■その身が朽ち果てるまで、親しき人のことは忘れないと思うのだが
Contents
■オススメ度
感動系ヒューマンドラマが好きな人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2022.10.28(イオンシネマ久御山)
■映画情報
情報:2022年、日本、150分、G
ジャンル:生死を彷徨う魂が留まる旅館を舞台に、そこに集う人々の決断を描いたヒューマンドラマ
監督:北村龍平
脚本:嶋田うれ葉
原作:高橋ツトム(『天間荘の三姉妹 スカイハイ(2013年、集英社)』
キャスト:
のん(小川たまえ:魂となって温泉旅館を訪れるかなえとのぞみの腹違いの妹)
門脇麦(天間かなえ:イルカのトレーナー、次女)
大島優子(天間のぞみ:「天間荘」の若女将、長女)
寺島しのぶ(天間恵子:かなえとのぞみの母、大女将)
永瀬正敏(小川清志:三姉妹の父、恵子の元夫、写真家)
中村雅俊(宝来武:旅館の料理長)
柴咲コウ(イズコ:かなえを連れてくる謎の女性)
高良健吾(魚堂一馬:かなえの恋人)
柳葉敏郎(魚堂源一:一馬の父、魚の卸問屋)
萩原利久(早乙女海斗:勝造の息子)
(幼少期:戸井田竜空)
平山浩行(早乙女勝造:三ケ瀬水族館の館長)
三田佳子(財前玲子:旅館に留まっている気難しい老女)
岩井堂聖子(一美:玲子の娘)
(幼少期:前田織音)
山谷花純(芦沢優那:旅館を訪れる自殺未遂で昏睡状態の女性)
(幼少期:吉田帆乃華)
藤原紀香(優那の母)
高橋ジョージ(町民)
つのだ☆ひろ(町民)
不破万作(町民)
大島蓉子(町民の妻、生存者)
■映画の舞台
天界と地上界のはざまの町:三ツ瀬
老舗温泉旅館「天間荘」
ロケ地:
北海道:小樽市
料亭湯宿 銀鱗荘(天間荘)
https://maps.app.goo.gl/rnvovtXakSMgvGuP9?g_st=ic
宮城県:仙台市
仙台東照宮
https://maps.app.goo.gl/fnkZ2jm5VYpok4vR6?g_st=ic
宮城県:女川町
女川駅前広場
https://maps.app.goo.gl/KcFhjP3ZhsjV24Dz7?g_st=ic
宮城県:大郷町
大郷町民体育館
https://maps.app.goo.gl/4MU9HxVpu8umFosv9?g_st=ic
宮城県:仙台市
仙台うみの杜水族館
https://maps.app.goo.gl/KGh1Lzq3ZHMmNPT97?g_st=ic
静岡県;下田市
下田海中水族館(三ツ瀬水族館)
https://maps.app.goo.gl/NTcr3dZTa4pEEa2H9?g_st=ic
静岡県:下田市
龍宮窟
https://maps.app.goo.gl/VFM1B93VzfPtdD3W6?g_st=ic
■簡単なあらすじ
天空と地上の間にある町、三ケ瀬には老舗旅館の「天間荘」があった
そこでは女将たちが訪れた客をもてなし、町には水族館などもある
そんな町に小川たまえという若い女性が、イズコと名乗る謎の女性に連れられて訪れる
たまえは旅館の女将であるのぞみとその妹・かなえの腹違いの妹で、大女将の恵子の実の娘だった
恵子はたまえを客としては扱わず、たまえも旅館で働きたいという
そこで、のぞみは彼女に旅館の仕事を教え、宿泊客の給仕をさせることになったのである
たまえの初めての接客相手は気難しいくてのぞみも手を焼いている玲子という客で、たまえは生前の人生が記されている帳面を読み込んでいく
玲子は緑内障で視力を失っていて、この場所できれいな場所を見たいと願っていた
そこでたまえは玲子を外に連れ出して、三ケ瀬を一緒に散策することになったのである
テーマ:死の受容
裏テーマ:受け継がれる人生
■ひとこと感想
予告編の映像だけでどんな内容かはあまり詮索せずに鑑賞
ようやく震災を真正面から描く作品が出てきたのだなと思いました
ただし、映画というよりは連続ドラマの方が合っている内容で、たまえが次々に来る難客を相手にするという一話完結系のような内容になっていました
映画では主に3つのエピソードが描かれていて、「玲子編」「優那編」「三姉妹編」という感じになっていましたね
震災の津波のシーンなどはありますが、CG感が凄くて、リアリティには寄せていません
このあたりが配慮なのか日和なのかはわかりませんが、震災で生き残った人々がどう感じるのかは想像し得ないと感じました
同じ日本に住みながらも、共感できないものはあって、この震災を普遍と捉えるのか特別と捉えるのかは人生観によるのかなと思います
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
何の情報も入れていなかったので「お逝きなさい(でいいのかな)」のセリフで一部の記憶が戻ったような感覚になりました
たぶん、ドラマか何かで釈由美子さんが演じていた役柄が、今回は柴咲コウさんに変わっていたようでしたね
ドラマの続きなのかと思ってしまいましたが、いわゆるスピンオフというか、キャストを一新した新シリーズのような立ち位置なのかなと想像しています
映画は150分ありますが、体感時間は恐ろしく長く、テレビの3時間ドラマをCMなしで観ている感覚に近かったですね
一応はそれぞれのキャラは最後まで登場するのですが、震災で消えた人々の中から消えていないので、部外者が伝言を伝えることの意味はあまり効果的ではなかったように思います
ラストのイルカショーのシーンで個別の伝言を伝えますが、それがたった二つだったりと、演出上絞ったとはいえ、それで良いのかと思ってしまいましたね
あの場にいた多くの人々のすべての言葉を覚えるのは無理かもしれませんが、代表者2名みたいな感じになっていたのは微妙だと思います
映画にしろ、震災をフィクションで使うというのがようやく許されるようになったのかなと思う一方で、それでも現地の人からすれば「わざわざ部外者に言われんでも覚えとるよ」とツッコんでしまうような気がします
少しばかり、感動ポルノチックなところもあって、これが最適解なのかは何とも言えないのではないでしょうか
■震災を取り扱うことの難しさ
震災から10年以上経って、ようやくドキュメンタリー以外の作品の中に登場するようになってきました
これまでは「諸外国の映画でも」津波のシーンがあれば「劇場の前に告知される」ほど、日本人の中では敏感すぎる問題になっていました
津波のシーンがあるだけで公開が延期になったり、サザンの『TSUNAMI』がテレビの音楽番組から消えたりと、本当に過剰過ぎて逆に怖いという情勢を生み出していました
本作では「三ケ瀬」が「震災によって一瞬で命が奪われた町」になっていて、そこに住んでいた人は「自分が死んでいることがわかっていない」みたいな感じになっていました
また、一部の人は「自分が死んでいることに気づいている」ので、他の人たちが留まっていることを否定することなく、その決断が受け入れられるまではその町で暮らしています
震災で亡くなった人がどう思っているかというのは想像の範囲でしかなく、それはこの映画に限りません
残された人は色々と想像するものですが、そこに正解があるとは思えません
そもそも、人は自分以外の人が何を考えているかを知ることができないので、生きている人でも難しいのに、亡くなった人の思いというのは死の間際に伝えられたこと以外は想像の範囲を超えられません
震災では多くの人が誰かに何かを伝えることができぬまま亡くなってしまい、今でも「亡くなったかどうかすらわかっていない人」というのがたくさんいます
映画の原作は『スカイハイ』シリーズのスピンオフにあたり、このシリーズは「不慮の事故に遭った人」が「恨みの門」の門番であるイズコのところに訪れるという内容になっています
そこで3つの選択が与えられ、「死を受け入れて、天国で再生を待つ」「死を受け入れず、現世で彷徨い続ける」「現世の一人を呪い殺し、地獄に行く」のいずれかを選ぶことになっています
なので、三ケ瀬の人々は「死を受け入れず、現世で彷徨い続ける」のカテゴリーに入り、その人々の選択を促す場所として「天間荘」があるという感じになっています
本作は『スカイハイ』シリーズの設定は残っていますが、「呪い殺して地獄に行く」という選択肢のない優しい世界になっています
ある意味、『スカイハイ』っぽさが無くなっていて、ヒューマンドラマが前面に押し出されていました
「天間荘」が「震災の町」になった理由はわかりませんが、「震災で亡くなった腹違いの姉妹」の元に、別の理由で亡くなった妹が来るという構図を描きたかったのだと思います
そんな中で、外部の人間の行動によって、町全体が選択をするということになるのですが、この流れが「これでいいのかな感」を強めていたように思いました
そして、この「これでいいのかな感」を作っているのが、結局のところは「死者の思いも震災の現地の人の思いも想像の範疇だから」というところに行き着くからなのかもしれません
■生と死のはざまにある葛藤
本作では「生死の間にいる人がどうするか」ということを主題にしているのですが、生と死の間に何かがあると考えること自体に無理があるような気がします
死の先に意識があって、それを認知した上で死を受容することで成仏するという世界観は空想の世界なのだと思います
これは願望にも近いし、自分より先に亡くなった人に対して、現世にいる人たちが精神的なつながりを持ちたいから派生したのかなと思ったりもします
個人的には、実際には死んだ瞬間に現世とは切り離され、あの世とか天国なんてものはないと考えています
ですが、天国の存在を否定する気もなければ、それを信じている人の考えを変えようとも思いません
人を構成するのは肉体と魂で、肉体は生命活動を終えると自然に還ります
火葬されて大気になる場合もあれば、土葬されて分解して大地になる場合もある
火葬された骨を砕いて散骨して、どこかの土地の養分になることもあれば、人知れずどこかで死んで朽ちて、そのまま大地に還ったり、他の動植物の栄養になることだってあります
でも、それだとあまりにも味気ないので、魂の方の行先について模索するのが人間の文化の歴史だったりするのですね
転生の概念はまさにそれで、肉体に関しては「生命のサイクルの中で正しい」のですが、こと魂になると本当かと疑いたくなることの方が多いですね
それは科学的に証明されていないということではなく、「前世の記憶を有したまま転生した人間」というものを信じることができないからでしょう
まれにそう言った方々が妙な団体を作ったり、メディアを賑わせたり、創作物の対象になることがありますが、それらはどこかファンタジーに思えています
そもそもが「誰にも起こることではない」というレアさが、それを現実だと認識させる材料に乏しいからだと思います
