■「こいびと」は、日常であなたが目にする人の中にいるものだと思います
Contents
■オススメ度
視点の違う恋愛観を持った男女に興味がある人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2023.11.2(アップリンク京都)
■映画情報
情報:2023年、日本、99分、G
ジャンル:人から変わっていると思われている男女の恋愛模様を描いたラブロマンス映画
監督:前田弘二
脚本:高田亮
キャスト:
倉悠貴(大島杜和:園子に恋する植木屋の手伝い)
芋生悠(上尾園子:杜和の想い人、コンビニ店員)
川瀬陽太(大沢和樹:自称元役者の造園業)
奥野瑛太(脇坂治:杜和の職場の先輩)
高田里穂(美咲:大沢と良い感じになる園子の昔のモデル仲間)
松井愛莉(ユイ:園子の昔のモデル仲間)
並木愛枝(宮田里美:コンビニの店長)
小沢まゆ(松原佐智子:植木屋の客)
宇野祥平(シマバラ:理容店の店主)
吉岡睦雄(吉岡:理髪店の客)
ボブ鈴木(ボブ:理髪店の客)
河屋秀俊(河屋:理髪店の客)
河野智典(河野:理髪店の客)
フランク景虎(フランク:焼きそばを買ってくる理髪店の客)
成田凌(慎治:園子の訳あり)
■映画の舞台
日本のどこかの地方都市
ロケ地:
東京都:西多摩市
藤太軒理容所
https://maps.app.goo.gl/8EKJnD5AdMLV4aRh9?g_st=ic
東京都:国立市
矢川上公園(休憩場所)
https://maps.app.goo.gl/VQ1SUaHFzn6KCSvk7?g_st=ic
東京都:府中市
小柳公園
https://maps.app.goo.gl/4N6BAv7e5jBwvid17?g_st=ic
大道北公園(園子の展覧会)
https://maps.app.goo.gl/RMzBPtmRcE3FKe8U7?g_st=ic
東京都:三鷹市
ヒロマルチェーン 三鷹井口店
https://maps.app.goo.gl/kd55KpmA9WvhFWV5A?g_st=ic
■簡単なあらすじ
都内で植木屋の手伝いをしている杜和は、近くにあるコンビニ店員の園子に恋をしていた
杜和はそのことを先輩の脇坂や社長の大沢にいうものの、彼らは同じ話ばかりされてうんざりしていた
彼はポケットに新聞記事を忍ばせていて、それは会話の種になるものの、大沢も脇坂も全く興味を持っていなかった
ある日、大沢から「声の掛け方」を教わった杜和は、その通りに園子に声を掛ける
そして、その仲は急速に進展し、弁当を作ってもらう仲になってしまう
また、園子の友人を集めた合コンも行われ、大沢も脇坂も巻き込まれていしまう
杜和と園子は、その後も時間を共有し、お互いのプライベートゾーンにも踏み込んでいく
だが、園子には杜和に言えない秘密を抱えていたのである
テーマ:魂の休息場所
裏テーマ:幸福を望むことが愛
■ひとこと感想
『まともじゃないのは君も一緒』のコンビの再来で、一風変わったカップルの恋愛劇になっていました
世間的には「変わった人」と言われる杜和と園子ですが、彼らの目線だと世間が変わっているように見えます
この相対的な視点の交錯に面白みがあって、飽きない構成になっていたように思えました
映画は、後半で映画の色がガラッと変わってしまう構成で、これまでのほのぼの感から一気にシフトチェンジしてしまいます
このチェンジ後の世界はどちらかと言えばまともな世界にも思えてきて、その関係性の破綻というのは必然のように思えます
でも、映画の結末はそこまで単純なものではありません
一風変わったというものを突き放して観るかで変わってきますが、その人なりの真実というものは意外なほどに共感できるものだったりします
普通でいることが苦痛な人にとっては、共感できる部分が多いのではないでしょうか
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
タイトルは『こいびとのみつけかた』というもので、物語は「すでに見つけた状態」から始まっているという不思議なものになっています
そのままの意味だと「恋愛のことがわからない人」が「自分にとっての恋愛ってなんだろうか」と考えるというニュアンスになりますが、本作の場合、主人公たちはそれをクリアした段階にありました
恋人になるにはどうしたら良いのかという感じになっていて、「見つける」という意味ではないように思います
「こいびと」という文字がひらがなになっているので、「恋人」とは少し意味が違うのかもしれません
恋愛感情ではない「好き」がそこにあって、それを見つけるという意味合いであれば、どちらかに夫婦関係があっても問題ように思え、その線引きというのは非常にきめ細やかなものになります
本作では、園子に夫がいて、それでも「家庭を築きたい」「セックスをしたい」という関係ではないものを見つけるというニュアンスになっていました
社会通念的には不倫に見えますが、一線を超えていないし、秘匿でもないという感じになっているし、夫婦関係を破綻させる目的もない
そういった新しい男女の関係性が、本作の中では「こいびと」という意味合いになっているのかなと思いました
■恋愛以上、恋人未満
本作における杜和と園子の関係性は、恋愛感情を有しているものの、恋人という関係にはないように思います
これは恋人という概念によると思いますが、本来の恋人の概念は「恋の想いを寄せる人」のことを指すので、付き合っているかどうかは関係なかったりします
