■学舎が無くなっても、あの歌があることで、心の中で生き続けるのではないでしょうか


■オススメ度

 

青春時代に恋をした人(★★★)

卒業式の意味を知りたい人(★★★)

 


■公式予告編

鑑賞日:2023.3.1(ユナイテッドシネマ枚方)


■映画情報

 

情報:2023年、日本、120分、G

ジャンル:卒業式を間近に控えた高校生を描いた青春映画

 

監督&脚本:中川駿

原作:朝井リョウ『少女は卒業しない(集英社)』

 

キャスト:

河合優実(山城まなみ:3年B組、料理部の部長、答辞を任される)

窪塚愛流(佐藤駿:3年C組、まなみの彼氏)

丸本凛(宮下遥:まなみの親友)

 

小野莉奈(後藤由貴:3年B組、バスケ部の部長、心理学を学ぶために東京に行く)

宇佐卓真(寺田賢介:3年B組、バスケ部員、由貴の彼氏、地元の大学に進学、教員志望)

 

小宮山莉緒(神田杏子:3年B組、軽音部、部長、森崎の幼馴染)

佐藤緋美(森崎剛士/刹那四世:3年A組、軽音部員、「Heaven‘s Door」のボーカル)

田畑志真(小西真由美:杏子の後輩)

市来流星(石川春樹/心音:「Heaven‘s Door」のベース)

山﨑竜太郎(高田伸夫/カムイ:「Heaven‘s Door」のドラム)

高橋伶(菅野知樹/世界が消えてなくなるまえに:「Heaven‘s Door」のリードギター)

林裕太(桜川智:「PUZZLE」のボーカル)

ema(軽音学部、「ぜりぃふぃしゅ」のボーカル)

mariko(軽音学部、「ぜりぃふぃしゅ」のボーカル)

 

中井友望(作田詩織:3年B組、図書館好きのぼっち生徒)

藤原季節(坂口優斗:現代文の教員、図書館管理、既婚者)

花坂椎南(木村沙知:作田のクラスメイト)

 

瀧七海(岡田亜弓:在校生代表、送辞)

真雪(同級生)

まりあ(同級生)

輝美(生徒の母)

イワゴウサトシ(岸谷先生)

谷仲恵輔(教師?)

石本径子(教師?)

志水花音(バスの小学生)

勝間星矢(「PIZZLE」のメンバー?)

鈴木駿之介(「PIZZLE」のメンバー?)

 


■映画の舞台

 

校舎の取り壊しが決まった地方の高校

島田高等学校

 

ロケ地:

山梨県:上野原市

上野原市立旧島田中学校

https://maps.app.goo.gl/f5Ddby4MAJJZ7Gx2A?g_st=ic

 


■簡単なあらすじ

 

校舎の取り壊しが決まった高校の最後の卒業式

リハーサルの答辞に指名されたのは、山城まなみで、館内にはどよめきの声が上がった

そつなくこなしたまなみだったが、教師から「校舎の取り壊し」について言及してほしいと言われてしまう

 

そんな彼女の指名に驚いたのは、クラスメイトの作田詩織で、彼女はクラスに馴染めずに図書館に入り浸っていた

彼女は図書室を管理する坂口先生に恋心を抱いていたが、先生は既婚者で叶うはずもない恋を抱えていた

 

そんな彼女らの卒業式は、その後に軽音学部のバンド三組がコンサートをする予定になっていて、ヘビメタルバンドのボーカル森崎は卒業デビュで髪を染めている

軽音学部の部長・神田杏子は彼に頭を悩まされながらも、彼のある秘密を知っていた

 

そんな彼女らのクラスメイトには、卒業後に遠距離になる後藤由貴と寺田賢介がいて、由貴は夢のために別れることを決めていた

寺田は割り切れないまま卒業を迎え、2人の間には気まずい雰囲気が流れていた

 

そして、彼女らは様々な想いを抱えたまま、卒業式当日を迎えることになったのである

 

テーマ:卒業と同時に置いていくもの

裏テーマ:卒業しても置いていけないもの

 


■ひとこと感想

 

高校の卒業式は記憶の彼方で、どのキャラクターに近いかと言われれば、クラスの隅にいるモブキャラだったと思います

卒業後は実家を離れることが決まっていたので、心情的には由貴に近いですが、当時はチキン&ブレイクハートの真っ最中で、遠距離恋愛になるだけマシに感じてしまいますね

 

