■想像力は武器にも盾にもなるが、使い方次第では己を破壊する道具にもなり得る
Contents
■オススメ度
静かなサイキックスリラーが好きな人(★★★)
大友克洋『童夢』を読んだことがある人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2023.8.3(MOVIX京都)
■映画情報
原題:De uskyldige(無実の)、英題:The Innocents(無邪気な)
情報:2021年、ノルウェー&デンマーク&フィンランド・スウェーデン、117分、PG12
ジャンル:引越し先で不思議な力を持つ子どもたちと出会う姉妹を描いたサイキックスリラー
監督&脚本:エスキル・フォクト
キャスト:
ラーケル・レノーラ・フレットゥム/Rakel Lenora Fløttum(イーダ:自閉症の姉の世話をさせられる少女、妹)
アルバ・プリンスモ・ラームスタ/Alva Brynsmo Ramstad(アナ:非言語的自閉症の少女、イーダの姉)
サム・アシュラフ/Sam Ashraf(ベン:イーダと仲良くなる不思議な力を操る少年)
ミナ・ヤスミン・ブレムセット・アシェイム/Mina Yasmin Bremseth Asheim(アイシャ:アナと通じ合う同じ団地に住む少女)
エレン・ドリト・ピーターセン/Ellen Dorrit Petersen(アンリエッタ:イーダとアナの母)
モーテン・シュバルトベイト/Morten Svartveit(ニルス:イーダとアナの父)
Kadra Yusuf(アイシャの母)
Lisa Tønne(ベンの母)
Irina Eidsvold Tøien(アナの施設行きを相談する医師)
Marius Kolbenstvedt(歩道橋で石を持つ男)
Kim Atle Hansen(玄関先で騒ぐ男)
Birgit Nordby(橋の上でイーダを目撃する女性)
Georg Grøttjord-Glenne(足を骨折するサッカー少年)
Kjersti Paulsen(傘を持つ女性)
Nor Erik Vaagland Torgersen(襲われるサッカー少年)
Sathie Sivamohan(モンスター)
Jonas Brandal(森の影)
Kenneth Heggdal(森の影)
Vegard Eliassen(森の影)
【フットボールの男の子たち】
Heidi McKibbin
Mia-Cecilia Johansson
Samuel Tesfay
Simen Buer
Sean Kiyan Salter
Adrian Ytterland
Sven Kristoffer Huseby
Liam Straith
【バルコニーの子どもたち】
Nor B. Guderud
Adrian HaraldsenAugusta Josefine Fougner Dahl
Elia Alvar Petersen Fløttum
Aparna Ganeswaran
Ziram Abdi
Emir Pllana
Tiril Fongen Hesselberg
Oscar Nicolai Moe
Matheo Bjørnestad Carrera
Huda Mohamed Ahmed
Anisa Abdilahi Kulmiye
■映画の舞台
ノルウェー:オスロ
Svarttjern/スヴァルトジェルン
https://maps.app.goo.gl/jYtpBp16WBtNVmR3A?g_st=ic
ロケ地:
上記に同じ
■簡単なあらすじ
オスロ郊外の団地に引っ越してきたイーダとその家族は、夏休み休暇中ということもあって、まったりと過ごしていた
イーダには非言語性自閉症の姉アナがいて、いつも彼女の世話係をさせられていた
引越しの荷物を運んだあと、イーダは団地の前にある池に向かう
そして、その池の対岸から少年の視線を感じていた
その少年は別の棟に住むベンで、彼には不思議な力があった
念じれば、軽いものなら動かせるというもので、イーダはすぐに彼と友達になる
一方その頃、アナはある少女の気配を感じていた
その少女は別の棟に住むアイシャと言い、母と二人暮らしをしている
アイシャもアナの気配を感じ、そしてアナの住む部屋へとやってくる
ドア越しに相手を確認しあった二人は、その日からテレパシーのような交信をすることができるようになったのである
テーマ:純真なる攻撃
裏テーマ:好奇心と承認欲求
■ひとこと感想
ノルウェー発のサイキックスリラーで、読んだことがある人なら真っ先に『童夢』を思い出してしまうと思います
能力を得た少年少女の探究心と承認欲求が共鳴し合う展開で、それが増幅していく様子が描かれていました
画面上は凄く地味なのですが、子どもたちの視線や表情で複雑な流れを描いている作品なので、妙な緊張感がありました
空を飛んだり、ビームを発したりすることはありませんが、ラストシーンにおける攻撃の共鳴は恐ろしいものがあります
冒頭から小動物を◯する流れになっているので、ペットを飼っている人は要注意の内容ですね
動物愛護団体からクレームが来そうな案件ですが、直接描写がないのでセーフでしょうか
同じ能力を持っても、ベンになるかアナになるかは分かりませんが、ベンになってしまう可能性の方が高いように思えてしまいますね
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
どんなサイキック物かと思っていたら、驚くほどに地味な展開にびっくりしてしまいました
でも、終始不穏な感じがあって、イーダとベンの出会いからして、邪悪な物が漂っています
映画のタイトルは「純真無垢」というような意味ですが、これは正悪や道徳の概念が培われる前の真っ白状態のことで、欲望のままに動いていく様子が描かれています
能力を悪用するというよりは、自分の特異性を周囲に見せたいという欲求があり、それによって個の認知を望んでいる状態にあります
団地のサッカーグループからハブられているベンは、感情の行き先を内向きにするしかなく、イーダたちの登場は自分の世界を作れるきっかけになっていました
でも、アイシャやアナにも同じような特異性があり、自分だけが特別ではないことを知ってしまうのですね
それによって、能力をさらに高めて、相手との差別化を図ろうと考えていきます
それでも、叶わない相手は排除するしかなく、ベンは戻れない道を歩むことになってしまいました
■能力と感情の関係性
4人にはそれぞれ能力があり、集合することによって増幅されていきます
ベンはサイコキネシスと呼ばれる念動力を有し、最終的には晴れている人間の心臓を止めるにまで至ります
アイシャはテレパシーにて離れた相手と交信することができ、深層心理の共有というものができるようになっていました
アナはそのどちらも有する感じになっていて、イーダだけが能力が無いという状態が続いています(最終的には力を得ます)
イーダ自身には能力が無いように思えるのですが、彼女はいわゆるアンテナのような役割をしていて、それぞれの能力を増幅させる能力を有していました
ベンはイーダと出会うことで能力を向上させ、最終決戦ではアナの真の力を引き出します
それが顕著に表れているのが、アナの能力に気づいた子どもたちがベランダに出てくるシーンで、その時にイーダが手を繋ぎ、アナの能力を底上げして、団地中の子どもたちの能力を引き出すことに成功しています
彼女たちの能力は善悪の判断がつく前に生まれていて、それは純真かつ根本的な衝動によって強化されていきます
いわゆる好奇心、向上心、探究心と呼ばれるもので、さらに他者との成長の違いが能力によって差別化されていきます
ベンの能力は「人に見せたい特技」に過ぎませんでしたが、イーダとの出会いによって、さらなる進化を遂げ、そして「怒り」によって増幅されていきます
アナの能力開花の要因も「怒り」であり、感情が能力を解放するトリガーになっているように描かれていました
幼少期における特異性は本人の捉え方で変わってくるものであり、隠したくなる人もいれば、見せびらかしたくなる人もいます
ベンは後者でしたが、団地の中にそれに興味を持つ人もいないし、もしかしたら気味悪がられてハブられていたのかもしれません
そんな彼にとって、新参者であるイーダは格好の標的で、彼女にとってもアナのお守りにうんざりしていたので、欲求が合致することになりました
■ベンの暴走について
ベンはイーダによって能力の増幅を受け、その後自身の欲求を止めることなく暴走していきます
冒頭のイーダがミミズを踏み潰そうとしたように、この頃の暴力性はベンにも備わっていました
アイシャのところにいた猫をベンは殺しますが、虫から小動物へと破壊衝動が起こる人と、そこで止まる人には微妙な差異があると思います
ミミズを踏み潰し、猫を階上から落とすまではイーダもできるのですが、そこで猫を殺したり、解剖したりはしないのですね
この違いがベンの暴走性の起因となっています
小動物を虐待する子どもは、その行動の意味がわかっていないパターンと、怒りや不満を小動物に転化している場合と、他者の反応を楽しむなどの理由があります
この他には、精神疾患が起因の場合もありますが、この場合は「殺害欲求や興奮を抑えられない」「動物が苦しんでいるのを楽しむサディズム」「反社会性パーソナリティ障害」などもあります
映画のベンは精神的な疾患というよりは、「行動の意味がわからない」「怒りを転化」」「他者の反応を楽しむ」のいずれにも該当していると考えられます
ベンを抑圧する怒りは「母親との関係」「地元の子どもたちとの関係」として描かれていて、イーダに反応を楽しむという側面も見られます
でも、その根幹になるのは「行為の意味をわかっていない」というイノセントの部分であるように思えました
イーダは同じ行動を共にする中で、徐々に行動の意味を理解し始めていて、自分自身で倫理観を形成していきます
そして、小動物を傷つけることで自身の心が傷つくことを理解し始めるのですね
これは通常の成長であり、個人的にこのプロセスを踏んだ経験があります
幼少期の頃になぜか訪れる暴力性というものがあって、私の場合は近くの林にあった蟻の巣を破壊するなどの行為に現れていました
爆竹を巣穴に入れて爆発させたりしていましたが、そこから小動物に向かうということはありませんでした
それは巣穴爆発の段階で、他の生物を殺すことで生じる自分の感情というものを客観的に見始めたのですね
それによって、楽しいと思って行ったことが実は楽しいものではないというふうに考えが変わり、以降は余程のこと(自分が襲われるなど)がない限り、虫すらも殺すことはありません
このあたりのトリガーの違いというものが映画では描かれていたように思いました
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
ベンがその後もエスカレートしていくのは、単純な欲求とそれが快楽に結びついてきたからだと言えます
破壊衝動により、自分自身の能力の成長や覚醒に快感を覚え、さらに周囲が自分を特別視することで、それが助長されていきます
自分よりも力の弱いものに対しての優越感から、能力覚醒によって自分よりも強かったものに挑んでいくのですが、ベンは臆病なので、自分自身が手を下すのではなく、他人の力を利用するという残忍性(工夫とも言える)が備わっていきました
でも、遠隔であれば自分の力でもできることがわかり、直接的な破壊衝動を楽しんで行くようになります
映画は、ベンの破壊衝動のプロセスを丁寧に描き、それによってイーダたちに芽生えていった倫理観と防衛反応を描いていきます
アイシャを殺されたアナは怒りをベンに向けますが、それだけではベンを倒すことはできません
でも、イーダが加わり、アナのイメージが団地中に伝達したことによって、団地民の危機管理能力がベンに集中砲火されることになりました
ベンも団地全体から感じる攻撃に狼狽えていて、そして寄りかかるようにベンチに座り込み、そして息絶えてしまいます
イーダやアナたちの能力も、一歩間違えばベンと同じように他者を脅かす可能性はありました
でも、彼女たちは自分の快楽のために力を使うことなく、日常生活向上の一環に使用していきます
能力を他者に向けないのは、彼女たちの中で倫理観や道徳が芽生え始めているからで、それは人間本来が有する後天的な能力であると思います
子どもの行き過ぎた行動を道徳などで戒める教育もありますが、その際に行動について考えさせるのか、行動が及ぼす影響について考えさせるのかで効果は変わってくるように思います
道徳とは、自分と他者との関係性において、その行動が持つ影響力を学び取ることだと思います
自分自身が良くても他人が不快に思うこともあれば、他人が平気でも自分には不快に思うこともあります
でも、他人の不快=自分の不快とも言えないし、他人が感じる不快は想像でしか補えません
私個人の感覚だと、「自分がされたら嫌なことはしない」というもので、想像の範囲内で、可能な限り相手を不快にはさせないことができると考えています
その「相手」の範囲をどこまで広がられ、かつ未経験の出来事をジャッジできるかが鍵になりますが、それは想像力の世界なので、色んな創作物や人の話などを聞いて、自分なりの道徳感というものを形成していく方が良いでしょう
学校などで教わることもありますが、それは個別に波及しないので、それらの知識も含めて、自分なりに考え、考えさせることが道徳観念を育てるには最適解なのでは無いかと思います
■関連リンク
映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
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公式HP:
https://longride.jp/innocents/