また、相思相愛の関係であることが恋人と言えるので、付き合っていても、どちらか一方の想いが醒めるか消えていれば、恋人とは呼べないと思います
ちなみに、「彼氏、彼女」という言い回しは、「現在交際している相手」のことを言い、過去だと「元カレ、元カノ」という言い方になりますね
恋人状態は盲目で、それが永遠に続くと思っている段階で、それが「彼氏、彼女」と誰かに紹介する段階で、ある程度の熱は醒めていると言えるのかもしれません
恋とは、好きな相手ができて夢中になっている段階で、その想いにフォーカスが当たります
なので、その先(とは限らないけど)にある肉体関係とは別次元の状態になります
この肉体関係を目的とすると恋愛からははみ出していき、恋人の状態で相手への想いなどを確認し合うように自然に発展していくと、それは状態を維持したままという感じになります
このあたりの線引きは非常に難しいのですが、なんとなく境界線がわかってしまうところがすごいところかもしれません
恋人とは、想いを寄せている人々を示し、その想いをお互いに承認している状態になります
これは社会的な夫婦という関係とは別のものであり、この状態だと不倫という定義に当てはまらないのが面白いところなんだと思います
でも、社会的通念に囚われている園子は、杜和の想いを拒絶することになります
最終的には、関係性の発展を杜和が望まないために園子は彼の元に行くのですが、それは「園子と夫の関係から恋愛感情が消えている」という証拠になっているのが切ないところでもありました
■「こいびと」を探している人へ
本作における「こいびと」とは特殊な意味を持っているように見えますが、単純に「恋焦がれる人」という意味になると言えます
タイトルは、まるでハウトゥーかのように「みつけかた」となっていますが、この意味は「本当の意味でのこいびとを見つける方法」となっていて、従来の体を求め合うとか、付き合うという関係性から導かれる恋人観の破壊のように思えます
「こいびと」というのは、探して見つかるものではないのですが、相手に自分を認知させるという意味合いでは、見つけ方というものがあるように思えます
今回の杜和は、落ち葉を並べて自分のところまで来させるというもので、大人がやるようなことではありませんでした
こいびとを見つけるには、人をたくさん見るしかありません
認知なくして感情も動かず、どれだけ多くの人と接しているかどうかと言うのが決め手になると思います
こいびとと出会う確率は天文学的のように思えますが、地球の裏側にいるわけでもなかったりします
1日に数100人以上の人とすれ違うと思いますが、どれだけすれ違った人のことを覚えているでしょうか
こいびととの出会いは確率論のようなもので、こいびとになる相手もタイミングが出会わせるものだと思います
杜和があのコンビニに行ったこと、そこで店員さんのことを認知したことというのは誰にでもあるように思えますが、日常のルーティンの中でスルーしている人も多いと思います
他人にどれだけ関心を向けられるかと言うのはキーポイントになっていて、自分が認知する時は相手が自分を認知する瞬間でもあります
そのような邂逅を増やし、自分の感情に素直になることで、「こいびと」を見つけられるのではないでしょうか
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
本作は、一見して普通ではない男女の恋愛を描いているのですが、このようなカップルもどこかに存在すると思います
一般的=マジョリティーと言う観点だと、それは大多数が通る道のように思えますが、たいていは総論で語られるものでしょう
杜和が変な人認定されているのは、それぞれの行動がそこまで特異でなくても、特異なものが重なっていることで強調されている面があるように思います
話のネタのために新聞記事を持ち歩いていると言う人は、現代だとスマホのウェブ記事をブックマークしている人も同じカテゴリーだったりするのですね
彼の出自は社長が詳しく知っているように、幼少期の家庭環境が原因で普通とは違った感覚を有しているように見えます
実際には、自分が思ったこと、行動したことに関するレスポンスの欠如が行動を変えていくもので、肯定的な親、否定的な親のどちらかだったかで変わっていくこともあります
杜和のように、幼少期のレスポンスレス状態があると、その行動が世間的に見てどうかと言うような問いが生まれにくののですね
なので、彼は子ども的な感覚と行動を有しながら、自分自身を自分自身で肯定して生きてきたのだと感じました
自分を否定する人は人と比べがちなのだと思いますが、この感覚も親が植え付けるものだと思います
誰かより秀でることを良しとする社会構造において、自己研鑽よりも他者よりも秀でることを奨励する風潮があり、それによって親が描く理想的な子どもと競っている場合もあります
そう言った囚われから解放されているのが杜和と言う人物なので、その感覚が共有されないのは仕方ないのかもしれません
本作では、一風変わった男女の関係が描かれていて、その帰結も普通の感覚とは違うものでした
でも、普通と比較することもほど無意味なものもないと思います
なので、吸収できそうな要素を見つけるといった趣の方が良いのかなと思ってしまいました
■関連リンク
映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
公式HP: