■夜に啼く、三人の魂


■オススメ度

 

閉塞感漂う男女のドラマを堪能したい人(★★★)

佐藤泰志の小説が好きな人(★★★)

 


■公式予告編

鑑賞日:2022.12.13(MOVIX京都)


■映画情報

 

情報:2022年、日本、115分、R15+

ジャンル:芽の出ない作家の元に、かつての上司の妻子が転がり込んでくる様子を描いたヒューマンドラマ

 

監督:城定秀夫

脚本:高田亮

原作:佐藤泰志『大きなハードルと小さなハードル(1991年、河出書房)』に収録

 

キャスト:

山田裕貴(岡田慎一:芽が出ない若き小説家、コピー機メンテナンスの作業員)

松本まりか(裕子:慎一の家に転がり込む元上司・邦博の元妻)

森優理斗(アキラ:邦博と裕子の息子、7歳)

 

中村ゆりか(文子:慎一の元カノ、邦博の不倫相手)

カトウシンスケ(邦博:慎一の元上司、ライブハウス経営者)

 

藤田朋子(大谷静子:慎一の自宅の隣家の女性)

 

宇野祥平(武井徹:慎一の作家仲間、先輩)

吉田浩太(三宅隼人:慎一の作家仲間、先輩)

縄田カノン(小野田しずく:慎一の作家仲間、先輩)

 

加治将樹(滝沢:地元の独立リーグの野球選手)

 

G.D.Flickers(ライブハウスで演奏するバンド)

美玖空(ピザ屋の店員)

吉田友希(滝沢にインタビューするアナウンサー)

 


■映画の舞台

 

日本のどこかの地方都市

 

ロケ地:

埼玉県飯能市

 

飯能法要殿

https://maps.app.goo.gl/8kNqptTGihU7R9np9?g_st=ic

 

飯能幼稚園

https://maps.app.goo.gl/9qEEgYbiXedSb8sv5?g_st=ic

 

カフェ・プイスト

https://maps.app.goo.gl/yNq1BYnLvq9xKncN7?g_st=ic

 

長壽庵

https://maps.app.goo.gl/cvaTC9teGPZe8hqX9?g_st=ic

 


■簡単なあらすじ

 

かつて小説の新人賞を獲った慎一は、その後燻り続け、一向に芽が出なかった

恋人のための新居も居心地が悪く、今では離れのプレハブを生活の拠点に置いている

 

ある日、旧友の邦博の妻・裕子とその息子アキラが離婚によって行き場を失っていたことを知り、慎一は使っていない一軒家に住まわせることに決めた

「風呂と冷蔵庫は使うよ」と言いながら、裕子たちの生活が気になる慎一

執筆活動を続けるものの、どこか集中力に欠いた時間を過ごしていた

 

ある夜、慎一は裕子がフラフラと外出するところを目撃してしまう

どうやらアキラが寝た後に出かけている様子だったが、アキラはそのことに気づいていた

裕子は夜になると孤独感が強まり、一人ではいられなくなると言う

 

そんな裕子に対し、慎一はある感情をぶつけてしまう

 

テーマ:孤独の舐め合い

裏テーマ:変化しない勇気

 


■ひとこと感想

 

売れない小説家がぐちぐち言う映画かなと思っていましたが、半分合っていたと言うことで良いのでしょうか

そんなうだつの上がらないところに訳あり女がやってきて、と言う内容なので、いつ合体するんだろうと思っていましたね

初見から「やる気」が感じられたのですが、随分と遠回りしたものです

 

そのきっかけを作っているのがアキラで、彼は慎一のような父が欲しかったのかなあと思ってしまいました

子どもながらに母が慎一を見る目というのに気づいていて、無垢なりに絶妙なサポートをしていたように思えます

 

映画は「やっちゃいけないセックス」に向かう映画で、傷の舐め合い(実際に傷舐めてるし)の果てに未来はあるのか、という問いかけがないわけではありません

でも、それでずるずる行ってしまう人生というのも、それはそれでアリなのかもしれません

 


↓ここからネタバレ↓

ネタバレしたくない人は読むのをやめてね


ネタバレ感想

 

ネタバレするような内容はほとんどなく、予告編を観ただけで「この二人はいつセックスするんだろう」という予感は漂います

何せ、城定秀夫監督なので、そこに行かないとおかしいやろ、という感じで「監督の名前でネタバレしている」感じになっていました

 

現状のまま「ずるずる行くことが確定してしまうような行きずりセックス」でしたが、上半身鉄壁ガード&一升瓶ディフェンスは笑うところだったのかもしれません

 

ラストで「このままでいいんじゃね」という慎一ですが、「お前はそのままでは行かんだろ」とツッコんでしまいますね

でも、おそらくは裕子とアキラのために生きることを決めていると思うので、彼の日常に変化が生まれるんじゃないかなという予感はしないことはありません(でも、無理かもね)

 


作家の妻になるということ

 

二人のセックスはどこをどう切り取っても「お互いへの愛情」ではなく、「その場凌ぎの衝動の処理」に見えます

それによって何かが変わるということはなく、甘んじている現状において、少しばかりの清涼にも似たものだったかもしれません

また、慎一が裕子と一緒になってアキラの面倒を見たとして、そこで生まれる家族的な何かというものは、彼の創作人生に良い影響は与えません

それは、彼の作家衝動というのは「苦悩」がベースになっているからなのですね

それゆえに、苦悩から解き放たれた時、彼には書くべきものがなくなって絶望するのではないかと感じました

 

裕子が慎一に甘えても本質的な問題は解決せず、欲望を昇華させた先にあるのは、慎一との子どもを身籠ることかもしれません

彼女がそれを望めば望むほどに慎一は距離を置くでしょうし、その感覚はアキラに伝わってしまいます

単に快楽を求め合うだけの関係で収まるかどうかはわからず、また「慎一の作品の中に自分自身が投影されてくることへの苦痛」というものが生まれてきます

関係が発展すれば、慎一の描く情事は自分自身の秘部であり、それが暗喩だとしても、第三者にそう思われるということに耐えられるかはわかりません

アキラも物語の中に落とし込まれるでしょうし、現実と虚構の中に同時に存在しながら、知らない自分というものを突きつけられることになると思います

 

裕子は慎一の作品を好んでいますが、それはそこに自分がいないからなのですね

そこに描かれる誰かに自分を投影させることは良くても、そこに自分がいることへの嫌悪感は残る

これが通常の感覚で、それがストレスになり、大成するまで稼がなければならない人生が待っているので、精神と肉体の両方の限界というのはすぐに訪れます

 

二人の現在は「どちらにとってもラブドール」なのですが、いずれそれ以上の関係性を求めてしまうと思います

そうなった時、快楽の陰に隠れていた不満というものは顕在化され、ことあるごとに「後悔」を引き連れて二人の前に現れるのではないでしょうか

それを打破するためには、「作家の妻になるということ」について、裕子が覚悟を持つ必要があると考えます

 


身を削っても大成しない小説家とは

 

慎一の作家性は「自己投影」「自伝」にカテゴライズされるもので、それは友人の妻という立場の裕子から見ても「あなたの話なの?」とわかるレベルになっています

それが一般的な質問である可能性もありますが、その質問を踏まえた上で「あなたの物語を知りたい」という欲求が裕子の中に生まれていました

この時の裕子と邦博の夫婦関係は描かれていませんが、慎一に対して多少なりの興味があるか、夫への興味が薄れているかのどちらかでしょう

物語の娯楽性よりは、作者の内面の投影に興味を示していたので、それは慎一個人に興味があると同義と捉えて良いのではないでしょうか

 

慎一は文字通りに「身を削る」のですが、それは「体験と内面」の両方を直接的に描く作風があって、それによって世間的な評価を得ていきます

その後、彼が大成しなかったのは、そこに娯楽性がなかったのか、第一作ほどのインパクトがなかったのか、もしかしたら共感性の低い物語しか書けなかったのかのいずれかであると推測されます