魂の死というものがどういうものかわかりませんが、それを言うならば「魂の誕生とは何か」と言う問題に行き着きます
人間に限らず、生物は交配を繰り返して個体を増やす生体なので、新しい魂はどの時点で生まれるのかと言う不思議がつきまとうのですね
肉体は細胞分裂で成長するとして、それを動かす制御装置とは何なのか
魂は言い換えれば、ある新しい生体を動かすための命令系統であり、それが母体から分離するのかがわからないし、たとえ分離してもその限界値があるのかすらわかりません
映画の世界は「魂の世界」で、それが「肉体から抜け出している」と言う概念のもとで描かれていて、魂は感情を有すると言うことになります
感情表現は肉体を伴って行われても、感情そのものは魂の反応であると言うことになるのですね
この概念が正しいかどうかは置いておいて、それがしっくり来るのであるならば、「生と死の間にある葛藤」と言うものが生まれてくるのかもしれません
ある程度の体験者を通じて、それが概念化しているのだと思いますが、誰もが他人と視点を共有できないので、信じるか信じないかの話になってしまうのかなと思います
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
映画は感動系ヒューマンドラマなのですが、この設定でこの帰結になるのか、と不思議に思ったことがあります
それは「震災で亡くなった人は死に気づかずにいる」と言うことと、それを気づかせる(行動させる)のが「外部の人間である」と言うところなんですね
この一連の流れを見たときに、個人的には「マジか」と思ってしまいました
死を受け入れられずに三ケ瀬に留まっていると言うところは良しとしても、亡くなった人が安心してあの世に行けないのは、残された人たちを信用していないからになっているのですね
人間は二度死ぬと言われていて、1回目が肉体の死で、2回目が後世の人の記憶から消えた時だと言います
これまでの世界では、友人なり子どもなりと自分と同世代、あるいはそれ以下がその人のことを覚えていて、次の世代に伝達することになりますが、そのハードルが異様に高い時代がありました
SNSもないし、スマホもないし、写真撮るのも大変で、動画なんて無茶でしょと言う時代は、わずか100年ほど前の価値観なのですね
今では、SNSを通じて、一般人の日常が全世界に配信されている世の中で、故人の記憶というものはある日突然見知らぬ誰かに掘り起こされるという時代になっています
なので、親から子へ、子から孫へという情報の伝達の波及というものよりも、故人が残した情報の断片というものが、プラットホームが朽ちるまで残り、誰でもアクセスできることになっています
その時代において、残された人々が故人を覚えているかどうかということが既にナンセンスで、これまで以上に故人発信で情報が残りまくっているのですね
それを考えると、世界中で「あの時の人」というのが不意に掘り起こされて、それが何らかの意味を持つという時代になっていると言えます
また、外部の人間に言われなくても、故人のことを家族は忘れようがありません
でも、それを不安に思うのは、故人たちが先祖に対して無頓着だったという自覚があったから、自分達もそうなってしまうのではと不安になっている、とも言えます
その不安を解消するのが、外部の言葉で良いのかということなのですね
個人的にはたまえの行動の中から「親世代から受け継がれているもの」があって、それを見ていた人々が安心するという流れの方がしっくりきました
映画でも頻繁に「そういうところがそっくりだ」というセリフが何度も登場していましたが、わざわざセリフにしているのがセンスが古い気がしました
ラストシーンでは、生き返ったたまえが優那を訪れ、海斗たちの前に現れていきます
そこでたまえはイルカショーを披露する前に、天間荘での出来事を語ります
このシーンがかなり蛇足で、そこにいる震災から逃れた人たちは、ひとときも失った家族、友人のことを忘れていないはずなのですね
なので、そこで故人からのメッセージを発するというファンタジーを描くことはどうなのかと思ってしまいます
故人的にしっくり来るのは、まるでかなえが乗り移ったかのようなイルカショーをみんなが見て、震災で亡くなったかなえと彼女を重ねるという演出でしょう
たまえはショーを見ている人たちが泣き出して途方に暮れるけれど、海斗から「かなえさんを思い出した」と言われて、天間荘の時間の意味を知ることになる
それぞれが自発的に抑え込んでいた想いを巡らせながら、それぞれが震災前を想起する
それだけでよかったように思います
このあたりは個人的な趣向の範疇だと思いますが、本作は「言葉で説明しすぎている」のと、「言葉を効果的に使えていない」というのが気になってしまいます
観客の読解力を信用できないのかもしれませんが、言葉は万能ではないし、そもそも映像作品なので、そのあたりの匙加減がどうなのかなあと思ってしまいました
■関連リンク
Yahoo!映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
https://movies.yahoo.co.jp/movie/382879/review/21aaab60-966f-4353-9f8a-8bf8b258ecc3/
公式HP: