なる美と、心に染みるような低めの「湖山の弟子ならば」と言う言葉が頭から離れません
命と向き合う表現者ならではの哲学が、この作品には込められていると思います
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
水墨画を実際に見た機会は数えるほどしかなく、さほど興味のある分野ではありません
美術展に行くこともありましたが、個人的にはリチャード・エステスのような写実主義が好きでしたので、本作の中だと千瑛の水墨画が一番の好みになるかと思います
映画では「家族の喪失」を抱えた霜介が、水墨画との出会いによって、家族との思い出を取り戻していくのですが、実家に帰るシーンはハッとさせられてしまいます
ここで東日本大震災レベルの災害ではなく、毎年どこかで起こる水害というものをクローズアップすることにとても意味がありました
水墨画で描かれていくのは「線の芸術」であり、水害をもたらす川というのは自然界は作り出した「線の芸術」なのですね
なので、霜介から全てを奪った「線の芸術」が、彼を再び命の前に引き摺り出していくという運命の悪戯が恐ろしくもあります
映画では、湖山が霜介を見出した理由は解釈によって分かれる感じになっていますが、千瑛の絵に涙する感受性というものに、彼女自身の壁を打ち破る何かを感じたのかもしれません
■命を描くとはどういうことか
芸術に限らず、人が作り出すものには「命が宿っている」と言えます
特に「手作りで作られるもの」かつ「量産されるものではないもの」というものに命が宿りやすいと言えるでしょう
でも、実際には量産品であろうとなかろうと、そこには作り手の命は宿っているわけで、それが購入者や受け手の感情を刺激することはたくさんあります
これらの反応に関していれば、芸術だけが特別なものではなりません
とは言うものの、自分自身の表現を主体とする芸術は、それらの物品とは一線を画しているのも事実であり、だからこそ人の感情を強く揺さぶるということが起きます
丹精を込めて様々なものを作り出しますが、芸術に関しては「相手のことを考えない」という領域が存在するのですね
これがいわゆる「アートとデザイン」の境界線になっています
デザインとは利用者の利便性であるとか、感情であるとかを想定して作られますが、アートに関しては「評価は二の次」で、いかにして瞬間的に自分をそこで表現できたかという自己肯定感というものが生まれていきます
映画の話で言えば、千瑛は「写実主義のリアリズム」で、湖峰は「感性主義のロマンティシズム」であると言えます
特に湖峰が一枚絵を描く際に失敗をして、それに対して「千瑛」は「あっ」と言って顔をしかめ、湖峰はそのアクシデントを利用していました
湖峰からすれば、描く前に描いたものと違ったものができてもOKで、アクシデントこそが命を描く上で重要なものという意味合いになっています
どちらもが自分の納得が行くものを追求していますが、湖峰はその時の表現が理想から遠くてもOKだと考えていて、彼の中には失敗という概念はないように思えました
千瑛は理想が高く、一筆の過ちも許しませんが、それは湖山の模倣を突き進んでいたからだと言えます
湖山は千瑛に「自分の線を見つけろ」と言いましたが、人はうまくこなそうと思うと、何かしら自分を偽る部分が出てくるのだと思います
そうしたものを湖山は見抜いていて、千瑛の殻を壊すために霜介を内弟子にしようと考えたのではないでしょうか
湖山が霜介を招いたのは「霜介の中に水墨画を描きたかった」というニュアンスになっていますが、それを描くのは湖山自身ではありません
千瑛の絵に涙した霜介の人物像に興味を持ち、彼はどんな線を見つけるのかに興味を持ったのでしょう
千瑛のためということもありますが、湖山は右手がうまく使えなくても左手で描こうとしていて、芸術への執着が霜介という無垢に刺激されたとも言えます
霜介は絵の前で感情を出せる人で、感情ある人の命は輝いて見えます
それゆえに、湖山は霜介が水墨画の世界で何かを成し得るという予感を持ったのではないでしょうか
■「線」に込められた様々な想い
水墨画を描いたことはありませんが、油絵や水彩画には心得があります
初めて油絵を描いたのは中学校の授業で、何を描いたかと言えば「機動警察パトレイバーのアルフォンス」を描いたのですね
おそらくあの教室でアニメ(漫画)の絵を描いたのは私だけだったと思うのですが、とても楽しい思い出になっていて、その絵は今でも自宅の中にあります
絵というのは線でできていて、それは骨格にあたります
塗るという作業もありますが、面を作る上での「線の太さが違うもの」という認識を持っています
今では範囲を指定してDrawなんてことになるのでしょうが、CGでなければ「筆を動かさないと塗れない」のですね
大きな範囲を塗るという作業は「太い線をたくさん重ねる」という作業になるので、絵は線で構成されているといえるのでしょう
