■コットンテールに会いに行くことで、家族は自由になれるのかもしれません
Contents
■オススメ度
ロードムービーが好きな人(★★★)
誰かを失くすということに向き合いたい人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2024.3.6(MOVIX京都)
■映画情報
英題:Cottontail(ワタオウサギの別名)
情報:2023年、イギリス&日本、94分、G
ジャンル:妻の遺言を叶えるために不慣れな土地をゆく夫を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本:パトリック・ディキンソン
キャスト:
リリー・フランキー(大島兼三郎:妻の願いをかなえるためにイギリスに旅立つ作家)
(若年期:工藤孝生)
錦戸亮(大島慧:兼三郎の息子)
木村多江(大島明子:兼三郎の妻)
(若年期:恒松祐里)
(少女期:大野さき)
高梨臨(大島さつき:慧の妻)
橋本羽仁衣(エミ:さつきの娘、4歳)
真矢みき(明子の母)
光石研(明子の父)
松崎悠希(魚屋)
植原好央(魚屋の助手)
キアラン・ハインズ/Ciarán Hinds(ジョン:大牧場のオーナー)
イーファ・ハインズ/Aoife Hinds(メアリー:ジョンの娘)
トーマス・クルーズ/Thomas Coombes(アーサー:?)
Sarah Mayhew(イザベル:列車の乗客)
Laura Smyth(ジェーン:列車の乗客)
Elinor Machen-Fortune(メイ:列車の乗客)
Jasmine Daoud(サラ:列車の乗客)
Isy Suttie(オリヴィア:列車の乗客)
Angus Barnett(アイスクリーム屋)
Dave Simon(デビッド氏:?)
Anil Goutam(駅を閉める駅員)
小林由梨(明子の主治医)
一木香乃(看護師)
Neil Holdsworth(自転車乗り)
Nicholas Peat(自転車乗り)
Simon Horsley(自転車乗り)
Tim Price(自転車乗り)
Elliot Hadley(イギリスのレストランのウェイター)
神嶋里花(日本の喫茶店のウェイトレス)
Syuho Kataoka(侍祭)
Issei Kai(寺の住職)
五頭岳夫(兼三郎のゴミ出ししている隣人)
Hiroshi Uehara(現在パートの寿司職人)
Shinobu Saito(過去パートの寿司職人)
■映画の舞台
東京のどこか
イギリス:
ウィンダーミア湖
https://maps.app.goo.gl/gvcPL3ngqwPcY3xP7?g_st=ic
ロケ地:
上記に同じ
■簡単なあらすじ
妻を亡くした作家の兼三郎は、葬式になっても気が入らず、息子の慧に叱責される始末だった
無事に葬式を終えた二人は住職に呼ばれ、そこで妻・明子が残した手紙を受け取る
そこには、「私が死んだら、ピーターラビットの故郷でもあるウインダミア湖に遺灰を撒いてほしい」というもので、その想いを初めて知った兼三郎は動揺を隠せなかった
一人で行かせるのを不安に思った慧は、自分の妻・さつきと娘・エミの分も合わせて切符を手配し、4人で湖に向かうことになった
だが、イギリスに着いてから「1秒でも早く行きたい」と思う兼三郎は情緒不安定になってしまい、エミを勝手に連れ出したことで慧と喧嘩になってしまう
兼三郎は単独行動に出て、一人で向かうものの、乗る電車を間違え、見知らぬ田舎町へと迷い込んでしまう
丘を越えて、広大な大地を彷徨う兼三郎は、ようやく農場を見つけ、その門戸を叩くことになった
そこには父娘が住んでいて、娘のメアリーは兼三郎の事情を聞いて、彼をウィンダミア湖に連れて行くことになったのである
テーマ:妻の想い
裏テーマ:残された家族の結束
■ひとこと感想
日英合作の映画で、情報を探すには英語でググるしかないほどに、日本語での情報量が少ない映画になっていました
エンドロールも案の定全部英語で、ロケーション情報などはほとんど読むことができませんでしたね
クレジットには光石研と真矢みきが載っていて、この二人が明子の両親という設定になっています
とは言え、どこで出てきたのか全くわかりませんでした
物語は、妻を亡くした夫が「妻の遺言に向き合う」というもので、それが「ピーターラビットの聖地に行って遺灰を撒く」という願いになっていました
イギリスの湖水地方にある大きい方のウインダミア湖(ウィンダーミア湖)で「写真の場所を探す」という無理ゲーだったのですが、地元民の一言で一気に近づく展開となっています
ちなみに、ガチでウィンダーミア湖をグーグルマップで散策してみましたが、「ここだ!」というところまではわからなかったですね
おそらくはベル島があるあたりの西側の湖岸だと思いますが、ストリートビューでも木が邪魔で全く見えませんでした
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
どこらへんまでがネタバレになるのかはわかりませんが、明子の死によって、険悪な仲になった父と息子が関係を修復するに至るという物語になっていました
どの時点から折り合いが悪かったのかはわかりませんが、兼三郎が自分の世界に入ったまま、妻や息子と向き合ってこなかったということだけはわかります