映画は、様々な想いを抱えた高校生たちの群像劇ですが、その中心には山城まなみがいましたね

彼女の過去はみんなの過去であり、その彼女が答辞をする、というのは学年全体に大きな意味をもたらしていました

 

彼女の行動によって、多くの生徒が「高校時代にやり残したことはないか」と考えるのですが、その多くは「好き」という感情をどのように整理しようかと考えているように思えました

 


↓ここからネタバレ↓

ネタバレしたくない人は読むのをやめてね


ネタバレ感想

 

主要4人の女子高生が直接絡まない群像劇ではあるものの、絶妙な関わり方に変化していきましたね

同じ3年B組ということもあって、クラス内で話すシーンはありませんが、それぞれが自分の青春の後始末をしようと考えているように思えます

 

青春には「=好き」というイメージがあって、それが異性だったり、部活だったり、教師だったり、教科だったりと、いろんな「好き」と絡み合っています

将来への転換点であるものの、この時点で抱えている「好き」は、結構人生に影響を与えるのではないかと考えています

 

映画は、高校生が遭遇する多くのことをバランスよく配分していて、誰もが主人公に思えてきます

でも、まなみの答辞が生み出したものが森崎の歌になって、その歌によって、ままみが卒業できたのは、奇跡的なことだったように思えました

 


この世界が私のすべて

 

高校時代を思い返すと、「自宅と学校が世界のすべてだった」と言う人は多いと思います

どこかに自分の居場所を探していて、部活動、親しい友人、バイト、自宅、どこかのショップなどがそれに付随してついて来ています

私個人の高校時代の居場所は「友人の家」でしたね

ちょうど「MSX」とか、「PC8801」が登場した時代で、それを持っている友達の家に遊びに行っていました

 

高校時代の居場所がどこにあるかと言うのは、その少し先の過去となる中学時代の影響が大きいと思います

個人的な話だと、小学校6年生の時に両親の離婚があって、中学の時は妹と弟のために家事を手伝いながら、やってみたかったサッカーをすることになりました

当時は『キャプテン翼』が最盛期の頃で、トライアングル・フォーメーションができるのかどうかをクラブの同級生たちと真似していた世代でした

でも、体育会系に素養がないことがわかり、1週間ほどで帰宅部になりました

そこからは、特にやることもなく、小学校でのクラブ活動だった「小説」からは距離を置いていました

そんな時に出会ったのが、「PC8801とMSX」と言うコンピューターでした

 

ちょうどファミコンが登場した頃でしたが、親は「プログラムの勉強ができるMSX」の方を買って、私に与えることになりました

周りの9割がファミコンだったので、クラスの話題についていけず、そんな時に「MSX」を持っているクラスメイトがいたのですね

彼の父はおそらくエンジニアか何かで、彼の家には「PC8801」があって、そこで簡単なゲームを作ったりしていました

私はMIDI音源にハマって、それで簡単な曲を作ると言うのをやっていて、MSXマガジンなどの雑誌に楽曲を投稿すると言うことをしていました

 

この時は、自宅は家事、学校は帰宅部、大学を考えられる状況ではなく授業も参加するだけでしたので、「世界のすべては友人の部屋」だったのですね

この映画の登場人物だと、図書館に通う詩織に近いのですが、そこに行く理由はまったく違いました

登場人物の多くは「何らかのクラブ活動の中心人物」になっていて、私からすればスクールカーストの上の方の人たちに思えます

でも、そんなカーストの上にいる人たちも、ただ馴染めた場所が学校の中にあっただけで、そこまで大きな違いはないのかもしれません

 

そこが世界のすべてになってしまうのは、その外に出ることが禁じられるからです

普通の高校だとバイト活動が禁止なので、学校の友人以外の人と知り合う機会があまりありません

でも私の場合は、夏休みなどではOKだったので、そこで高島屋の配送センターで荷物を運ぶと言う仕事をしていました

そして、そこで会った大人との交流があったので、学校以外の場所に居場所を作ることは可能だったと言う環境がありました

 


卒業と同時に起こること

 

卒業というのは、その居場所がリフレッシュされることを意味し、特に高校から大学への進学は、これまでの関係性を嫌でもリフレッシュさせてしまいます

私は大阪から京都に移住したために、大阪の友人たちとは疎遠の状態になっていきます

大学に入ると、いろんなところから来た人たちと過ごすことになり、クラスというのがないので、「選んだ教科のゼミ」とか「サークル活動」というのが、居場所づくりのファーストステップになります

親元を離れて暮らすことで、自宅で付随してきた家事から解放され、小学校の時に中断した「野球」を再開することに決めました

サークルではなく、ガチの硬式野球部に入り、甲子園に出た先輩たちと一緒に野球素人が混じるというとんでもない展開を迎えます

 

高校時代の居心地が良かった人は、この劇的な環境の変化に戸惑い、それが畏れとなってしまいます

私はあまり人見知りをしないタイプだったので幸いでしたが、自分より上の年代とか、違う地域の人と話せるようになったのは、高校時代のアルバイトが原因であると思っています

あの時に、外の世界を知ったことで、高校が人生のすべてではないことを知り、そして常に学校の外側に自分の世界がありました

これは自分が意図したことではなく、家庭環境がそうさせたのですが、当時は生きることに必死だったから耐えられたのかなと思っています

 

高校時代には色んな青春がありますが、その多くは「好き」という感情とともに時間を過ごしてきたと感じています

私の場合だと、好奇心が旺盛だったこともあり、バイトは肉体労働、得たお金でパソコンを買っていました

勉学に関しては、MIDIで音楽制作をしていた経験から「構造」について長けていて、学校の期末試験を自分で作るということをしていました

学期試験の構造に興味を持ち、そして、教師の思惑というものを把握すると、期末試験と同じ問題が作れるのですね

それをみんなに配った結果、予測範囲がドンピシャで、ウチのクラスの国語の成績だけが突出してしまいました

平均95点ぐらいを叩き出してしまい、どこからか漏れた自作のテストが見つかってしまいました

国語の先生は呆れていましたが、でも怒られるようなことはなかった記憶が残っています

 

こうした体験というものが、そのままその後の未来につながっていきます

私の「好き」はかなり特殊な方向に向かうことになりましたが、その中でも群を抜いた特性というのは「体験」だったと考えています

より多くのことを体験するという気質があって、それによって固定化されない生活というものが生まれてきました

 

映画の登場人物は「その一面を描いている」ので、彼らの「好き」というものは限定されて描かれています

でも、個人はそこまでシンプルではなく、かと言って不明瞭な謎でもなかったりします

それぞれが恋をしてきて、その終わりが様々な形になっているのですが、それぞれが「恋愛と向き合ってきた時間」というものは本物で、この「体験」によって、彼女たちは多くのものを得ることになりました

まなみは喪失が瞬間的に終わることを知り、毎秒の大切さを知ります

杏子は好きな人の本質が見える人で、相手が輝ける方法を知っています

由貴は恋愛の限界を感じながらも、物理的な距離よりも怖いものを悟ります

詩織は禁断の恋に盲目になる中で、受け入れられない恋愛を終わらせる優しい方法を知ることになります

これらすべての気づきというものは、それぞれが真剣に「好き」と向かい合ったことで与えられたギフトである考えています

 


120分で人生を少しだけ良くするヒント

 

本作は面白い構成になっていて、主要4人が直接会話をするシーンがありません

全員3年B組なのに、それぞれにはそれぞれの親友がいて、本当にただのクラスメートというところがリアルに感じました

高校やクラスが世界のすべてと感じる彼らのテリトリーは、教室という狭そうに見える空間すらも、とても大きなものに感じさせています

クラスの中にいる気の知れた数人というものが点在し、それが結びつくものもあれば、最小単位の単体として、干渉しあわない場合もあります

 

でも、まなみが答辞を任されたと知ると、それまでになかった関係性というものが、一気に顕在化してしまいます

駿が亡くなったのは夏のことで、別のクラスの生徒ではあるものの、そのことは周知の事実になっています

まなみと駿の関係がクラスメイトの中でオープンだったのかはわかりませんが、同級生の死というものはどうしても伝播してしまいます

そして、恋人を不慮の事故で亡くした人が「そのことを知るみんなの前で卒業生の代表を務める」のですが、これほど残酷なこともないのかもしれません

 

まなみが壇上に向かうとき、その誰もが彼女にのしかかる重圧というものを感じていたでしょう

よりによって、「なぜ彼女なのか?」という問いはあって当然なのですね

そんな彼女は、リハーサルこそこなしますが、「なくなる校舎のことを話してほしい」という教師の要望のもと、彼女は答辞を書き換えることになりました

 