また、技法として点を置くということがあって、点によって線を描くということもあります
線というのは骨格を表すので、線のない絵は点によって境界線が敷かれているということになるでしょう
映画で言えば、龍に目を入れたり、葉っぱの細かな紋様を描くために点を置くという工程がありました
水墨画は特に線だけで構成される要素が多くて、それゆえに余白(白)が強調されていきます
余白と墨の芸術になっていて、単調に思えるものに躍動感が与えられています
千瑛が霜介に教える際に「筆にどのように墨を載せるか」ということを説明していて、描かれる線には準備段階で命が宿っていると遠巻きに教えていました
湖山が執拗に霜介に墨を摺らせるシーンがありましたが、墨を摺るという行為は心を落ち着かせるだけではなく、良質な墨を摺るためにためには脱力が必要になってくるからとも言えます
墨を摺った経験がある人ならわかると思いますが、摺る墨の量によって墨の粘性が変わってきます
映画では言及されませんが、墨を摺る中で墨の違いについて霜介に学んでほしかったのかなと思っていました
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
あらすじサイトなどでは「霜介の両親が死んだ」ということが既にはっきりと明言されていますが、本作の予告編と本編の流れでは、「霜介に何が起こったのか」はミステリーの扱いになっていました
霜介が抱えている闇とは何か、というつくりになっていて、原作未読&ネタバレ回避できた私としては「妹が通り魔に殺されたとかかな」なんてことを思いながら見ていました
「お兄ちゃん、助けて」だけのセリフだと、そのように誤解してもおかしくはありません
この背景がミステリーになっているのは、映画が千瑛目線だからなのかなと思いました
主人公は霜介ですが、映画の中で大きく変化するのは千瑛の方かなと感じています
本作は「霜介が喪失から立ち直る」というものと並行して、「千瑛が現状を打破する」というものがありました
そして、千瑛の現状の打破に必要だったのが霜介の過去であり、霜介の立ち直りに千瑛の打破は必要ではないと捉えることができます
千瑛が頑張っているから、というよりは、自分を拾ってくれた湖山のために尽くそうと考えるのが霜介なので、千瑛目線では霜介の物語は必要ですが、霜介目線では千瑛の物語は必要不可欠ではないと言えます
原作がどのようなスタイルで描かれているのかわからないのですが、映画から感じたものとして誤解を恐れずに書くとするならば、千瑛の成長のために湖山は霜介を彼女の元に送り、そして彼女の性格などを熟知した上で、霜介の眠れる力を利用しているとも捉えられます
実際に湖山がどのような想いで霜介を引き込んだのかはわかりませんが、映画では「霜介への興味」というところに留まっていましたね
でも、それを言葉にすると陳腐なので、狼狽を含んだ状態で「宗介に興味があったから」と結ぶのは悪くないと感じました
映画は本懐の説明を避けている部分があるかと思えば、直接的な表現で挿入歌が入るという演出になっています
私個人はYamaさんの楽曲は素晴らしいと思いますが、映画に関しては音響バランスと挿入部分に難があったかなと思います
私はこのシーンにMVっぽさを感じたのですが、本作のテイストには少し合わないかなと思いました
あまり本音を言い合わない人々が登場する作劇に於いて、このシーンの『Lost』は表現が直接的すぎるのですね
歌詞自体は映画にちなんだもので感動を呼び起こすものではありますが、音量が大きすぎて「はい、歌詞をちゃんと聞いてくださいね」となっているのが問題なのだと思います
また、この楽曲のシーンでは「会話のシーン」なども背景にあり、それが聞こえづらいという演出になっていました
監督としては、そこで語られる会話よりも歌詞の内容が重要と判断したことになるのだと思うのですが、映画を観ている側としては「会話が音声としてちゃんと入っている」というシーンに日本語詞がガッツリと絡んでくると、双方が打ち消しあって「どっちも聞こえない」となってしまいます
なので、もし歌詞が重要なら、霜介と椿のやりとりは会話音声なしにして、もし会話が重要だとするならば「歌の間奏部分で会話を入れる」ということは必要だったと思います
最近の流行りで「メディアミックス」を予感させる「MV的手法」は様々な邦画に入り込んでいますが、本作では効果的に使われたとは言えないと感じました
■関連リンク
Yahoo!映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
https://movies.yahoo.co.jp/movie/382055/review/bfd843e5-a382-46d7-9f81-6bcb7e8f63db/
公式HP:
https://senboku-movie.jp/