■今の状態を幸福だと考える概念が浸透した時、資本主義社会は終わりを告げてしまうのかもしれません
Contents
■オススメ度
地方の風習っぽいホラーネタが好きな人(★★★)
■公式予告編
鑑賞日:2024.1.22(アップリンク京都)
■映画情報
情報:2024年、日本、89分、R15+
ジャンル:祖父母の家に帰省した孫が遭遇する奇妙な風習を描いたホラー映画
監督&脚本:下津優太
キャスト:(孫を起点、わかった分だけ)
古川琴音(孫/帰省する看護学生)
(幼少期:久保留凛)
松大航也(父の農家を継ぐ孫の幼馴染)
犬山良子(孫の祖母)
有福正志(孫の祖父)
西田優史(孫の父)
吉村志保(孫の母)
名本伊吹(孫の弟)
橋本和雄(謎の男)
野瀬恵子(孫の伯母、孫の父の姉)
増永成遥(いじめられてる中学生)
倉田響(いじめっ子?)
阿部桜々(孫の友人)
斗哉(孫の友人の彼氏)
後藤了介(謎の男を轢く住民?)
河村純子(畑の老女)
原愛音(東京のカップル)
森康太(東京のカップル)
高見慎一郎(医者)
大幡華子(窓から覗く女?)
■映画の舞台
日本のどこかの地方都市
ロケ地:
福岡県:田川郡赤村
https://maps.app.goo.gl/1bRN5GqT5aNGeU778?g_st=ic
■簡単なあらすじ
東京の看護学校に通っている「孫」は、実習期間を終えて時間ができたこともあり、祖父母が住んでいる実家へと帰ることになった
一緒に帰るはずの両親と弟は遅れるとのことで、ひとまず一人で祖父母に相対することになった
祖父母はいつもと変わらぬ様子だったが、2階のある部屋から音が漏れ聞こえてきて気になってしまう
だが、その扉は施錠されていて、何かがいるはずなのに、祖父母は何もないように振る舞っていた
地元には「幼馴染」がいたが、彼は父が怪我をしたために農業を継いでいた
だが、祖父母は「幼馴染」のことを疎ましく思っていて、「二度と会うな」と叱りつけた
そしてある夜、「孫」は廊下に這いつくばる「謎の男」を目撃してしまうのである
テーマ:幸せの有限性
裏テーマ:幸と不幸の関係性
■ひとこと感想
キャラクターに名前がついていない映画で、劇中では不自然なほどに名前を呼び合っていませんでした
ここまで会話が不自然になるなら名前をつけりゃいいのにと思いますが、その意図はあまり映画からは伝わってきませんでした
ネタバレがない方が良い作品ですが、ホラーと思うよりも「ホラーコメディ」だと思った方が良い感じがしますね
この地区の風習のようで、地元の素人の人が参加されているのですが、それゆえに「キャスト情報」を調べるのは不可能に近いと思います
物語性はさほどなく、「孫」が風習を受け入れるかどうかというところなのですが、疑問が残りまくる典型的なホラーだったように思います
それは、その風習がどうやってできたかというものではなく、前提としての「誰かの不幸の上に、誰かの幸せは成り立っている」が破綻しているように見えるからだと思います
↓ここからネタバレ↓
ネタバレしたくない人は読むのをやめてね
■ネタバレ感想
映画は、誰かの不幸=生贄という感じになっていて、生贄がいることでその一家が幸せでいられるという設定がありました
ある種のメタファーではありますが、映画における生贄になる人が不幸なのかどうかは誰にもわからないのですね
助けた中学生が「生贄になってもいい」という感じに進言したり、「幼馴染」が「生贄になろうと孫の手を掴んで首を絞める」というものもありました
この二つは「自分の犠牲で誰かが幸せになる」という考えで行動を起こしていて、その犠牲的精神を本人が不幸だと感じているのかは別問題なのですね
なので、客観的に見れば相対的不幸ではあるものの、精神的不幸かどうかはわからないし、むしろ「進んで犠牲になる」というのは「不幸というより奉仕」に近い印象があるように思えました
映画は、「それが幸せだと信じる=受容する」という図式のもと、彼らは「自分たちは幸せだと思い込んでいる」のですが、危険を冒してまで得るというバランスの悪さがあるように思えます
もっとも、映画的には暗喩を織り込んでいて、「あなたは誰かの幸せのために奉仕する側にまわれますか?」と問うているようにも思えてきます
それゆえに、幸せの絶対量が決まっている世界だと、それを喜んで受け入れることで幸せに近づくという構図になっているのかな、と感じました
■幸せとは何か?
本作は、「世界における幸せの絶対量が決まっている」という前提があり、その中で「奪い合う」という設定になっていました
無論、世界における幸せの絶対量というものは存在せず、有限な資源に例えるとしても、資源の絶対量など神様しかわからないので例えようのない設定になっています
物語としては、「誰を不幸にすることで幸せになれる」という思い込みがあって、これを誰もが信奉しているというものがありました
現実にはあり得ないので、「もしも幸せの絶対量が決まっていたら」というスタンスで観る方が良いと思います
映画を観て疑問に思ったのは、「不幸とされる側は犠牲を幸福だと捉えていないか?」というもので、いわゆる「志願兵」が劇中では少なくとも二人出現していました
一人はいじめから助けた中学生で、もう一人は幼馴染ですね
中学生は「ぼくで良ければ」みたいな感じだし、幼馴染は「俺が犠牲になってやる」みたいな感じになっていました
もともと2階にいた謎の男は「逃げ出そう」としていたので、彼が犠牲を甘んじているわけではなし、近所の人も「うちはやめてね」という感じの対応だったので、誰もが率先してなりたいというものではないはずなのですね
でも、この二人は孫との関わりの中で、感謝と愛情を以って、孫のために不幸になっても良い、と考えるに至っていたように思えました
この構図を考えた時、風習を支持している側は「主体的に相手が不幸であると認定している」のに対し、「犠牲になる側は不幸だと認識しているかどうかは人それぞれ」ということになっているのですね
第三者視点(ある家族に関わらない近隣住民)からだと、あの家の人は幸せで生贄は不幸に見えているのですが、実際にはどうかわからないということが見えてきます
どこかで始まったこの風習が「自分は生贄側になりたくない」という思想のもと、同じ思想を以って伝播していったように思えてくるのですが、その流れの中でも逆の視点で生贄になりながら幸せである、と考える人間も出現するようになった、とも言えるのかもしれません
映画の過去の話は分かりませんが、この孫の出現によって地域の風習に対する見方の転換点が訪れているようにも思えます
それが中学生と幼馴染という存在で、彼らは孫のためならという意識を有していました
それを奉仕と呼ぶのか自己犠牲と呼ぶのかはわかりませんが、このような「もしも」の世界でも「幸せというものの定義は変わる」ということを描いているように思えてきます
■勝手にスクリプトドクター
映画は酷評の嵐で、鑑賞を躊躇するようなぐらいの言われようになっていました
このような映画でも進んで観る変態なのですが、それはこのコーナーがあるからなのですね
なので、「どうやったらこの映画を面白くできるんだろう」という目線で、敗因探しをしながら鑑賞するに至りました
映画をざっくりと観た感じでは、幸せの絶対量が決まっているという前提にリアリティを感じないというのが1番の理由で、あとは「共感できるキャラがいない」「ホラーではなくコメディ」などの理由があったと思います
単純に言えば「つまらない」のですが、その理由としては「素人器用による棒読み演技が酷い」というもので、物語に入り込むための要素が悉く潰されているように感じました
素人に演技をさせるというのはシナリオで何とかできる問題ではありませんが、それでも極力セリフを削る、風習関連ならその風習などの儀式のシーンで使う、という対策もできます
素人であることを逆手に取って、複雑なシーンに登場させずに「彼らの日常の延長線上」を演じてもらうことになります
コメディになっている部分は、最近の流れの一つになっているので、純粋なホラーだけでは成立しない、もしくは興収が上がらないという現実があるのかもしれません
とは言え、ユーモアを入れて緩衝材にするのと、コメディに振り切って怖さを減少させるというのは意味が違います
必死になって行動している人間の愚かさがおかしく映るというものならばそこまで気にはならないのですが、生贄になる前の踊りなどは、明らかに笑わせるつもりで作り上げているので、怖いシーンの雰囲気が完全に壊れていると思います
古川琴音の鬼気迫る演技があったとしても、あのシーンのイメージだけが強く残り、ホラー映画を観たというよりはコメディ映画を観たという感覚になってしまいます
これでは「ホラーで観客を呼び込んで満足させられていない」ということになっているので、それでは本末転倒になっているように思えました
本作のメインは奪い合いなのですが、それが他の場面でも連動していないのも問題でしょう
例えば、スーパーに行けば客同士が商品を奪い合っているとか、農業を行っているとしても、醜い土地争いに晒されているなども良いと思います
中学校でも座る席の奪い合いなどで印象付けることもできるので、現実ではあり得ない設定を強く印象付ける意味でも、テーマを別の行動や状況で重ねてみても良かったのではないでしょうか
とは言え、パンツ一丁のおっさんが恍惚の表情で踊ってしまえば、何をやっても無駄なような気がしないでもありません
■120分で人生を少しだけ良くするヒント
本作は、現実にあり得ない幸福量の奪い合いなのですが、現実的には資源、食料、仕事などは奪い合いという構図になっています
また、成功というものも奪い合いになっていて、誰かの成功は誰の失敗によって支えられていて、企業の収益などもライバル会社を蹴落として得ているという現実があります
これらの経済的なパイの奪い合いというのは富の奪い合いになっていて、裕福であること=幸福という資本主義と物質主義に支えられた価値観というものがありました
この流れに意を唱える人もいて、慎ましく奪うことなく享受するというもので、必要以上の富を得ることもなく、その日を豊かにするために、現在の苦難の原因である幸福性から逃れようとしている人もいます
資源の有限性から生まれたのがリサイクル、リデュース、リユースという概念で、富の有限性を是正するのが本来の税金の役割であると言えます
資源に関してはイメージ先行型の誘導がなされていて、その最たるものが紙のストロー、レジ袋の有料化という動きに繋がっています
割り箸がどのように作られているとか、海洋汚染の根幹的な問題は無視して、あたかも効果があるようなわかりやすそうな目標だけを率先しているのが現実でしょう
エコバックの推進などがあっても、1000円のエコバックと3円のレジ袋だと334回使って経済的に意味があるみたいなことになっていたりしますね
レジ袋の削減よりも、プラスチック製品の海洋投棄が問題なのに、あたかも一般市民がレジ袋を海に捨てまくっているという印象を受け付けて、一部の行動の責任を全世界の人間で負担しているというわけのわからない構図になっていたりします
税に関しては、本楽は偏った富を再分配するという名目があり、徴収された税金というのは、誰もが平等に使うものに充てられるというのが一般的な考え方だと思います
でも、現在では国民から剥ぎ取り、中小企業を脱税呼ばわりしてインボイスを導入し、その裏ではキックバックで私腹を肥やし、バレたら「実は政治団体をちゃんと通していますよ、いつ通したか覚えてないけど」がまかり通る世の中になっています
現在進行形の問題がどのように動くかはわからないのですが、社会規範と基盤が壊れたときに発揮される暴力性というものは、人間の歴史そのものだと言えるので、何を誘発するのかはわからない状況になっていると言えます
現在では、そういった暴力性の矛先を下級同士に向かわせるという世論誘導を行い、何かした問題が生じたときは別の派手な問題で覆い隠すということが普通に起きています
それに流される国民性というものを見透かされているのですが、流されている世代とそうでない世代の間で分断が起こっているというのも事実なんだろうと思います
幸福というのは相対的なものではなく、主体的な価値観に基づくという概念も広がりつつあるので、これまでの消費を中心とした奪い合いの社会は変化しつつあると言えます
そう言った意味では、幸福の有限性という世界の中において、「幸福を追求することをやめよう」と行動を変える人間の登場というのは必然のように思えてきます
とは言え、この概念が理解できる国民性というものも徐々に失われつつあるので、世界はさらに殺伐としているのかなと思ったりもしてしまいます
■関連リンク
映画レビューリンク(投稿したレビュー:ネタバレあり)
https://eiga.com/movie/98432/review/03397985/
公式HP:
https://movies.kadokawa.co.jp/minasachi/