答辞の中に「学舎の喪失」を入れることは、まなみにとっては「駿との思い出を消す」ことに近く、それはとても残酷な仕打ちであると思います

でも、ここに戻ってくることは、まなみにとっては「良くないこと」であり、居場所の喪失を自分が認識する、という流れにおいては必要な通過儀礼のように思えます

まなみは「喪失」を言葉にすることができず、答辞を読むことは叶いませんでしたが、そのことを受けて、他の生徒たちに去来するものがありました

 

そんなまなみの勇気に応えることになったのが森崎で、彼はメタルバンドの当て振りパフォーマンスをしています

その道具一式が無くなってことで、彼はアカペラ歌唱をすることになりました

彼の選曲は「Danny Boy」という楽曲で、アイルランド民謡「ロンドンデリーの歌」とも言われています

彼がこれを選んだのは、まなみの叶わなかった答辞であると考えるのは自然なことだと思います

 

歌詞はこんな感じです(日本語訳は筆者による意訳です)

Oh Danny boy, the pipes, the pipes are calling.

From glen to glen, and down the mountain side.

The Summer’s gone, and all the roses falling.

’Tis you, ‘tis you must go and I must bide.

But come ye back when summer’s in the meadow.

Or when the valley’s hushed and white with snow.

’Tis I’ll be here in sunshine or in the window.

Oh Danny boy, oh Danny boy, I love you so.

(愛しのダニーボーイ、バグパイプの音が呼んでいます。 谷から谷へ、、そして山の斜面を下っていきます。 夏は去り、すべてのバラは散っていきました。 あなたは言ってしまうのですね。そして、私はそれを受け入れなければならないのね。 でも、夏になって、牧草が生い茂る頃、あなたには戻ってきてほしい。 または、谷が静まり返って、雪に染まった時でもいい。 太陽の下、日陰のどこかに私はいます。 ああ、私のダニー・ボーイ。あなたを心から愛しています。)

But when ye come, and all the flowers are dying.

If I am dead, as dead I well may be.

You’ll come and find the place where I am lying.

And kneel and say an “Ave” there for me.

And I shall hear, tho’ soft you tread above me.

And all my grave will warmer, sweeter be.

For ye shall bend and tell me that you love me that you love me.

And I shall sleep in peace until you come to me.

(すべての花が枯れる中であなたが帰ってきたら、もしかしたら、私は死んでいるかもしれない。 でもあなたは、私が眠っている場所を見つけるでしょう。 そして、ひざまずいて「さようなら」と言ってください。 それは私にも届きます。私の上を過ぎ去っていても。 そして、私の墓は、より暖かく、より甘美なものになるでしょう。 あなたは跪いていうのです。「私を愛している」と。そして、あなたが私のところに来るまで、私は安らかに眠ります。)

 

この歌は駿が好きだった歌ではありますが、森崎がこの歌を歌ったのは鎮魂の意味もあると思います

ここで、まなみが知らなかった絆があったことを知るのですね

そうして、彼女は彼が歌ったあの場所で、駿とお別れをすることができました

校舎はなくなるけど、まなみの心の中に駿はいて、そして「Danny Boy」を聞くたびにそれは蘇る

それが本作で描きたかったことのように思えます

 

映画では学舎がなくなりますが、それは何かに転嫁させることで残っていきます

それらはすべて「体験」であり、何かしらの「モノ」であることもあります

まなみには「森崎の歌を聴いたという体験」、由貴は「わだかまりを解消し、自分の選択を肯定する花火」、杏子は「自分の好きな人の本当の部分をみんなに誇示した誇り」、そして、詩織は「好きな人から渡された思い出の本」ということになります

そのどれもが彼女たちの成長とともに色褪せることなく残っていくものでしょう

そう言った意味において、本作が観客に伝えたかったのは、学校に行くことだけが人生ではなく、その時間に過ごした何かを残せるようになりましたか?という問いだったのかもしれません

 


■関連リンク

Yahoo!映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)

https://movies.yahoo.co.jp/movie/384421/review/540cb6cb-fca8-4ecb-a690-01d686a53435/

 

公式HP:

https://shoujo-sotsugyo.com/

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投稿者 Hiroshi_Takata

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