そんな中、明子に認知症が見つかり、おそらくはアルツハイマー型だと思いますが、それによって、全介助生活というものが訪れます
兼三郎が専任するかたちになっていますが、その介護も自分よがりな感じになっていて、最終的には慧の介入によって、施設に入ることになっていました
明子を守るという信念だけで周りが見えていなかったのですが、それによって、どちらにも苦しい生活が続いていたように思えてしまいます
ウィンダミアにたどり着いた兼三郎は、そこで「明子の願い」というものを慧に伝えます
それは「もうダメだと分かったら」というものでしたが、兼三郎にはそれができなかったのですね
できたとしても、できなかったとしても、慧は聞きたくなかったと思うのですが、はっきりしたことで、二人のつっかえが取れたように思えます
ラストは、ウサギを追いかけるみんなが描かれていて、ほのぼのとした景色で終われたのはよかったと思いました
■最期まで夫婦でいるために
本作は、認知症を患った妻を介護し、最終的には夫のことを忘れてしまったまま亡くなるという流れになっています
この別れ方は今の社会の一般的な別れ方で、ほとんどの人が避けて通れない道にように思えてしまいます
私の場合は、妻が認知症になったわけではありませんが、閉塞性黄疸という状況になり、最後はほぼ意思疎通ができないような状態になっていました
こちらの言っていることが伝わっているのだと思いますが、レスポンスを汲み取れないので、会話としては成立することはありません
この体験からわかるのは、日々いかにして近い存在で、多くのことを知っているとしても、それが通用しない瞬間が訪れることが理解できた、ということなのですね
生前に「今後どうなるか」をやたら気にしていて、私の知る限りで「今の病状から予測される今後」というものを説明していきました
妻の意識があった段階では、腫瘍による影響というよりは、肝臓に転移した故の肝機能障害が起こっていて、それによって黄疸が出始めるという状況でした
その際に「身体中が黄色くなって痒みが出現した」のですが、これの対応策として、内視鏡による閉塞の処置しかありませんでした
すでに全身状態が悪い状態だったので、リスクの方が大きくて行えません
この状態から移行していく流れというものを妻に説明し、やがては脳の方に移動して意識朦朧となっていくだろうという予測を立てました
そこからは、痒みには外用薬で対処し、徐々にせん妄状態となって意識が混濁していくようになっていきます
やがては訴えが言葉にならなくなり、ジェスチャーで想像するしかないのですが、ものすごく単純なことでも伝わらないのですね
ここからは想像の世界になりますが、意識が混濁していくという予測が妻の認知としてあって、それによって自分の状態はなんとなく理解できていたのではないかと思います
現代の医療では、技術のみならず、様々な研究によって予後というものがどのような変遷を得るかを事前に知ることができます
体験談などもネット上に溢れていて、そこから得る「恐怖と安心の関係性」というものは奇妙なもののように思います
訪れる未来がイメージできると、最初は恐怖のように思えるのですが、体験のゾーンに入ると既知のことのように思えるのですね
そうした感覚が「安心」というものを生んでいくのですが、このカラクリを妻は知っていたのでしょう
なので、意識がしっかりしているうちに「どうなるのか」を知りたがったのかな、と感じました
夫婦は最後まで他人の理解が及ばない世界を生きていくものだと思います
私のケースもおそらくは特殊で、仕事柄知り得ることもあったし、それを伝えることに迷いがなかったとこで時間が十分に取れたということもあります
どうしようか悩んだ時は、相手の意思を最優先するということを決めておけば、貴重な時間を自分の感情の揺らぎで浪費することはなくなります
後悔や苦渋などは、終わってから浴びれば良いので、それらは全て喪失と一緒に流れて行くものでしょう
なので、同じような体験をするかもしれない人は、どうかその瞬間(期間)だけは自我を忘れて、尽くしてあげることが最良であると信じれば良いのだと思います
■タイトルが紡ぐ明子の信念
映画のタイトルでもある「コットンテール」はワタオウサギの別名で、灰色または褐色の被毛をもち、白い尻尾を持っている小型のウサギのことを言います
綿を意味する「Cotton」と尻尾を意味する「Tail」から成る言葉となっています
ヘレン・ビアトリクス・ポター(Helen Beatrix Potter)が1902年に出版した『ピーターラビットのおはなし(TheTale of Peter Rabbit)』に登場するウサギで、この物語は「擬人化されたウサギの一家の物語」でした
イタズラ好きのピーターは、母親の言うことを聞かずに畑に入って野菜を食べてしまい、畑の主に追いかけられると言う物語で、子ども向けの絵本として人気を博していました
この物語は、ポターの5歳の息子のために執筆されたもので、当初は自費出版されたものでした
その後、いくつかの出版社に断られ、1902年にフレデリック・ウォーン社より商業出版されることになります
現在では、36ヶ国語に翻訳され、4500万部を越えるベストセラー作品となっています
明子がこの本にいつ出会ったのかは言及されませんが、おそらくは幼少期に出会ったものだと考えられます
