■意思を決定づけるのは、思考ではなく深層心理にある生命の根幹であると感じます


■オススメ度

 

東出昌大のプライベートに興味のある人(★★★)

狩猟ドキュメントに興味がある人(★★★)

 


■公式予告編

鑑賞日:2024.2.22(アップリンク京都)


■映画情報

 

情報:2024年、日本、140分、G

ジャンル:猟師・東出昌大を追うドキュメンタリー映画

 

監督&編集:エリザベス宮地

 

キャスト:

東出昌大(北関東で猟師をしている俳優)

 

服部文祥(登山家)

阿部達也(猟師)

石川竜一(写真家『いのちのうちがわ』)

GOMA(音楽家、画家)

コムアイ(女優『福田村事件』)

森達也(映画監督『福田村事件』)

アフロ(アーティスト)

UK(アーティスト)

 

ヒロセ(キャンプ場経営者)

ナカザワ(猟師)

タケ(猟師)

高根順次(映画プロデューサー)

ゴン(猟師)

フルヤ(猟友会の支部長)

フジナミ(元猟師)

マツハシ(猟師)

タカイチ(週刊新潮CINEMA編集長)

鳥森まど(俳優)

松本花木(俳優)

ニイツ(週刊女性記者)

ワタナベ(週刊女性カメラマン)

 


■映画の舞台

 

日本:北関東のどこか

 

ロケ地:

北関東のどこか(個人情報を含むので不記載)

 


■簡単なあらすじ

 

俳優・東出昌大は、不倫騒動の後、事務所との契約打ち切りを控えていた

その頃、彼は北関東を中心に狩猟を始めていて、本作はその様子に密着したドミュメンタリーとなっている

 

登山家・服部文祥、猟師・阿部達也、写真家・石川竜一達との交流を経て、狩猟に向き合う工程と哲学を描いていく

また、現在の自分の状況、それを引き起こした原点などに立ち返るとともに、命をもらって生きながらえている現実へとフォーカスしていく

 

2021年11月を筆頭に、2022年の9月頃までの密着を描き、MOROHAの楽曲、自身の舞台、そしてこの期間に撮影に入った映画『福田村事件』の関係者たちが見てきた東出昌大の飾りのない本質を炙り出していく

 

テーマ:命を繋ぐもの

裏テーマ:環境の外側にあるもの

 


■ひとこと感想

 

普段はドキュメンタリーをほとんど観ないのですが、興味がある対象の場合は足を運ぶことがあります

本作の場合は、映画俳優が対象になっていて、それゆえに裏側を見られるのではないかという興味が芽生えていました

実際には、俳優の裏側というよりは私生活を覗き見る感じなのですが、普通ではないところに新鮮な印象を受けました

 

彼は狩猟を趣味ではなくライフワークにしているような感じで、時間が空いたらちょっと行ってくるというものではないのですね

都会の喧騒が合わないということがあっても、自分で獲物を仕留めて、それを解体して食べるというところに行き着くのは、それ相応の適性がないとできないことだと思います

 

動物をさわることすら苦手な方としては、死んで転がっている映像だけで大概キツかったのですが、『いのちのうちがわ』のショットをはじめとして、リアルな解体シーンが続々と登場するので、耐えられない人がいても不思議ではありません

印象的だったのは、子どもに話を聞くシーンでの「かわいそうだけど、お肉は美味しい」でしょうか

これが生きるということなのかな、と感じてしまいました

 


↓ここからネタバレ↓

ネタバレしたくない人は読むのをやめてね


ネタバレ感想

 

動物愛護団体とか、ヴィーガンが観ると卒倒しそうな内容ですが、単純に「ダメ」というよりも、このようなリアルを観て「自分で判断すること」が大事なのだと思います

後半に登場する元猟師の言葉では、「針葉樹だけになって広葉樹が減ったから動物が人間の住むところに降りてきた」というものがありました

最近でも、人里に熊が降りてきて、それを殺しただけで「遠くにいる人」が大声を出す傾向にありますが、このようなことが起こっている背景には、すべての人類が関わっているのだという認識を持つべきだと考えます

 

良いとか悪いとか以前に、生きていくことに対して他人やシステムに依存している人は、そこに至るまでの過程に無意識のうちに携わっていて、どこか遠くの人が勝手にやったこととは言えない側面があります

ある事象を取り上げて、その瞬間的な行為を思想信条の批判の対象に挙げる人がいますが、その事象との距離感をわかっていない人が多かったりするのですね

 

人は生きていく上で地上全てに影響を与えていく生き物で、劇中でも語られるように「地球の癌細胞」だったりします

でも、地球がそれで死ぬかと言えば死ななくて、地球の成長と人類の成長に相関関係があるとは思えません

ただ、地球は育っていくが、その過程の中で「人類が生きていける環境がある瞬間がある」というのが本当のところなんだと感じました

 


生きていくことと向き合うこと

 

本作は、都会と芸能界の喧騒から逃げてきた俳優が、そこで新しい生活を始める、という感じに見えてきます

実際には、自分の生きやすい場所を探していくうちに辿り着いた場所という感じで、それが世間が思うイメージとは合致しないということになっていました

個人的にもプライベートは知りませんし、ゴシップ系の報道もタイトルぐらいしか知らないので、実際にどのようなことがあって、どのような影響を受けたのか、という詳細までは知りません

 

いわゆる、芸能一家の中に入って、やってはいけないことをしたという流れになっていて、イメージで売ってきたことで、その影響が甚大だったという流れになっています

私としては、他人の家庭の事情とか、色恋沙汰などには全く興味がなく、売上のために過激な見出しになっていることが多いので、あまり価値を感じません

それでも、世間一般には価値のある情報だと考えて発信しているのでしょうが、実際には「単なる時間潰し」でしかなく、その情報に価値を感じている人は稀のように思えてきます

 

映画では、そのようなゴシップの背景にある人間・東出昌大を描いていて、そこでは「芝居に役にたつ」という理由で狩猟に身を投じている姿が赤裸々に綴られていました

そこは精神を宥めるぐらいの効能しかないゴシップとは真逆の世界で、普段は積極的に目を逸らしている分野だったように思います

誰かが育て、誰かが殺し、誰かが処理をしてくれたものを食べているのですが、そこで感じる感謝というのは、命に対してというよりは「自分の代わりにしてくれてありがとう」の方に寄っているように思えます

生きていく上で誰かがやらないといけないことをしてもらっている代償として対価を払っているのですが、その対価以上に過酷な現場であることは想像できます

なので、命そのものをいただいているという感謝より強い「代理者への敬意」というものが先立ってしまうような怖さを感じています

 

映画では、その中間のない世界で、自分で仕留めて処理をしなければ誰も食事にありつけず、それを避けることで栄養のバランスというものはおかしくなってしまいます

体の栄養素が偏ることでいろんなバランスが崩れてしまうのですが、それによって思考や精神にも影響が出てしまうものなのですね

なので、健全な魂は健全な肉体に宿るというように、その肉体を構成する要素は、純粋な命を摂取する上でしか、作られないもののようにも感じられます

命を得るために体を動かし、その処理で心を動かしていくことは、それ自体が健全なる方向へと導いてくれる様式美のように思えてしまいます

 


客観的に見える自分の正体

 

映画は、自分自身の日常をドキュメンタリーにしているのですが、通常「俳優・東出昌大」だと、「俳優の舞台裏をドキュメンタリーにすること」の方が一般的のように思います

また、このようなゴシップの餌食になった場合は、その舞台裏に密着することも多く、今回のように「普段はふれられないプライベート」に密着するというのは新鮮なように思えました

構造も新鮮ならば、内容も新鮮そのもので、命の尊さとか食の問題などを扱う場合に、俳優のプライベートに密着して描くということは前代未聞のように思えます

そもそも、表舞台にいて、「中間」をいくらでも飛び越えられそうな人がそれを除外しない、というところに不思議なものがあるように感じます

 

ドキュメンタリーでは、多くの関係者が登場し、それによって様々な角度から被写体の特性を映していくことになります

本作の場合だと、普段の仕事で接している人は後半に登場し、前半はもっぱら「これまでに見せなかった部分の関係者」という感じになっていました

それぞれの関係者が語る人物像は、主観的なものではありますが、それを集めていくと客観的なものになっていくのですね

そうして出来上がったものを見てくと、自分の知らない部分が補完されるような錯覚を覚えてしまいます

 

それらの集合体をその被写体が見たときにどう感じるのか、というのは面白い着眼点で、一般的にそれを行うことは難しいと言えます

直接聞いても答えてはくれないし、このように第三者がカメラを回しても、いずれは本人が見るだろうから、という遠慮が入ってしまいます

とは言え、普段の関係性によっては、直接聞いても答えが返ることもあるし、第三者を介した場合でも、本音の部分が出てきたりしまう

結局のところ、日常からどのような開示をしているかというところが自分を知る近道になっていることも多いのですね

そう言った点を踏まえれば、映画から伝わる東出昌大の開示性というのはフラットで純粋なものなのかな、と感じました

 


120分で人生を少しだけ良くするヒント

 

本作は、命をいただいて生き延びる人間とは何かという問いかけがあって、人間は地球にとっての癌細胞ではないかという話が出てきます

個人的な感覚だと、環境問題の根っこの部分では「地球は困らない」というもので、住みづらくなるのは「今住みやすい種族だけ」ということになります

環境に適応する種もいれば淘汰される種もいるわけで、それが環境破壊などの様々な要因を経て、神様による選別というものが行われるように思えます

 

人類は環境に適応する生き物で、どのような時代が来ても生き延びそうな雰囲気はあります

今は温暖化が叫ばれていて、その問題の多くは海面上昇などのようなわかりやすいものが訴求されているのですね

実際には、地球上の温度分布が代わり、人類が生きやすいと思った場所が変わっていくことになります

人は太古の昔から縄張り争いに傾倒し、安住の地を求めて先住民を淘汰してきたという歴史があります

 

それらを踏まえると、適応能力に秀でたものが生き残る世界において、自らが生きやすい場所を壊しているだけの存在なのですね

環境問題を訴える際に、自分たちに波及することを強調せずに、単に地球が可哀想とか、生き物が可哀想という感情論でしか人が反応しないところも問題なのでしょう

実際に海抜が上がって沈んでゆく国などがあっても、自分たちの影響がないから放置しているし、そのような報道も一瞬で、同じ可哀想でも無感情な可哀想で取り繕っているだけだったりします

 

本作は、環境問題に言及し、動物愛護の関連でも反応が多い作品ではありますが、そのような声を黙らせる力があると思います

狩猟して生きていく中で、対象にこれほどまで敬意を払い、その生に業を感じながらも向き合っている

この姿を見せられて難癖をつけるというのは、手段と目的が混同しているように見えてしまうのですね

動物愛護や肉食否定などを掲げて店の前で座り込んだり、利用者を脅したりと、他人の行動を阻害する行為は「話してもわからない」という思想が根底にありますが、実際には「話してわからせる能力がない」と言っているのに等しいと思います

人類のマインドを大きく変えるような問いかけをできていないから大きな流れが変わらないのであり、プロパガンダのように印象操作をしても、本質が伝わらない活動は今のネット社会では簡単に看過されてしまいます

 

劇中でも、小学生たちが動物を解体するシーンを見学したり、それを食べたりして感想を言い合うシーンがありました

そこで交わされるのは素直な感想であり、情報がない中でも、それぞれの判断で行動を決めています

可哀想と思った子どもたちも、きちんと命をいただいているし、それに対する感謝の念も持っています

このような純粋さの先にあるものが命だと思うので、必要な分だけいただくことは、そこまで卑下するようなものではないと感じました

 


■関連リンク

映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)

鋭意、執筆中にて、今しばらくお待ちくださいませ

 

公式HP:

https://will-film.com/

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投稿者 Hiroshi_Takata

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