人は誰しも「自分の物語を語れる」のですが、大衆ウケする物語を芸人以外の人はそれほど多く持っていません

慎一もその引き出しの少なさゆえに悩んでいるのかもしれませんが、第一作目に多くを投影し過ぎたという可能性もなくはありません

 

もし、作家としてデビューを果たすまでに10年かかったとして、その時に40歳だとしたら、おそらくはその40年の「一番美味しいところ」が凝縮されるのがデビュー作であると思います

なので、2作目は大きな体験を積まない限りは、一作目のキープにしか過ぎないのですね

計画性なく自己投影の物語を描き始めると、その後が続かなくなります

これらの計画性は読めるものではないのですが、いわゆるセルフプロデュースとして、「自分はどのような作家として認知されたいか」ということを考えた上で、どのような段階を踏むかというプロセスは熟考しなくてはなりません

 

セルフプロデュースは「いかに自分を知っているか」ということと、他人(先輩の大成した作家)は「どのような展開を見せたか」ということを研究しなければなりません

それらがうまく機能した時に「物語の連続性」が生まれるので、その道筋にタイミングよく光が差し込めば、その波に乗れるのではないでしょうか

今の世の中に求められているものに、どのような自分のどの部分を投影できるか

これが職業作家として大成するための第一歩だと考えます

 


120分で人生を少しだけ良くするヒント

 

本作では近くの幼稚園に鳥が飼われていて、その鳥が発情期になると鳴きまくるという描写がありました

タイトルがそれを表しているのですが、「鳥たち」という複数形と「啼く」という言葉遣いにこだわりが感じられます

「啼く」というのは「生物が声を上げる」という意味があって、「鳴く」との違いは「何らかの思い入れを込めて「動物の声」を表現したい場合」に使われ、「鳴く」よりも「情感が伝わる」とされています(デジタル岡山大百科より引用)

補足として、「啼くは鳥が声を張り上げて鳴く場合に使われる」とのことで、映画に置き換えると「求愛行動を示す意図」というものが組み込まれているという意味になります

 

「鳥たち」は単純に飼われていた鳥が複数形だからという意味になりますが、実際には裕子以外にも「夜に啼く存在があった」からと考えられるでしょう

この映画で「夜に啼く=意図した情感を見せる」のは裕子だけではなく、慎一であったり、アキラであったりします

慎一は「執筆活動を夜に行う」ので、慎一は原稿に向かって「啼いている」と言えます

そこにあるのは、「動物としての自分」であり、言い換えれば「自身の本能的な何か」というものを原稿にぶつけているということになります

 

アキラに関しては、それまでに「寝れば起きなかった」という行動が変化していて、その行動自体を「啼く」とも置き換えられます

彼が夜にしていることは「思考」であり、「母の不穏行動の理解」「母と慎一の関係性の理解」「自分自身が生きるために何をすべきか」などがあると思います

昼に「観察」「思考」をしつつ、夜には「思考」「確認」を行なっていて、それらの学習がアキラを成長させるのですが、その根幹にあるのは「生存のための欲求」になっているのだと感じました

 

人は鳥のように「声を荒げて啼かない」ので、慎一はペンに情念を込め、アキラは視線に情念を込めています

映画では、時折アキラの視点にカメラが置き換わり、またアキラ自身の眼差しを写していきます

パンフレットでは「どちら(慎一と裕子)にフォーカスを当てれば良いか悩んだ時にアキラにフォーカスを当てた」という監督の言葉があって、その感覚がアキラの「啼く」の表現につながっているところが凄いなと感じます

「しちゃいけないセックスに溺れる二人」の映画なのですが、その大人の心の弱さを見透かしているのがアキラという存在で、ラストシーンのピザ屋に向かうシーンでは「アキラが二人の間に入って、二人に手を繋がせている」というシーンにも凝縮されていましたね

あのシーンはとても素晴らしいシーンだと思うので、今度観る機会があれば、確認していただけたら良いかと思います

 


■関連リンク

Yahoo!映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)

https://movies.yahoo.co.jp/movie/383474/review/0e2cd6a3-f536-451c-ab18-a7d7e7c5c9ae/

 

公式HP:

https://yorutori-movie.com/

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投稿者 Hiroshi_Takata

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