ピーターラビットのネックレスをしていて、兼三郎から見た印象だと、ピーターラビットに憧れを持っていると言う感じで描写されています
彼女は死ぬまでにピーターの生まれ故郷に行きたいと考えていて、それが叶わぬままこの世を去ることになっています
住職に託した遺書に「ウィンダミア湖に遺灰を撒いて欲しい」という願いを託し、兼三郎としては「そこまで思い入れがあるのか」と驚いていました
彼女がピーターラビットに固執する理由は映画では明かされませんが、おそらくは「外の世界への憧れ」と言うものを持っていたのでしょう
その憧れは「兼三郎に外の世界を見せること」という目的に変わり、「自分の死によって閉じこもらないように」と言う願いがあったように思えました
彼女があの遺書を遺した時期はわかりませんが、おそらくは自分のことがわかるギリギリの時期で、兼三郎が自分の介護や看病に付きっきりになっていた頃だと思います
妻の死は兼三郎にとっては「解放」ではありますが、彼女の死は「束縛」になる可能性もありました
それを見越した上での「涙も乾かぬうちに」と言う意味を込めて、すぐに旅立つように仕向けたのだと思います
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
本作は、妻の遺言を叶える旅に出ると言うロードムービーですが、一方では旅を通じて父と息子が和解する旅にもなっていました
兼三郎と慧はほとんど口も利かない状態で、その原因が後半になって明かされると言う流れになっています
終末医療に対して、明子は「どうにもならなかったらあなたの手で」と言う言葉を残していて、それを実行したのかどうかと言う謎があったのですが、慧としては「その言葉を知らなくても」看病疲れから何かをしたのでは?と言う疑念を持っていたことになります
とは言え、実際には慧がそのような感情を持っていたのではなく、兼三郎が「慧は自分をそう思っているのではないか?」と言う恐れを抱えていただけだったりします
その罪悪感、背徳感のようなものから慧をまともに見ることができなくなり、それが距離感を生んでいくのですが、それは「兼三郎が自分の世界に閉じこもりがちだった」と言う実生活というものが起因となっています
慧の幼少期の父との関わりというものが、「仕事を理由にした距離感の創出」となっていて、子ども目線で言えば「寂しかった」ということになります
慧は父の本音を創作物の中から紐解くしかなく、そこに書かれてきたものの答え合わせをできないまま過ごしてきました
慧の中には「自分と向き合ってくれなかった父」というものが明確にあって、同じようなものが明子の中にもあったのだと推測できます
明子は慧が父親に対して思っていることが想像できる立場にあって、それを死後の懸念材料のように感じていました
自分自身の介護や看病をほぼ自分で成す兼三郎は、慧の介入を妨げていくのですが、それは使命感のようなものだったと言えるのでしょう
慧にはその時点で家族がいて、それが負担になると考えているのだと思いますが、その思いは空回りしていて、疲弊していく父を見ることは慧にとっての苦痛でもあったと思います
さつきはその二人を客観的な目線で見ているのですが、夫の献身というものと親子愛の噛み合わなさというものを見ていて、それが辛いものだったという印象を持っていたのでしょう
おそらくは、慧が父に対して持っている疎外感というものが、彼女たちの家庭内にも影響を及ぼしていて、それが枷になっている部分があったのだと思います
映画は、凝り固まった兼三郎の思考を柔和にする旅を描いていて、子どもを持つ親が抱える時間差の感情というものを描いていきます
旅先で出会うメアリーとその父ジョンも同じように「妻(母)の喪失」というものを抱えていて、そんな彼らの行動の起点も子ども側だったりします
メアリーは兼三郎と父がダブって見えるところがあって、それゆえに「ウィンダミア湖に行って家族と再会させなければならない」と感じています
ジョンは息子を頼らない兼三郎の心情が理解できるのですが、彼はそれを強要しないのですね
この辺りはジョンが乗り越えてきたものがあって、自分の心の向きが自然と変わるまでは意固地になることを知っているのだと思います
映画は、最終的に家族と再会する兼三郎を見て安心するジョンとメアリーが描かれ、その暖かみというものが伝播していく様子が描かれていました
兼三郎が抱えてきたものは慧にとっても大きな問題になっていて、それを共有することができたことで、二人の溝が埋まるという内容になっています
去り行く人は残された人たちに向けての何らかのメッセージを残すことが多いのですが、そこで発せられるものは本質をつくものが多いように思えます
面と向かって言えないことを置き去りにはできないという感情が最後には働くので、そのメッセージを正確に理解することができれば、真の解放へと向かうのかな、と感じました
■関連リンク
映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
https://eiga.com/movie/94820/review/03569268/
公式HP:
https://longride.jp/cottontail/index.html
